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「昭和は遠くなりにけり」

伯母の1周忌にあたって親しい親戚で墓参をした。

故人のひ孫は現在4歳と1歳。うちの両親は80代後半になった。両者の交歓を見ていると、年齢の隔たりはもちろんあるが、そこには連綿と続く世代のつらなりも感じられて、不思議な気分になる。「この子たちは22世紀の半ばまで生きているかもしれないね。その頃に日本が、人類がどうなっているか、想像もつかないね」などと話していた。

数年前に他界した故人の兄は100歳を目前にしていた。戦後アメリカに渡って国籍を取得して連邦職員になった。「なにしろ兵隊さんとしてアメリカと戦っていた人だから、国籍取得は大変だったらしい」という苦労人だ。

その伯父が昭和中期に一時帰国をした際にアテンドした甥(こちらももう70歳を超えた)が話してくれた。「なにしろアメリカにいるから日本の高度経済成長を知らなくて、お土産に女性用ストッキングなんかを得意げに持って帰ってきたんだよね。東京の変貌ぶりに驚いていたなあ」。

昭和38年に生まれた私にとって“戦後”はごくアタリマエに現在との地続きで、太平洋戦争とその後の混乱ぶりは教科書とドラマの中の出来事だが、ふと考えると生まれたのは終戦からわずか18年後だったのだ。18年なんて、ついこの前のことだゾ。

中村草田男が「降る雪や 明治は遠くなりにけり」と詠ったのは昭和6年だという。その時点では「遠くなった」と言われる明治が終わったのは“わずか”21年前だったのだ。実は、昭和が終わってからまもなく34年。本当に遠くなったものである。

昭和8年生まれの父の感慨は「明治維新から自分が生まれるまでの方が、年齢よりはるかに短いんだよね」。維新から父の誕生までが65年。その父も88歳になった。墓参した多磨霊園そばにある「新選組・近藤勇生誕の地」を通りかかったあとだったのだが、「そうか、ちょんまげが刀を振り回していたのもそんな昔でもないんだなあ」とびっくりする。

核家族化が進む現代社会では葬儀や法事に集まる親戚も少なくなってきた。だからこそ、このようにたまに集まった際に昔話をすることは、楽しいだけではない重要な意味があるように思う。会える時に会っておかないと、あとからは取り返しがつなかいのだから。
(21/11/14)


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