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アイヌの歴史7『アイヌ史の区分/旧石器時代』


アイヌの歴史区分


 アイヌの時代区分は考古学的な特徴から続縄文時代、擦文時代、アイヌ文化時代に分けられるが、これは、日本史の大阪の古墳時代、明日香の飛鳥時代、奈良の奈良時代、京都の平安時代、鎌倉の鎌倉時代、京都の室町時代、東京の江戸時代のように中心地となった場所や政府によって分けられるような、体系化した分け方ではなく縄文や弥生時代に近いざっくりとした分け方である。

 他の分け方としては日本史の中心地で分ける時代に則って蝦夷地及び北海道を支配する勢力から安藤氏時代、松前氏時代、江戸幕府領時代、開拓使時代、北海道庁時代に区分する方法もある。

日本史区分

 また、僅かな資料に基づく推定から、アイヌ文化成立から近世まで、つまり中世あたりを前期大闘争時代、平和時代、後期大闘争時代、役蝦夷時代と詳細に区分するという方法、日本人との関わりに着目して起源となる前近代古層期、関わりが薄かった前近代古層期、関わりが始まり文化が変容した前近代変容期、明治以降、近代国家の支配下の北海道となった近現代に大きく区分する方法、考古学に基づいてアイヌ文化が成立して以降を内耳土器時代、チャシ時代、新アイヌ文化時代に分ける方法などがある。

 しかし、最初のものはアイヌというより北海道での日本人の歴史で、二つ目は中世のみの区分であり、三つ目は日本との関係が重視されすぎて日本より大きな影響を及ぼしたオホーツク文化などとの関係を無視しており、四つ目は中世から近世までの歴史で古代が抜けており、さらに、考古学的な変化は段々と起こるものなので正式な区分にはできないなど、全てに問題があると個人的に考える。

数年前にエクセルで作成した図

 このような歴史分類を総合して表にするとこの表のようになり、ここでは北東アジアを起源とする農耕民である日本人、琉球人、朝鮮人などの文化をピンク色、東アジアから東南アジアを起源とする農耕民である中国人やオーストロネシア系民族の文化を赤色、北アジアを起源とする遊牧民であるモンゴル系民族とツングース系民族の文化は緑色、日本を起源とする狩猟採集文化は青、シベリアを起源とする狩猟採集文化は黄色、混合文化や共同統治は濃い灰色、ロシアは茶色で記している。

旧石器時代の人々


 語れる歴史の始まりである旧石器時代は縄文時代が開始する以前の事を表し、基本的には様々な形状の石器や木を加工したものを用い、特に尖頭器や細石刃、石刃、有背石刃などが発達した結果、牛や象、鹿、猪、兎などの狩猟を植物の採集よりも重視した生活を行いながら、各地でテントのような建物を建てながら放浪、一部の例外をのぞいてしっかりとした建物は建てられなかったと考えられている。

三里塚の石器

 この時代の人々、浜北人、山下洞人、港川人、下地原洞人、ピンアザブ洞人などは研究の結果、必ずしも縄文人の祖先というわけでもないことが判明しており、浜北人は縄文人の祖先だが、港川人とピンアザブ洞人はオーストラリア先住民アボリジニやパプア人、メラネシア人などに近いヒトだったとされる。

縄文人

 日本にアボリジニなどに近い人間が居ることに違和感を感じるかもしれないが、日本の南のフィリピンにはアエタなど、マレーにはオラン・アスリというネグリトと呼ばれるアボリジニなどに近い遺伝子を持つ人々がいる。

 ちなみに、彼らはその後の激しい混血の上にアイヌと同じく元の言語を失い、オラン・アスリはベトナム語やカンボジアのクメール語などに近いオーストロアジア語族、フィリピンのアエタ族などはインドネシア語やフィリピン語、マダガスカル語、ハワイ語、マオリ語などに近いオーストロネシア語族を話している。

マレーのジャハイ族

 旧石器時代の2万年前頃、氷河期だった地球が徐々に温暖化を開始し、1万3000年頃から氷河期が終わりを迎える時の厳しい気候変動、所謂、晩氷期の時代以降、日本列島を覆っていた針葉樹林は落葉樹林と照葉樹林にとって変わられた。

 そうすると針葉樹は北海道のみになり、これで打撃を受けたマンモス、トナカイ、ナウマンゾウ、オオツノジカなどの大型の哺乳類は氷河期が完全に終わった1万年前頃には絶滅した。

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