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文字の暗黙知


「バカとブスこそ、東大に行け!」


私は今、「ドラゴン桜」にドはまり中だ。就活とか修論とかやるべきなのはわかっているのに、一期の「ドラゴン桜」まで見返しているほどだ。

と言っても今クールの「ドラゴン桜」を一話からリアルタイムで見ていたわけではない。たまたまバイト終わりご飯を食べている横で、家族が「ドラゴン桜」を見ていたのがきっかけで、追っかけてみるようになった。その回で、前作も登場している「数学の鬼」と言われ仙人みたいな見た目の柳先生が出ていて、懐かしく感じたのもあるが、とにかく面白かった。



その仙人のような教師、柳先生は竹刀を片手に「詰め込みこそ、真の教育」と謳い、ものすごい数の問題を四の五の言わせず受験生に解かせる姿が印象的だ。こんな教育スタイルは多様性を重視するだとか叱らないだとか、そういう個人を尊重する教育が流行っている今の世の中にとって、前時代的というか遅れているようにも見える。しかし、「教え育てる」という面においては、とても理にかなっているように私なんかは思えた。


教育においてきっと一番してはいけないと思うのが、教えてあげることだ。教育の目的は「教える」とこよりも「育てる」方が何より大事であり、「育てる」という成長を一番抑制するのが「教えてあげる」ことだと思うからだ。

配送などのバイトをしているときの実体験ではあるが、家電の持ち方や荷台の回し方などを、後輩などに口で伝えたり、やり方を見せたとしても、実は全然伝わっていないことが多い。でもうまく伝わらない理由もわかる、口だけでは正直経験にならないからだ。百聞は一見に如かず、やらせてみると意外とすぐ呑み込めたりする。


教えてあげてるスタンスでいると、なんで伝わらないのだとか不用意に気持ちが荒み、叱ってしまうものだが、それは当たり前のことなのだ。教えようとするから育たない、と最近気がついた。

やらなきゃ分からないものだ、そして分からなくてもやらなきゃいけないことだって多い。そんな世の中では、教えてもらうことに慣れてしまい、理解ができないと行動に移せない人になってしまう、そのスピード感でしか動けなくなることこそ、間違った教育ではないだろうか、と思えてくる。しかも教わったことは一見理解したように見えて、全然身になっていないものだ。これでは、「育てる」という目的を、全然達成できていない。むしろ悪化している。

だから、やらせてあげることが一番の教育なんだと思う。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というが、このことわざの鍵は「教えられていないから身になる」ということだろう。それらしい答えを教えてもらったところで、それが自分の中の答えに必ずしもならないのと同じように、自ら能動的に気がついたものでなければ身にならない。

その点で「詰め込みこそ、真の教育」とし、まずはやらせることで身につけさせることは、育てるという点で、とても理にかなっているのだ。やってから「なぜ」は考えればいいし、その「なぜ」こそが知的好奇心になり、より能動的に手を動かせるようになる好循環ができる、だからこそ、東大専科の生徒たちは二次関数的に成績を伸ばすことができるのだろう。


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そんなことを筆頭に「ドラゴン桜」には、ものすごい人を育てる上でヒントになることばかり眠っているドラマなのだ。その中で「数学の鬼」の回もうひとつ気がついたことを、もうひとつ話していこうと思う。


数学の問題100問テストを10分で解かせ100点以外は認めない、という無理難題をものすごい数生徒たちにやらせている、まさしく「詰め込み教育」なのだが、それをやらせる目的について話していたのだ。


ここまで詰め込んで問題を解かせる理由、それは「暗黙知」を身につける、そのためだということだ。


「暗黙知」とは、頭で考える前に体が勝手に反応するレベルにまで、身に染み込ませることをいい、丁度スポーツなどで型を体に覚えさせるまでひたすら反復練習を繰り返すような、あれに近い。数学の計算を一々頭で解くのではなく、もう見た瞬間に指が動くようなあの感覚まで持っていくための「詰め込み」ということらしい。

「暗黙知」という言葉自体は初めて聞いたのだが、そういう頭より先に体が動くまでひたすら繰り返すという感覚は、野球をしていたので個人的に身近なものではあった。しかし、それが勉強に当てはまるということは考えたこともなかった。勝手に勉強は頭でするものだと、そういう先入観で今まで生きてきたが、頭よりも先に体が動くような反射を手に入れられるのは、ものすごい武器だと思った。日々頭を使って考えてばかりだと、時間なんていくらあっても足りやしない。

もう私は受験生ではないので、数学マシンと化すような「暗黙知」を発揮する場は必要ないのだが、何か日常的に使うもので「暗黙知」を得られるものはないのかな、、、?と探していると、ひとつ思い当たるものがあった。



それは「読書」である。


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読書をすることで得られる「暗黙知」、それは「文字から情報を得る力」ではないだろうか。


私たちは日常的に、信じられないたくさんの情報を触れている。目から得るもの、音から得るもの、匂いから得るもの、手から得るもの、、、実に様々であるが自分の体では経験できない情報を得る手段は、目からでしか入ってこない。そして、そのほとんどが「文字から得る情報」なのである。

文字から得る情報というのは、基本的にはほとんどが自分に関係のない情報であり、生きるか死ぬかを分けるものではないため、自分から摂取しようとしなければ得られることはない。文字を読む能力は先天性のものではないのだ。だから人は知りたいと思ったら、まず文字に触れることから始まる、ということだ。

意識的に情報を得ようとしないと、本当に情報というのは指の間をすり抜けていき、手元には何も残らない。しかも、情報は文字に変換されているため、「文字→情報」と読み替える訓練も必要になる。文字から得る情報と言うのはコストが高いのだ。そこを処理を経てやっと情報を得ることができる。逆に言えばこのプロセスに慣れていないと、情報を得るというのはなかなか難儀なことなのだ。

つまり私たちは文字から情報を得るには訓練が必要なのだ。ドラゴン桜の「詰め込み教育」のように、書いてある文字を即座に情報化できるようなそんな「暗黙知」こそがこの情報社会において、差別化できるスキルなのである。


その訓練こそが、読書なのである。


本にはものすごい量の文字が書かれており、それに比例した分の情報も載っている。一冊でもその情報量は馬鹿にならない。そんな本を読むことでだけでも相当な訓練になる。

しかも読書はただ書いてある文字を追えばいいのではなく、脈略や行間なども含めてひとつの情報を解読する作業なのだ。それらを読み解くことはできるのは、日常的に本に触れてきた「文字の暗黙知」を身につけている人であり、誰しも持てる能力ではない。文字に慣れていない人は、その文字を読むのに手いっぱいで、書いてある情報まで手が届かないからだ。

語彙や言い回しが読書をする上で引き合いに出されることが多いが、それらは読解において必要になるからであり、情報を取り出すという作業を無意識にできるようにするために、欠かせないものだからである。


そして「文字の暗黙知」は、他の情報に対しても応用が可能なのである。音であったり、匂いであったり、味であったり、他の媒体であるものを文字や言語に変換し情報を吸い上げる作業は、きっと「文字の暗黙知」ありきで可能になるのである。文字の情報を読み解くことができれば、ある状態のものを言語として捉えることができるようになる、「情報と文字」を変換する能力はきっと可逆的なのである。

本を読むようになると、語彙が身に付き、知識が増えるようになる。そして知識によって色々な物事の解像度が高まり、目に映るものがたくさんの情報であることに気づく。そんな情報が私たちの毎日を彩ってくれる。

これらは、誰しもが読書をすることで得られるものとして、きっとイメージしやすいものだろう。しかしそれらを得ることができるのは、文字を読解し無意識に情報化する力「文字の暗黙知」のおかげであり、その力を手に入れられる最も手身近な手段こそ、読書なのである。


「勉強は、この国で唯一許された平等なんだ」


未だ知らないことを学ぶのが勉強だとしたら、その平等を手に入れるために訓練を積む読書は、勉強でありながら人間社会を生きるやすくするための筋トレとも呼べるのではないだろうか。頭もよくなりながら筋肉もつく、こんな効率のいいライフハックことやるに越したことはない。



知ることは、今この瞬間からもできるアクションの中で、最も影響力のあるアクションなのである。



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