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ブラックボール(小説)

 僕が生まれるはるか以前、まだ地球には「夜」という時間があった。
 太陽が西の地平線に消えていき、少しずつ空が濃紺色に覆われて街中が光をなくしたらしい。

 何百年も前に月が急に発光しはじめるという、天文学史上、高名な学者の誰ひとりとして予想できないことが起きた。
 それまで月は太陽の光に照らされて輝いていたが、自ら光を放つようになった月の明るさは、太陽の光を受けていた時とは比べものにならないものだった。

 多少の明るさの違いはあれど、太陽が西に沈むのにあわせて東からは明るい月が昇ってくるのだ。
 その日を境に、地球から「夜」という時間も言葉もなくなった。

 やがて夜が恋しい人々は闇を欲するようになり、長い歳月をかけて闇を発生させることのできる機械の開発に成功した。
 一般的な商品として市場に流通するようになるまでには、さらにそこから70年という時間を要した。が、まだまだおいそれと買えるようなものではなかった。

 片手に収まる大きさの小さな球状をした物体で、光に反応して辺りを闇に変えることができるそれは「ブラックボール」と呼ばれている。
 値段はピンキリでそれは性能にも大きくあらわれていた。安価ーーといってもかなり高いがーーなものだと闇の時間が短ったり範囲が狭かったりするが、超高級なものを山に持って行き使うと、空の上まで闇に覆われ「星」と呼ばれる、黒い空の中でキラキラと輝く小さな点をたくさん見ることができるらしい。

 超高級品は本当に一部の裕福な人たちの娯楽のために存在するようなブラックボールで、一般人には手の届く代物ではなかった。
 普段、一般人はそれこそ本能的に闇を求めるという、生物としての根源的な欲求のようなものが出た時のみ、安価なブラックボールを使って部屋をひととき暗くすることしかできない。それが当たり前だった。

 何の前触れもなく、その話が飛び込んできたのは4ヶ月前。
 超高級ブラックボールの性能をはるかに超えるブラックボールの量産に、とある企業が成功したというニュースが世界中を駆け巡った。開発企業の研究者はインタビューで「人類の長年の夢が叶う瞬間が近く訪れる」と力強く宣言した。
 既に生産ラインの確保も出来ており、世界同時発売をするとのニュースを受けて、歓喜の雄叫びをあげる者、涙を流し喜ぶ者、山に行くための準備をはじめる先走った者、などたくさんの人々が好意的な反応を示した。
 
 そして待ちに待った今日、ついにそれは発売された。もちろん予約者が殺到したようだが、それも織り込み済みで生産をしており、全人口に行き渡らせても充分の供給量は確保できていたらしい。
 今、僕の手元にはかつて見たこともないほどの真っ黒な球体がある。
 さっそく試そうとして辺りを見ると、空に向かって伸びる黒い柱が何本も目に入ってきた。既に使った人がいるのだ。
いてもたってもいられなくなり、僕もブラックボールを使う。すると徐々にまわりから光が失われていった。

 知っている暗さとはまったく違う別格の深い黒に心臓は高鳴った。
 さらに光は失われていき、やがて漆黒の闇だけが僕のまわりに広がる。

 そして世界は静寂の時を迎えた。

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