見出し画像

【小説】ハローワールド

 本作は、過去に同人誌に掲載した原稿を修正したものです。
 もし万一、私の同人誌を読んだことのある方がこのnoteを見つけた場合は、「こういうの始めたのね」と思ってそっと見守って頂けると幸いです。
 今後も、過去の同人誌に載せたものから一部を手直しして載せようと思います。


 よく晴れた秋空だった。

 どこまでも続いているような青い空から差す日の光と、涼しく乾いた風。午前十一時。私は着慣れない礼服の襟を正して、このお別れ日和に感謝した。

 昨日までは、夜が一日中続いているような気持ちだった。
 実際、太陽を見た記憶が無い。思い出すのは、病室とナースステーションの景色だけ。それも、決まって外は夜だった。ここ数日はずっと病院に居たから、朝の景色も昼の景色も知っているはずなのに。

 大学が秋休みで良かった。二週間も休んだバイトは辞めさせられてしまったけど。

 父が倒れたと聞いてからしばらくは、この混乱状態を家族や親戚と共有していたけれど、具体的な「時期」を知らされてからの数日間は、私にとって、私と父だけの時間になっていた。

 医者が口にする詳しい病状も、親戚や家族の思い出話も、私の頭の上をすり抜けていくようで、目の前には最期を迎えつつある父だけが居た。

 知らせを聞いて地元に飛んで帰ったとき、ベッドに横たわっているのは多少やつれた顔をしているものの、見覚えのある父の姿で、その父が患者服を着ているのに言い知れぬ不安感を覚えた。

 しかし、父は日に日に衰弱していって、変わっていった。

 数日の後、私はもうこの人は退院しないだろうということを悟った。まだ医者からの宣告を聞く前のことだった。
 その日の晩、私は家族に隠れてベッドで泣いた。

 葬儀場の外には霊柩車が手配され、出棺の準備が進んでいる。葬儀は内々の家族葬だったので、静かなものだった。まだ現実感が無いだけなのかもしれないけれど、私の心は意外なほど穏やかだった。

 入院中に二度、ナースコールを押した。二度目のコールの後、父の体には点滴の管が挿しっぱなしになった。
 棺の中の父は、顔や髪を綺麗に整えられて、病院に居るときよりも、ずっとすっきりとした姿だった。

 父が握り返した手の感触が、まだ残っている。

 その時にはもう自由な会話が出来なくなっていたけど、最後に父はゆっくりと、懸命に口を動かして、私に一言だけ伝えてくれた。

 ありがとう。

 私はその言葉を繰り返して、聞こえたよ、と言った。そうすると、父は目を細めて弱々しく、一度だけ頷いた。簡単な言葉だけれど、父からも、私からも、お互いに一番かけたかった言葉は、同じものだった。

 霊柩車から引き出された棺を皆で担いで、火葬場へ向かった。

 火葬場には他の葬儀の参列者も沢山居て、皆が黒い服を着て静かに歩いていた。今日だけで一体何件の葬儀があるのだろう、などと考えた。

 焼き場の重々しい扉が開く。分厚い金属製の扉は、その内と外を決定的に隔てる仕切りのように見えて、怖かった。

 そこに父の棺が入ってゆくのを見つめながら、父はもうここにはいないのだから、これは閉じ込めるのとは違うんだ、と思うようにした。あの扉が閉まったら、反対側が開くのだと。
 扉が閉まって、炎が唸る音が聞こえると、それでも、胸が締め付けられて、涙が溢れた。

 それから、遺体が焼き終わるのを静かに待った。砂浜に落ちている真っ白いサンゴみたいになった父の骨を骨壺に収めるの動作は作業じみていて、いよいよ父はここにいなくなってしまったのだという気がした。

 法事の会場までは少し歩くというので、私は早くも思い出話をする家族や親戚から離れて、一足先に火葬場を出た。

 お昼を少し回った頃、抜けるような秋空の下には、気持ちの良い風が吹いていた。

 それは、葬儀場で見上げたのと同じ空で、違うのは、棺の中で眠るように目を閉じていた父の体が、今は両手で抱えきれるほどの壺の中に納まっているということだ。

 これが、父のいない世界なのだと感じた。

 きっと、火葬場で遺体を焼かれたのを最後に、父の魂はこの空に昇っていって、もっと高い所へと行ったのだ。

 父がいなくなっても、今日は終わるし、明日は来る。

 何も変わらない。

 でも、私の世界は変わる。

 この磨かれたような青空が、私が受け入れていくべき新しい世界の、初めての景色。

 新しい日々の始まりの瞬間を、このお別れ日和を、私は忘れないと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?