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美術史第16章『ロマネスク美術』



青=西フランク、緑=中部フランク、オレンジ=東フランク、ピンク=教皇領


  9世紀前期、西欧、中欧を統一しカロリング朝ルネサンスという一大文化隆盛を起こし、ローマ教皇から皇帝に任命され大きな権力を持ったフランク王カールが死ぬと、ヴェルダン条約が子供達により締結され、パリを首都とする西フランク王国、アーヘンを首都とする中部フランク王国、フランクフルトなどを拠点にする東部フランク王国に分割された。

ヴァイキング国家の一つノルウェーの当時の領土

フランクを侵略したヴァイキングの指導者ロロ
フランスに服属したヴァイキングのノルマンディー公国の領土

 また、この頃には北ヨーロッパのゲルマン人、ノルマン人(ヴァイキング)の国々による征服活動が開始、ノース族のノルウェー王国は北大西洋の島々を支配し、スヴェア族の一部は北東ヨーロッパに移り入れルーシ・カガン国を建国、デーン族のデンマーク王国は南の西フランク領の一部を支配し、最終的に地中海に進出、865年にはイングランドに侵攻し広い地域デーンロウを占領、911年には西フランク北部に居住していたデーン族の指導者ロロと西フランク王が協定を結び西フランクの支配下のノルマンディー公国が誕生した。

後ウマイヤ朝の宰相マンスール
東の脅威マジャールの指導者アールパード

 また、10世紀後期にはイベリア半島で繁栄していたイスラム国家、後ウマイヤ朝の宰相マンスールが西フランク領のイベリア北部を占領し、アグラブ朝というチュニジア周辺を収めた国家が南イタリアを占領、フランク三国は北方からのヴァイキング、そして南からのイスラム勢力の攻撃を受け混乱、さらに東からはペチェネグ族の侵略で東からアールパード率いる騎馬遊牧民マジャール族が渡来、各地に襲撃を仕掛けられており、西欧社会が常に大きく揺れている状態となりその中で発展したのがロマネスク美術である。

東フランクでカロリング家が断絶した後に即位して
カトリック国家を築き上げたオットー大帝
オットー美術の代表格の『エッセンの巨大エナメル十字』
オットー朝美術の絵画

 また、三つに分かれたフランクの内、中部は855年に三つに分割、870年には二つが東西フランクに其々併合され、一つはイタリア王国として残存、また、919年には東でカロリング朝が断絶しフランク族ではなくザクセン族出身のハインリヒが王に即位しオットー王朝時代が開始、東方のマジャールやボヘミアを支配、デーン族にも勝利、962年にはオットー1世がローマ皇帝を名乗り始め東フランクは神聖ローマ帝国になり、繁栄し「オットー朝ルネサンス」という小規模な文化興隆が発生し、カロリング美術とビザンティン美術の影響を受けたオットー朝美術が起こった。

 一方、987年には西でもカロリング朝が断絶し、ユーグ・カペーが王に即位しカペー朝フランスの時代が開始、北欧を統一して北海帝国を築いた王クヌートの死後の11世紀後期にはフランスのノルマンディー公国がノルマン・コンクエストでイングランドを占領してノルマン王朝を開始させ、イタリアでは傭兵として集まったデーン族がイスラム勢力下の南イタリアを占領しオートヴィル朝シチリアを建国、ビザンティン美術で触れた通りビザンツと戦争していた。

ロマネスク美術の代表格で豪華な様式のスペインにある
『サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂』

 ロマネスク美術の教会の特徴としては、厚い岩壁と暗い内部、半円アーチや、アーチを平行に押し出したヴォールという天井などがあり、これらは古代ローマのバシリカを基礎にした様式で作られており、建築以外の要素に関してもロマネスク美術は古代ローマの様式の影響が非常に強いと言え、そもそもロマネスクという名称もフランス語で「ローマ風」を意味する言葉に由来する。

ローマのバシリカ様式を用いた『トゥールーズ・サン=セルナン大聖堂』

 また、礼拝客の動線に配慮した結果、トゥールーズ・サン=セルナン大聖堂のような東西への方向軸を持った巡礼路聖堂が多く建築されたており、その背景としては当時、西欧においては修道院や教会が学問と芸術の中心となっており、カトリックの様々な修道会が其々、支持者を増やすために教会が多く建設したというのがあった。

 教会の中の美術もベネディクト修道会では豪華で荘厳な雰囲気を作り出す美術が作られる一方、ベネディクト修道会から美術に関する考えで分裂したシトー修道会では図像を否定し質素な美術が作られたなどロマネスク美術の建築は、その地域にどの修道会が多く分布していたかという違いによって大きく異なるものとなっている。

イギリスのセントオールバンズ大聖堂の絵
ドイツのアウクスブルク大聖堂の絵

 教会に書かれる装飾や絵画としては聖書や聖人を題材とした説話のような壁画が描かれることが多く、イタリアではサン・クレメンテ大聖堂の絵画のようにカロリング美術とビザンティン美術が混合した様式、スペインではビザンツ美術などとイスラム勢力支配下のイベリア半島で発達したモサラベ美術に影響を受けた様式、神聖ローマ帝国の南部、現在の南ドイツ、スイス、オーストリアあたりでは一時期神聖ローマで起こったオットー朝美術とビザンティン美術が混合した様式で絵画が描かれ、全体的にビザンティン美術の影響が強かったものの、フランスはあまり影響を受けていなかったとされる。

フランスの『サント=マドレーヌ大聖堂』にある
ロマネスク彫刻の最高傑作のティンパヌム

リモージュ琺瑯製品の一つ
ヘイスティングスの戦いを描いた『バイユーのタペストリー』の一部分

 工芸の分野ではキリストの象徴十字架、蝋燭を立てる燭台、本の表紙にあたる装幀、聖人の死体の一部を入れる聖遺物箱やその他祭具などのキリスト教関連のものが多く作られ、古代の優れた浮彫や彫刻の技法が復活、神聖ローマ帝国ではオットー朝美術の影響で象牙や金を使った工芸細工が多く作成され、フランスのリモージュという都市では「リモージュ琺瑯」という金属に釉薬をかけた琺瑯が発達、聖遺物箱や装幀が作られ、各地で「バイユーのタペストリー」のような刺繍工芸も盛んに作られるようになった。

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