見出し画像

トランスとジェンダー

ブログ『ハココの森』の方にトランスとジェンダーに関してのわたしの考えをまとめてみている。

トランスについての主な話は「ジェンダーロール」への反対なのだとしたら、フェミニズムと同じだと言える。
が、トランスジェンダーや性の多様性について、性自認についての話はこうではないのか。

「あなたの性は(ステレオタイプの)男性的なもの? それとも、(ステレオタイプの)女性的なもの?」

フェミニズムはステレオタイプの女性ジェンダーの押しつけに異議を唱えるものであるはずだ。
なぜ、ステレオタイプのジェンダーの中のグラデーションでどのあたりに自分があるのか考えるものをフェミニズムが肯定しなければならないのか。

TEAFと呼ばれるフェミニストは「ステレオタイプの女性ジェンダーの押し付け」に異議を唱えている。
「ステレオタイプのジェンダー」を無くしたいのだ。

ステレオタイプの女性ジェンダーに親和性のあるトランス女性と同じであるなんて、言われたくないのは当然ではないか。

何を参考に「性自認」をしたのか?
トランスセクシャルの「身体違和での耐え難い苦痛」は理解できるし、それらはステレオタイプのジェンダーとは無関係に存在するだろう。

しかし「ステレオタイプのジェンダー」を否定しながら、「どの程度(ステレオタイプの)男性的なのか?」「どの程度(ステレオタイプの)女性的なのか?」と考えるトランスイデオロギーは、ダブスタではないのか?

わたしはトランスという概念に反対する。
わたしはジェンダー解体を欲している。

ジェンダー解体を目指すのがフェミニズムであるはずなのだから、アカデミアのフェミニストたちはフェミニズムの本質を見失ったのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?