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「死にたいなら死ねば?」の真意。

友人は2人。大切にしたい友人は1人。今月2年ぶりに大切にしたい友人と会う約束をしたので学生の頃を思い返していた。

当方発達障害持ちの20歳の女。働き盛りの年齢ではあるが、諸事情で2021年7月から生活保護を受給している。

私が通っていた高校はデザイン、美術系だった。そこにはかなり繊細な感性を持ち合わせた個性的な仲間たちが集まる。いわゆる普通科とは空気が違い、ASDとADHD併発、HSP持ちの私でも個性として自然に認められ、自分の生きづらさに良い意味で気付けなかった空間だった。

彼女たち(クラスの8割以上は女子だったのでこれを総称とする)は外部からの刺激に敏感で、かつそれを何かしらに昇華する力を持っていた。しかし芸術として昇華するには整理する時間も作り出す労力も必要で、刺激を受け止めきれなかった時にふと「死にたい」などと口にする。

想像力が豊かな分将来への不安や不透明さに対し恐怖心を抱きがちで、明るく振る舞う一方で必ずどこかしらに影を孕んでいた。その影が大暴れし、社会から評価される絵を作り出したりするキッカケにもなるのだから芸術とは面倒な物だ。

私のクラスメイトによく「死にたい…」「社会にレッテルを貼られたくない…」「違う自分に生まれ変わりたい…」と嘆く子が1人いた。社会的な付き合いも必要かと思い、あまり心地よくないながらも同じ机で弁当を食べていた私の口はつい「死にたいなら死ねば?」とこぼした。

私にとってその返答は特に意味のあるものでは無く「あの服欲しい…」とショウウィンドウを眺めている友人に「じゃあ買えば?」と言う程度のテンションであった。本人がそう望んでいるならそうすればいい、自分の意思決定に基づいて人生を送る権利は各人にあるだろうという考えを持っていたからだ。

クラスメイトは泣き崩れた。私には意味が分からなかった。貴方の考えを否定も肯定もせず、ただ意思を尊重したというのに…どうすれば良かったの?とパニックを起こした。なぜ繊細なのにこの言葉にある私の優しい思いが伝わっていないのか理解出来なかった。

今ならもう少し言葉を選んでいただろうなぁと思う。そのクラスメイトは結局死ななかったから、それが彼女にとっての正解だったのだろう。自分にとっての優しさとそれが伝わり、相手が理解出来るかは別物だと学んだ出来事だった。

だから私は言葉を選ぶ。慎重に慎重に自分の気持ちにシックリくる言葉を選別し、それをパズルのように組み立てていく。(自分の感情を簡単にしたくないというこだわりもある。)それができずに自分の機嫌を態度に表し相手に察させ、相手の労力を奪っている事に気づかず横柄な態度で生きている人間には近づきたくない。

ここ半年で私は大きく生まれ変わった。毒親から離れ、自分自身と優しさをほんの少し持てるようになった。久々に会う友人になんと言われるのか楽しみである。


ご一読感謝。

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