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桃仁




 雀が死んでいた。ひっくり返って死んでいた。ふっくらとしていたはずの胸はすっかり平らになって伸びている。地面をちょんちょんと跳んで歩いたり、休むために木を掴むはずの足は、硬く伸び死後硬直を感じさせた。まぶたはぎゅっと瞑ったまま。黒い舌はゴムみたいだが、胸に生えている毛はたんぽぽの綿毛のように柔らかそうだった。よく見ると細かくぶつぶつしたクチバシには、少しだけ、どろりとついた血があった。

 雀は、線路沿いの小道の側溝の上で死んでいた。茶色と黒色が混じった羽根にコンクリートの灰色が混じり合う。この雀はどうして死んだのだろう。工事現場の、真白に塗装された仮囲いにでもぶつかったのだろうか。仮囲いと側溝の間の少量の土からは、種々の雑草が元気よく生えていた。



 とても綺麗な死に方だと思った。薄荷の匂いのように僕の鼻腔をくすぐった。僕は、死に方には二種類しかないと思っていた。病気でくちゃくちゃになって死ぬか、交通事故でぐちゃぐちゃになって死ぬ。僕にはどちらも同じに思えてどうでも良かったが、今僕はこの雀の死に方を知ってしまった。





 最近の僕は上手く息が吸えなかった。猫背とマスクがそれを助長させ、少し歩くだけでもひゅっひゅと息をつかずにはいられなかった。あの子が消えてから、僕は日に日にがらくたに近づいた。

 いつもあの子は夕方にやってきた。ベランダでにゃあにゃあと大きな声で鳴き、自分の来訪を知らせる。あげるご飯はどんどん豪華になっていった。エリザベス女王が表彰したというシンプリーのカリカリにちゅーるをかける。すりガラス越しに見えるシルエットはどんどん大きくなった。愛おしかった。でもその日、あの子は来なかった。その日からずっと来なかった。

 猫は死を悟ったときいなくなるらしい。そういわれてることは知っていた。でもあの子は死を悟ったわけではないかもしれない。迷子になったのかもしれないし、拾われたのかもしれない。車に轢かれてはいないだろう。君が轢かれるわけがない。

 あらゆる手は尽くした。君を探して毎晩歩き回り、保健所に何度も電話した。黒い影が見えるたび、保健所の方が検索をかけてくれるたび、期待をした。なんの痕跡も見つからなかった。あの子が僕のもとに帰ってこない。何をしているか、死んだのか、それすらもわからない。



 何をしていてもあの子のことを思い出した。あの子は桃が好きだった。八月になると、実家から届く桃を特に好んだ。初めて桃を見たときの君は、目がまんまるになって鼻がふんふんふん動いていて可愛かった。猫も目が輝くんだと驚き、思わず顔がほころんだ。

 桃はピンク色の濃い下の方から柔らかくなる。そうしてヘタ側が熟れるまでゆっくりと何日も待つ。桃の熟れる時期を待つのは辛抱が必要だが贅沢だとも思う。じっくり待てば確実に熟れるのだ。


 棚から取り出した桃を手のひら全体で包むように持ち、ヘタの近くを指の腹でやさしく触る。完熟な桃はとても柔らかい。気を遣わなければ簡単にカタチが悪くなってしまう。割れ目に包丁を沿わせ、ぐるりと一周切り込みを入れる。桃は鋭利な包丁を吸い込むように受け入れる。切り込みに合わせて両手で優しく桃を包み込み、慎重に、少しずつ、繊維をプチプチ切るようにひねっていく。種がツルっとしているアボカドとは違い、桃の種には繊維が絡みつく。中心は甘みも強い。ふたつに割れた桃は片方に空洞を残し、片方は種を離さんばかりにしていた。

 僕は冷水をボウルに溜め、いつも丁寧に種のヌメリをとった。なんだかそうしなければならないように感じていた。ヌメリをとったら、水を拭き取り、空になったインスタントコーヒーの瓶に入れて集めた。種は瓶の半分以上溜まっていた。


 包丁を当てるとすんなりと剥けてくれる皮からも桃の香りは強くする。実はとても軟らかいが、あの子が食べやすいようにいつも小さめにカットした。自分用の小皿に移された桃をあの子はあぐあぐと食べる。口の周りの毛や黒いゴムみたいな唇が濡れるのも気にせず君は食べ続ける。食いしん坊な君がとても愛おしかった。全部食べ終わった君の口周りをグシグシと拭いてやるときが幸せだった。猫としてはずいぶんと大きくなってしまったけれど、僕よりはるかに小さな身体から、十分すぎる幸せをもらっていた。


 お腹がいっぱいになったあの子は、決まって日の当たるベランダに寝っ転がって毛繕いを始める。桃を食べた後の舌で、身体中をゆっくりと、時間をかけて舐める。私はそれを見ると教会に行ったような穏やかな気持ちになった。安心すると眠気に誘われる。桃の香りが染み付いた手をひとつ嗅ぎ、僕は睡魔を素直に受け入れる。夕陽の温かな色味はこのときのためにあると思った。幸せな日々だった。





 街灯もない真っ暗な田舎道を通って帰路についた。小粒の雨が降ってきていた。柔らかな羽根が雨水を吸い込む姿は見たくなかった。雨はいつもコモクロワッサンの匂いがした。自分にお金をかけるのが億劫で、傘を買う必要も感じなかった。僕のシャツは霧みたいな雨を吸い込み続けた。僕の小さなアパートが見えても雨は変わらず細かいままだった。


 僕は悲鳴のような軋み方をする玄関のドアを開けマスクを外す。荷物を下ろして洗面所へと向かう。床に転がっていたペットボトルには数センチの黄色い液体が残っていた。洗面器の周りには灰色のホコリが付いたままだった。朝と何も変わらなかった。昨日とも一昨日とも何も変わらなかった。




 棚に残った桃はとっくに食べごろを過ぎていた。熟れすぎた桃は掴むのすら躊躇わさせた。それと同時にこれを君に食べさせるわけにはいかないと思った。あの子の血となり肉となり唾液となるはずだったものを、僕は皮もろくに剥かず、歯を剥き出しにして齧った。口に入り切らない果汁が、ぼたぼたと指をつたって落ちていく。少しとろみのついた白濁の果汁が口の中を満たした。繊維状の果肉は舌に残り続けた。指先から腕には汁がつたい続ける。すべてを手に持っていることはできなかった。テーブルに何個かできた水溜りが段々ひとつになっていった。鼻水をすする音が部屋に響く。




 君はもう死んだのだろうか。


 君がいなくなってから、同じ夢ばかり見た。シロクマと一緒に街路路を歩くと、過ぎた家々は崩壊し、電柱は倒れてゆく。僕はずっと焦っているけれど、シロクマはずっと遠くを見ながら、のっそりと歩き続ける。そうして、起きる。こんな夜を繰り返している。

 夢の話を聞いてくれるあの子はもういない。





目が覚めた。夢で力が入っていた身体がバキバキと音を鳴らす。目の奥には疲れが残ったままだった。軽いアトピーで痒くなった皮膚をぼりぼりと掻きながら僕は布団をのかす。枕元に置いていた眼鏡は相変わらず汚いままだったが拭く気にもならなかった。

 喉の渇きは常にあって、舌の奥と喉の間に生まれる空間が非常に悲しいものに感じた。前歯の裏はざらざらとして、カサカサの唇を開けるのは億劫だった。

 僕は気力を出して立ち上がるとかそういうのではなくて、ただプログラミングされたことを淡々とこなすように目を開け、布団をのかし、眼鏡をかけた。右手はぼりぼりと肘を掻き続けた。


 朝起きて床掃除をする習慣は消えた。あれからどこの掃除もしていない。僕が掃除をしていた理由は君のためだったことを知った。


 ネスカフェエクセラの瓶にささったままのスプーンを抜き出しマグカップに一杯入れる。瓶の蓋は側面を回して開け閉めをする。触れられない黒い蓋の上部にはほこりがたまっていくばかりだった。お湯を沸かすのも面倒で、水道からマグカップに直接そそぐ。勢いよく流れ出た水はすぐさまマグカップから溢れ、ビチャビチャと周りに飛び散った。お粗末なインスタントはアメリカンコーヒーしか作れない。溶け切らない粉はミカヅキを作る。


 毎日が汚れを吸っているような感じだった。君が死んだかどうかすらわからない。外に出るたび君を探して、家にいるたび君を求める。桃の香りは僕の心をえぐり続けた。僕は今日もただ君の帰りを待つことしかできない。君の思い出を僕は反芻する。


 フローリングの床は冷たい。スウェットから出た足はその冷たさを脳に伝え、脳はその情報を無視した。意識や感覚そのものを放棄するのがしあわせの第一歩だと思った。クローゼットの前へと移動した足に無難な紺の靴下を履かせ、腕にはスーツをとおす。スーツは頻繁に洗えないがきちんとして見える。ひげもマスクで隠れる。


 玄関の鍵を閉める。アパートの中途半端な高さの階段を降り、線路沿いに駅へと向かった。いつも通り田んぼには栄養ドリンクの空き瓶が投げ捨てられていたし、歩道橋には数本のビールの空き缶が置いてあった。風景は何も変わらなかった。


 あの場所にもう雀はいなかった。汚れや羽根もない。跡形もなく消えていた。僕は雀がいたコンクリートの側溝を見続ける。長年使用され続け、粗く削られたコンクリートだった。そんな場所に花束はない。




 三ヶ月が経った。


 無表情な日々だった。油のような流れ方だった。ただ待つことしかできないのがどんなに苦しいかを知った。今日も僕にできることは待つことだけだった。すりガラスを見続けるたび僕も濁っていく気がした。


 僕は、もうそろそろ、君のいない世界に順化するべきなんだろう。


 戸棚を開けた。馬鹿なことをしなくてはならないと思った。焼カツオまぐろミックス味。香料・着色料が使われていないウェットフード。毛玉ケア効果のあるおやつ。おいしいものもあれば硬すぎるのも臭すぎるのもあった。あの子がいつも綺麗に残していたゼリーや血合いは確かに不味かった。君の残したものを僕は全部たいらげる。そう決めた。そうしなければならなかった。


 新聞紙を地面に広げる。少しだけコーヒーの香りが残った空き瓶から、種を一つ取る。溝にマイナスドライバーを当て、トンカチで思い切り叩く。桃の種は、簡単には割れなくなるくらい乾燥していた。


 ギリギリの量だろう。もやしのサラダくらい沢山あった。僕らの幸せな日々が確かに存在したことの証明でもあった。後遺症くらいの傷跡を残してくれたっていいんじゃないかと思った。


 僕は陶器のお皿に入った桃仁を机に運ぶ。磨いた銀の匙も横に置いた。僕はゆっくりと両手を合わせ、目を瞑った。日向ぼっこをする君を思い出す。桃の香りがすっと香った。幸せだった日々に感謝を込めて、僕は「いただきます」と呟いた。

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