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コロナ禍の予言と、絶望からの希望

予知と予言と、原因と結果

実は最近、地震、もしくはそれに類する天変地異的なものが起こるのではないかという予言を耳にしていた。それは、もともと9月26日という日付での話だったので、それで警戒していたが、旧暦、つまり太陰暦での9月26日である、11月11日のことではないかということになったが、結果として、何も起こらなかった。

知り合いのスピリチュアル系の人いわく、何も起こらないと思うよ、とのことだったが、物事には原因と結果がある。起こらないならば、それはそれで理由があるだろうし、起こらなかったのであれば、それはそれで理由があるだろうと、私は考える。そのことについて、今回は考えてみる。

コロナ禍と地震予知

今はコロナ禍ではあるが、神奈川県を主とする異臭騒ぎがある。これは、コロナとは全く別の面から見て、不気味な現象である。はるか昔、関東大震災のときにも起きた現象ということで、個人的には非常に警戒している。そういうわけで、以前もこんなnoteを書いている。

実際、関東を襲う大規模地震は、いずれ来るだろうと考えている。そういうことを念頭に置いて生活するのとそうでないのとでは、やはり意識に違いは出てくるので、それが大事ではなかろうかと、今は考えている。

コロナ禍において変化したこと

私がここ最近感じたことで、特筆に値するのは、未来に関することである。未来のことといっても、予言とか予知とか、そういうことではない。クリエイターが創り出す、作品に現れてくるメッセージともいうべきものだ。

作品は、その時どきの世相を反映させる。コロナ禍では、MIU404というドラマが印象的だった。あの時期、どのドラマも撮影途中で中断を余儀なくされ、撮影再開となって、ストーリーが変化したり、しなかったりではあったが、最後に世相を明確に反映させたのは、このドラマなのではないかと思う。ちょうどそのドラマが終わってすぐ書いたnoteがこれだ。

でも、今は同じコロナ禍ではあるが、このときとでは状況が異なる。どう異なるかと言うと、私の完全に個人的な見解ではあるが、みな「未来」を信じているような気がするのだ。この頃には、それが明確ではなかった。ある意味、混沌とした中で、各自でそれを見つけて下さい的な感じに見受けられた。まあ、私の勝手な解釈ではあるが。

今後の世の中に必要なこと

ところで、もう今から15年位前になるだろうか、とある小説を読んだ。村上龍さんの、「希望の国のエクソダス」というタイトルの本だ。この本には、ある意味、希望が詰まっている。ただし、絶望からの希望だ。私にとっては、当時病床にあった今は亡き母が読みたいと言っていたので貸してあげて、今でもそれが実家の本棚にそのままになっているので、見るたびに思い出す、記念碑的な作品でもある。

その当時は不登校というものが社会現象として問題とされ、その不登校を全面的に扱った作品であった。でも、とある雑誌のインタビューで読んだのだが、村上龍さんは、作家は読者に「希望」を与えなければならない、それが作家の使命であるというようなことを言っていた。まさにそのとおりだと思う。その想いが、この小説を彼に書かせたのだと、私は思っている。

そう、これからの世の中に必要なものは、「希望」である。ある意味、それ以外にない。

NHKの朝ドラの「エール」にしても、そう。絶望からの希望が見て取れる。鬼滅の刃にしても同様だ。やはり、絶望からの希望しかない。

ただ、映画の「鬼滅の刃無限列車編」には、煉獄さんの命をかけたメッセージがある。これですね。

海外では、日本の鬼滅の刃ブームが異常に見えるらしい。それもそうだろう。海外は基本的に個人主義。鬼滅の刃に見られるような、信念を持って、身を挺して他者を守るというような、武士道はそこにはない。でも、日本には、それがある。

日本には「和」という、他者と仲良くやっていこうという、前提がある。その前提ありきで社会が成り立っているのだ。

そして、そこにいる皆が、どんなことがあっても自分を信じ、ありとあらゆる困難に立ち向かっていくのであれば、そこに必ず「希望」はあると、私は信じている。




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