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型を破るとは?

5回にわたって「坂の上の春」という「小説のようなもの」をここに載せてみました。最初こそ期待感を抱かせたようですが、後半尻すぼみになってしまったと感じたのか、読み手の期待もしぼんでいってしまったように思います。読み直してみると、やはり小説としては詰めが甘く、もっと書き足せる部分やひねった展開にすることもできそうでした。これは評価されなくても仕方ないと思います。もしこの形式で発表するなら、もっともっと工夫することが必要だなと思いました。
言い訳がましいのですが、最初に書いた通り、僕は脚本家です。同じ言葉を使って物語を紡ぐものでも、形式が違うと勝手がまったく違うものです。戯曲というのは特殊な表現形式です。学校の国語の授業でも殆ど扱われないのですが、それは一般の人の多くは、その後の人生で戯曲などというものには接することも活用することもないからでしょう。小説はそれに比べれば馴染み深く、とっつきやすいものです。しかし、それと誰でもすぐに書けるかどうかとは必ずしも関係ないようです。

僕は脚本は独学でした。それこそ見様見真似だったのです。自分で書き始めてから20年以上が経って、日本劇作家協会主催の戯曲講座に参加しました。病気で途中から行かれなくなってしまったのですが、その時著名な脚本家の先生方の講義を受けていて思ったのは「自分がやってきたことは間違っていなかった」ということでした。プロットの書き方はここで講義したある脚本家さんの方法を使わせてもらっていますが、それ以外はほぼ自分がやってきたことの再確認でした。
同じように、映像のシナリオライター養成用の講座や、小説の書き方講座といったものもたくさん開かれています。最近、講座を受けて小説を書き始めた人が芥川賞をとりました。方法論をきちんと学ぶことは、だから無駄ではありません。聞くところによれば、シナリオを書いている人を対象にした小説の講座があるそうです。シナリオを書くスキルがあるのだから、まったくの素人に一から教えるのとは違った方法論があるということなのでしょう。

「ハウツー」は馬鹿にされる傾向にあります。特に芸術分野の場合、これは顕著です。「○○講座といったもので型にはめられると面白いものは書けない(作れない)。自分の感性を信じろ」みたいなことです。でも、それは半分は正しく、半分はそうとも言い切れないと思います。または、人によります。もし芸術にハウツーがいらないのであれば、芸術系の大学や専門学校の存在意義はなくなります。自分の感性だけで人をあっと言わせる独創的なものを作り出せるのは、ほんの一握りの天才だけです。その他の大多数の凡人は、まずはハウツーをしっかり学ぶ必要があるのではないでしょうか。独創性はそれを踏まえて生まれてくるのです。
ハウツーがよくないと言われるのは、きっとそれを学んで、その通りにやって満足してしまう人が多いからでしょう。そうやってできたものは、確かに型にはまって面白くないかも知れません。でも、まずは型を知ることによってしか、その型を打ち破って新しいものを生み出すことはできないと思います。単なる型の「破壊」なら誰にでもできます。しかし、芸術は「創造」です。決して「爆発」ではありません。爆発で人を惹き付けられるのは、もう一度いいますがほんの一握りの天才だけです。

「坂の上の春」は、小説の書き方の基本をまったく知らない、小説に関しての素人が書いたものです。評価されなくて当然です。でも、そこには僕が劇作で培ってきた何かが少しは入っていると思います。ただ、それはもう10年以上前のものです。今の僕なら、また違ったものを込められる可能性が高いです。だから、時間を見付けてまたこのジャンルに挑戦していこうと思います。ここで撤退してしまうのはあまりにも悔しいので。
noteでは「超短編小説」を不定期に書いていくという人がいます。僕もその人に倣って、時々「超短編小説のようなもの」を書いていこうかと思います。そのうちに「のようなもの」がとれ、「超」が、そして「短編」がとれれば、僕は立派な小説家の卵です。それがお金になって初めて僕は「小説家」になれます。
果たして本当にそんなにうまくいくのか?

この始まるか始まらないか、終わるのか終わらないのか分からない成功譚の一部始終を、誰か見届けてはもらえませんか。

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