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日本語に「飢える」

 新聞の朝刊が毎日届く。ニュース、スポーツ情報、囲み記事、連載小説、書評欄、テレビ欄、書籍広告、、、。紙面のほとんどはざっと流すだけで内容までじっくり読む記事は少ないが、良質で豊富なコンテンツが毎日手許に届くシステムは人類の偉大な発明のひとつだ、とすら思う。4000円を超える購読料も決して高くない。

 紙に印刷してそれをいちいち人間が配達するという「コスト」がどこまで持続できるかは不明だ。私も「コンテンツを読むだけなら紙でなくても」という気分が大きくなっている。もし電子版がぐっとお安くなれば紙契約というビジネスシステムはあっという間に崩壊するかもしれない。ま、新聞社にとっては販売店対策も大切だからそれはできないのだろう。

 さらに「雨で濡れた靴に入れるとか、新聞紙って意外と使いみちもあるよね」と思うが、最近は近所のダイソーのレジ脇に古新聞が置いてある。「情報の新鮮さという“魂”の抜けちゃった新聞ってやっぱりほとんどゴミだけど、それでも構わないという日本人が激増しているんだな」と、見かけるたびにモヤモヤする。

 大学を卒業するタイミングで「卒業旅行」に行かせてもらった。オーストラリアとニュージーランドを一人で2週間ほどかけて周遊した。

 実家暮らしだったために「ひとりでのんびりブラブラするのもいいカモね」と考えたのだと思う。しかし、観光をしても食事をしてもその感想を誰ともシェアできない日々というのは、まさに「無味乾燥」であった。

 なにしろ80年代だ、ネットもスマホもない。本は持参していたのだろうが、とにかく日本語と日本の情報が恋しくてならない。地元の新聞を買ってみても、日本のことなどは1行も載っていない。好きだった同級生女子に1回だけ国際電話をかけた際に「国会の売上税審議はどうなった?」と聞いたが、「わかんない」と言われたことを強烈に思い出す。

 シドニーでは私より遅れて現地入りした友人と待ち合わせをして食事をした。マスコミ就職のための私塾の同期で、一橋大からNHKへ進むことが決まっていた才女。日本を出た日の毎日新聞夕刊を「もう読んだからいらない」というので、ありがたく頂戴した。夕刊なのでわずかな分量だったが、それでもたっぷり日本語を読めるのが嬉しく、旅行中ずっと携行していた。記念にとっておけばよかったな、と思う。

 21世紀のいまは、インターネット環境さえあればすぐに日本語ニュースサイトにつながる。本だって電子書籍なら嵩張らずに持っていくことができて、新刊も購入できる。もちろん仕事のメールもチェックすることになる。

 薄っぺらい夕刊を後生大事に読んでいたシドニーを思い出すと、「あれはいまではできなくなってしまった“日本語に飢える”という貴重な経験だったな」と思うのだ。
(23/3/26)


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