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山頭火に遊ぶ-短く、そして鋭く

今、ぼくの前に、山頭火の椿の句がある。ぼんやりと自由律俳句のことを考えているのである。

  ぬかるみ赤いのは落ちてゐる椿
  落ちては落ちては藪椿いつまでも咲く
  山の椿のひらいては落ちる
  いちりん挿しの椿いちりん

これを定型の句と比べてみる。

  おちざまに水こぼしけり花椿    松尾芭蕉
  古井戸のくらきに落る椿かな   与謝蕪村
  落椿くぐりて水のほとばしり   高浜虚子

「椿」の語感や用い方にさほど違いはない。どうも自由律に「季語」は存在するかしないかと考えるのは生産的ではないようだ。無季に無気に拘泥すればそれこそ自由でなくなるだろう。自由律の季語はあってもなくてもいいぐらいで、季語に縛られない、というのが自由律の構えなんだと思う。

▢自由律俳句の本質

残るは、5・7・5の定型破棄の問題である。
ためしに、冒頭の山頭火の句を定型にするとどうなるか。

  椿落ちぬかるみ赤くなりにけり
  いつまでも落ちつつ咲きて藪椿
  ひらいてはまた落ちている山椿
  いちりんのいちりん挿しの椿かな

ぼくの技量のせいもあるが、気に抜けたビールのようになった。生き生きとした感覚が消えてしまう。特に一番最後のやつがひどい。

自由律で一番大事なのは切り取りの感覚なのかもしれない。その時の思いや現象をさっと切り取り、その感覚をできるだけそのまま言葉にする、そんな感じである。それをやろうとするとき、定型は邪魔になるだろう。でも、サイズは俳句の17音くらいがちょうどよい。だから「自由律俳句」という言い方で俳句にとどまるんだと思う。とまあ、至極当然の結論に落ち着いた。

  17音 20音 15音 14音

冒頭4句の音数である。2句目が定型よりも多いのは「落ちては」のリフレインのせいで、それを引けば16音である。長くなると、感覚によけいなものが付着する。情緒とか叙情とか感情とか。こうなると、短歌や詩のゾーンに入っていくので、もはや「句」ではない。もちろん山頭火にも「旅人わたしもしばしいつしよに貝掘らう」のように、17音より長い句はあるが、「切り取り感覚」の表現ということになると、自由律でも短い句に本領が発揮される。

▢世界最短詩/大橋裸木「陽へ病む」

こんなことを考えていたら、星屋心一さんの「世界最小の俳句に挑戦!」という記事に出会った。そこに「今現在最小の俳句は大橋裸木「陽へ病む」の4音」と紹介されていた。

この大橋裸木の「陽へ病む」は夏井先生のブログ「夏井いつきの100年俳句日記」でも例句として取り上げられ、フォロワーさんたち(?)の世界最短詩への挑戦がなされていた。その実証の結果、4音が限界らしい。


▢自由律俳句の「短い」は何音からか

では、自由律俳句のなかで、どのくらいのサイズを「短い」とするのか。短い自由律におけるサイズ規定について考えてみたい。

まず思い浮かぶのが「字足らず」である。これは「字余り」とともに「破調」といわれている。「字足らず」の例として次の秋元不死男の句がよく紹介される。

   虹が出るああ鼻先に軍艦

「ぐんかん」で4音。ここが「字足らず」である。これは俳句と言うより短詩である。作者には叱られそうだが、どちらかといえば自由律俳句に仲間入りさせたいとも思わせる。しかし、「短い」という気がしない。

いろいろ考えても、〈17音〉に比べ、〈何音からを「短い」とするか〉の決め手はでてきそうにない。それで、単に切りがよいというだけの理由で10音以下ということにしてみた。

▢10音以下の自由律俳句

この基準で自由律俳句を探索すると次のような句が姿を現す。

  陽へ病む      大橋裸木   (ひへやむ)
  咳をしても一人   尾崎放哉   
(せきをしてもひとり)
  墓のうらに廻る    〃     
(はかのうらにまわる)
  草も月夜      青木此君楼  
(くさもつきよ)
  ひとはちの黄菊   橋本夢道   
(ひとはちのきぎく)
  うごけば、寒い   住宅顕信   
(うごけば、さむい)
  ずぶぬれて犬ころ   〃     
(ずぶぬれていぬころ)

生や現象の断面を鮮やかに切り取っている句が並ぶ。もちろんそれは定型俳句の目指すところでもある。だが、これらの句をみるとそれが先鋭化している。そこで、こういうネーミングと定義はどうだろう。

      【先鋭句】・・・10字以内の自由律俳句

では、山頭火でそれをたしかめてみよう。

▢山頭火の先鋭句

  分け入れば水音   (わけいればみずおと)
  笠も漏りだしたか  (かさももりだしたか)                                                                                                                                                                                                                                                                               
  寒い雲がいそぐ   (さむいくもがいそぐ)
  あるけば蕗のとう  (あるけばふきのとう)
  朝の土から拾ふ   (あさのつちからひろう)
  炎天の稗をぬく   (えんてんのひえをぬく)
  ひとりの火をつくる (ひとりのひをつくる)
  へそが汗ためてゐる (へそがあせためてゐる)

山頭火の句も先の「先鋭句」と同じ傾向を持っている。

 〈先鋭句の特徴〉
  ・生と現象の断面切り取り
  ・即物的で心情、情緒表現がない
  ・「切れ字」なし

こうなるのは当然といえば当然である。

▢山頭火で先鋭句に挑戦

少し遊んでみよう。
冒頭の山頭火の椿五句を先鋭化してみる。

  ぬかるみの赤椿 (10音)
  咲いて落ちて椿  (9音)
  一面に落椿    (9音)
  椿いちりんの夜 (10音)

「椿」の3音は案外きつい。3句目の「山の椿のひらいては落ちる」は降参して「山」は捨てた。

続けて比較の例としてあげた芭蕉、蕪村、虚子の句を先鋭句にしてみた。すべて10音句である。

  水落ちて花椿
  闇椿井戸に落つ
  たばしる水に椿

芭蕉の句がどうにもならない。意味不明になった。さすが芭蕉。すでにぎりぎりの先鋭句だった。

▢先鋭句15番勝負

ついでに、ほかの山頭火の句でチャレンジ。

どうしようもないわたしが歩いてゐる
 歩いても無駄な身 (9音)

まつすぐな道でさみしい
 まっすぐな道にひとり (11音)※促音でオーバー <(_ _)>

一杯やりたい夕焼け空
 夕焼けと飲んでいる (10音)※「ゆやけ」と読んでください。

どこでも死ねるからだで春風
 死ぬる身に春風 (10音)

うらうら蝶は死んでゐる
 蝶死んでうらうら (9音)※拗音は1音に数えない。「蝶」は2音。

さくらまんかいにして刑務所
 刑務所にも桜 (9音)

ここを墓場とし曼珠沙華燃ゆる
 咲く所が墓場 (9音) 

一日物いわず海にむかへば潮満ちて来ぬ
 沈黙に潮満ちる (10音)

風は海から吹きぬける葱坊主
 葱坊主に海風 (10音)    

あの雲が落とした雨にぬれてゐる
 通り雨あの雲か (10音)

大橋小橋ほうたるほたる
 橋ごとに蛍 (8音)

うららかにボタ山がボタ山に
 春 ボタ山ばかり (9音)

分け入っても分け入っても青い山
 どこまでも青い山 (10音)

鳥とほくとほく雲に入るゆくへ見おくる
 鳥消えて空の果て (10音)

しぐるるやしぐるる山へ歩み入る
 しぐれるわたしと山 (10音)

比べようもない。やってみると山頭火はすでに刈り込んだ表現をしていたというのが実感できる。

▢山頭火の句ーリフレインの魅力

⑪~⑮はリフレインを使っている句である。俳句でリフレインというのは禁じ手だと思うが、山頭火は意識的に使っている、と思う。なんともいえない味わいが生まれている。先鋭句に直してみると見事にその風合いが消えた。

山頭火は、俳句という短詩形でリフレインが可能であることを証明している。それは山頭火の功績として評価すべきだと思う。

先鋭句を実験して、結論はほぼ逆方向になった。これは山頭火の罪である。

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