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天文学史7『イスラム天文学/中世ヨーロッパ天文学』

中1の時に書いたやつの続き
  中世の中東の天文学は7世紀頃にメッカやメディナのある地域から突如出現し、ローマ領のアラビアやエジプトを奪い、ペルシアを滅ぼしたイスラム教勢力の支配下で、イスラーム科学の一部として高度に発展、ギリシア、インド、ペルシアなどの多くの文化圏の科学の文献が各地で翻訳され図書館に保管された。

その後、ペルシア(イラン)やイラク、シリアを中心に栄えた、イスラムの天文学者達は観測を非常に重視しており、これにより九世紀頃には天文台が作られるようになり、Zijという天文表が作成され、この時期にはペルシアの占星術師でヨーロッパにアリストテレスなど古代ギリシャの天文学が逆輸入された時に大きな影響を与えたアブー=マーシャルや、星の位置・明るさ・星座の色と図面を記述し、アンドロメダ銀河について最初に記録したアブドゥル・ラフマーン・スーフィー、歴史上最も明るく見えた天体である超新星1006を記録したアリ・イブン・リドワンらが活躍、10世紀後半にはテヘランに巨大天文台が建設され、太陽の子午線通過などが観測され此れにより地軸の傾きが計測された。

11世紀のペルシアでは詩人としても世界的に有名で、三次方程式を解き、二項展開を発見、ユークリッド幾何学の一部を批判した数学者でもあったウマル・ハイヤームという人物がセルジューク帝国の王室の天文台の元で研究を行い、多くの表を編纂、ほぼ誤差がない、具体的には五千年で一日の誤差の精度のジャラーリー暦を考案、これは現在使われる三千三百年に一日の誤差が出るグレゴリオ暦よりも正確である。

イスラム天文学の勃興の理由としては過去の大量のデータの収集が可能だった事と、現在のスペインにあたる地域で活躍したザルカーリーにより作成された、どの緯度でも使えるアストロラーベにより、各地で正確な天文観測が出来るようになったなど、天文学器具の開発や発明が進んだ事、ペルシア出身でバグダードにて活躍したバヌー・ムーサー三兄弟により地球以外の天体でも地球と同じように物理現象が起こるという今では当たり前な事実が提唱された事、ダマスカスで活躍したイブン・シャーティルにより今まで主流だった、クラウディウス・プトレマイオスの宇宙の仕組みが、地球を中心にした地動説のままではあるものの、改良され、非常に高い水準になった事などがある。

これらのような発見からイブン・シャーティルや光学の父の異名を持つ大科学者イブン・ハイサムなどにより、ウルグ・ベク天文台での活躍が知られるアリー・クシュズィーらにより、天文学は、自然の真理を全て一気に説明しようという自然哲学からは独立した学問とされていった。


 ヨーロッパに於ける天文学は巨大国家ローマが栄えた時代から中世まで大した発展は無かったとされ、一部の学者は中世ヨーロッパでは何も起こっていないと断言しているほどなのだが、そのようになった理由としては西ローマ崩壊の混乱で高度なギリシア科学が衰退し、一部の簡単に直された文献しか残らなかった事などがあり、当時はラテン語で書かれた作家マクロビウスや博物学者大プリニウス、中世の教育法自由七科を作ったマルティヌス・カペッラなどの著作がよく読まれており、歴史家でトゥールで司教を務めたグレゴリウスという人物はマルティヌス・カペッラの著作で初歩的な天文学を学び、星によって夜の祈りの時間を決定する方法を書き、7世紀にはベーダ・ヴェネラビリスというイングランド、つまりイギリスで最初の歴史家とされる人物により、春分点を用いたコンプトゥスという計算法を作成しキリストの復活を祝う復活祭、つまりイースターの正確な日日を割出してその方法を広めた。

その後の8世紀から9世紀頃には西ローマ崩壊で分裂した西欧を統一し、東ローマが存続しているにもかかわらず、軍事的な後だてを得たいローマ教皇からローマ皇帝の位を渡されたフランク王国のカール大帝により行われたカロリング朝ルネサンスと呼ばれる活動の中で、古代ローマの時代の天文学書な文献やベーダ・ヴェネラビリスの天文学の研究がされるようになり、古代の惑星の位置の計算法などがヨーロッパで広まり、これが間違っている事に多くの学者が気付いたものの、そのまま流布された。

天文学に対する関心が高まった10世紀にはフランク王国が巨大化しすぎて三つに別れた中の西、要するにフランス出身のオーリヤックのジェルベールのように、西欧の科学者達がイスラーム支配下のスペインや南イタリアに渡って、イスラーム天文学の非常に正確な暦や、世界のどこでも天体観測ができる計算機アストロラーベなど多くの実用的な技術を学び、ジェルベールは後に教師さらにローマ教皇となりイスラムの算盤的なアバクスや天球儀、アストロラーベ、日時計などを西欧に伝えており、他にも作曲家として有名なヘルマヌス・コントラクトゥスはアクバスやアストロラーベ、日食や月食などについての教育的な資料を残している。

 12世紀になると、西欧の学者達はより高度な天文学・占星術の著作をアラビア語やギリシア語などから、ローマで使われており当時でもヨーロッパの共通語だったラテン語に翻訳、各地で高等な教育が行われる大学というシステムが生まれると、天文学も教えられるようになり、ヨハネス・ド・サクロボスコにより天文学の教科書のようなものが書かれ、広く使われ、その後の14世紀にはアリストテレス哲学をフランスに伝えた事で知られるニコル・オレームにより全てが地球の周りを回っているという天動説ではなく、地球が太陽の周りを回っている地動説が正しい可能性を指摘したが、自身では天動説を支持、15世紀の「知ある無知」や「反対の一致」などを唱えたドイツ、つまりフランク王国が分裂した東側の国の哲学者ニコラウス・クザーヌスは自身の著作の中で地動説が正しい事を仄めかすような記述をしている。

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