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シルクロードの歴史16『モンゴルの終焉とアルメニア人の商人』

*中学生時代に作った書いた40ページくらいの短い奴です。改行などの部分は直していますが細かい部分は修正していません。悪しからず。


モンゴルの崩壊


  14世紀頃、モンゴル帝国をモンゴル族を中心とする連邦の構成国として構成していた東アジアの元王朝、中東のイルハン朝、ヨーロッパのジョチ・ウルス、中央アジアのチャガタイ・ハン国が急速に分裂・崩壊の時代を迎え、今までモンゴル人を中心とした連合国家の元で統一されていたシルクロードは再び複数の国に分割されるようになり、大きく発展していたユーラシアの東西を結ぶ商業もまた急速に衰退した。

 まず、1340年、中央アジアを治めていたチャガタイ・ハン国がタルマシリン王の死後の後継者争いで崩壊、最終的には東側がモグーリスタン・ハン国、西側がヤルカンド・ハン国となった。

 1351年には元王朝が紅巾の乱で農業生産量が多く経済の要の華南を喪失、そのまま中国全土が反乱指導者朱元璋により建てられた明朝の領土となり、元はモンゴル高原を領有する中小国規模の北元王朝となった。

Northern Yuan=北元、Ming=明

 そして、1353年にはイルハン朝がアブー・サイード王の死による内戦で東部に縮小していた所でトガテムル王が死亡し消滅、ジャライル朝、チョバン朝、ムザッファル朝、クルト朝、インジュー朝、グルジア王国、トルコのベイリク諸国など多数の国家に分裂した。

 1388年以降はジョチ・ウルス国も分裂を開始、1502年には独立したモスクワ大公国、後のロシアにより完全に滅ぼされ、領土はロシア、ウズベク・ハン国、カシモフ・ハン国、アストラハン・ハン国、カザフ・ハン国、クリミア・ハン国、シベリア・ハン国、ノガイ・オルダ、カザン・ハン国、ヒヴァ・ハン国に分裂した。

クリミア・タタールの少女達

 しかし、明王朝やロシアなど一部をのぞいて王家の血筋は脈々と受け継がれており、ほとんどの国がチンギス・ハンの子孫達によって治められていくこととなった。

 また、旧チャガタイ・ハン国からはティムール朝という大帝国が生まれており、ティムール朝が滅ぶとその王家が移動してインドのデリー・スルターン朝を滅ぼして北インドを占領しムガル帝国を建国した。

ティムール

 このムガルはモンゴルの訛った呼称で、ムガルは一時期はスール朝によって滅亡寸前まで追い込まれるものの、その後にはインド世界の統一という偉業を達成、最後はニザーム、アワド、ベンガル、マラーターなどの独立とドゥッラーニー朝の侵攻と内戦、イギリスの植民地化の中で消滅した。

現在のインドのムガール人

 旧イルハン国の中東ではトルコに存在していたベイリク諸国をオスマン帝国という国が統一し、そのままヨーロッパに進出しビザンツ帝国を征服、その他のアナトリア半島やバルカン半島、アラビアの国も併合し、マムルーク朝エジプトを滅ぼし北アフリカ沿岸も支配下に入れ、ハプスブルク家やロシアと激しく争い、最終的にはギリシアなどやエジプト、アラビアが独立していき弱体化、第一次世界大戦で敗北して現在のトルコ共和国となっている。

オスマン帝国の広大な領土

 一方、イラン方面ではジャライル朝から独立し滅ぼした黒羊朝黒羊朝を滅ぼした白羊朝、白羊朝とティムール朝を滅ぼしたサファヴィー朝、そこから独立したホータキー朝、サファヴィー朝を復興した政治家の一家のアフシャール朝、そこから独立したザンド朝とガージャール朝、それらを滅ぼして統一を果したもののロシアの圧力で苦しんだガージャール朝、それに代わって1925年に成立したパフラヴィー朝、そして現在のイランのように歴史が続いた。

ペルシア地域に居住するモンゴル人の子孫ハザーラ人

 旧ジョチ・ウルス領の地では16世紀以降、ロシアが栄え、後にロシアはシベリアや中央アジアなどを影響下に置き、現在まで政体を変えて巨大国家として君臨しており、中国では明王朝が大いに栄えるが17世紀に北方異民族の一つであるツングース系女真族が建てた清王朝の登場で消滅した。

東欧に居住するモンゴル人の子孫カルムイク人

アルメニア人商人の躍進


 このようにバラバラになり様々な国々が衰亡を繰り返すようになったシルクロードで次に貿易を担ったのは、ヨーロッパと西アジアの間に位置するアルメニア高原に住んでいたアルメニア人たちであった。

民族衣装を着たアルメニア人

 彼らは西アジア・北アフリカ・南東ヨーロッパを支配するオスマン帝国、インドを支配するムガル帝国、イランや中央アジアを支配するサファヴィー朝などにそれぞれコミュニティを形成し、そのコミュニティを通して絹や穀物、宝石、果物などの交易を行った

北西ヨーロッパにあるオランダのアルメニア人

 アルメニア人が各地へ散った背景には、バグラトゥニ朝アルメニア王国という中世の国家がビザンツ帝国によって滅ぼされて、人々が地中海沿岸に離散、そこでキリキア・アルメニアを建国するがそれも滅亡してさらに散っていき、ヴェネツィア、イスタンブール、カイロなどに商業コミュニティを築いた。

アルメニア人商人の息子でエジプトの首相となったヌバル・パシャ
インドのコルカタのアルメニア正教会の教会
コンバウン朝ビルマの役人として働くアルメニア人

 ヨーロッパに居住していたアルメニア人の多くは現地で同化されたが、南アジア、西アジア、東南アジアで活動したアルメニア人達は第一次世界大戦頃まで商業を続けていていたとされている。

アルメニア人虐殺から逃れたエチオピアのアルメニア人移民

 しかし、現在、アルメニア高原意外に住む多くのアルメニア人は20世紀初頭にオスマン帝国が行なったアルメニア人虐殺による難民や、最近やってきた出稼ぎ労働者、そしてその子孫達となっていて、南アジアや東南アジアには現在、アルメニア人は残っていない。

現在のアルメニア人の分布図



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