117. 「それは私の責任です」ということが言い切れてこそ、責任者たりうる〜松下幸之助〜

みなさんこんにちは。


今回は、パナソニック(旧松下電器)の創業者で、経営の神様と言われている松下幸之助さんの格言を紹介します。


松下幸之助とは

松下さんは1894年、和歌山県の小地主の比較的豊かな家に生まれました。

しかし、4歳の時、父が米相場で失敗し、土地や家を手放すこととなり、父は1人で大阪に出稼ぎに行きます。

松下さんは小学校を4年で中退し、9歳で宮田火鉢店に丁稚奉公に出されます。

後に奉公先を五代自転車に移し、その時代にサントリーの起源の寿屋、鳥井信治郎と出会い、生涯に渡っての経営の師とします。


よくタバコを買いに行かされており、まとめ買いした方がすぐにタバコも用意でき、単価も安くなるため買いだめし、その小銭を貯めていたそうですが、丁稚仲間から反感を買い止めるようにしたそうです。

この時に、商売の才能が現れたのと、一人勝ちは良くないとも気づいたそうです。


大阪市に導入された路面電車を見て感動し、電気に関わる仕事をすると決め、
16歳で関西電力に努めます。

この時に、電球を直接線を引っ張る危険なものから、電球を簡単に変えれる電球ソケットを開発しました。


1913年に18歳で関西商工学校夜間部予科に入学、1917年に関西電力を退職しました。


大阪府東成群の自宅で妻、妻の弟、友人2人の計5人で電球ソケットの製造販売に着手しましたが、
売り上げはあまり良くなく、友人2人は松下さんの元を去りました。

ここに川北電気(現:パナソニック エコシステムズ)から扇風機の部品の大量発注があったために窮地を逃れました。

その後プラグがヒットし、経営が軌道に乗りました。

1918年、事業が大きくなったため、大阪市北区で松下電気器具製作所を創業し、
ソケットだけでなく、自転車用ランプ、乾電池なども販売しました。


松下さんは体も弱く、資産もなく、学歴もないところから経営に成功して来たことから、
「経営の神様」と呼ばれています。

ただそれをうまく活用し、
学歴がないから真摯な姿勢で学んだこと、
お金がないから丁稚奉公で商売を学んだり、
地道に計画を立て銀行の融資の中で事業を拡大させてきました。


さらに松下さんは、日本に家電を広めたり、
法律では定められていない週休二日制を取り入れたのも松下電器が始まりです。

休みの1日は休養のために、もう1日は教養のために使うこと、
として二日制にしたそうです。

また、今では普通になった無料配布も、
 ナショナルランプはいいものだから、
 乾電池を無料で1万個ください、使ったら良さが分かるはずだから乾電池も必ず売れる。
と伝え、1000個ほど配ったところで、約束の20万個も超え、47万個まで売れました。


「それは私の責任です」ということが言い切れてこそ、責任者たりうる

学歴もなく、健康状態も良くなく、お金もない状態からでも、
「自分が全て責任を取る」というところに腹を括るとなんでもできるなと思いました。

自分が経営するという中で、何が起きても自分が責任を取るという覚悟を持って来たからこそ、出て来た言葉だなと思います。

責任を取るからこそ自由な経営ができるというのは、
松下さんのやってきたことを見たら分かると思いますが、
週休二日制や無料配布など何が必要かを考えてアクティブな選択をしてきたのも、
そこがあってこそだなと思います。


小さい頃からも、経営の師はこの人だと、鳥井信治郎さんから学ぶと決めており、
その学んだことや経験してきたことを愚直に活かしてきたからこそ、
「経営の神様」とまで言われるような実績を作ってきたんだろうなと思います。


最後に

今回は、パナソニックの創業者、松下幸之助さんの格言について紹介してきました。

小さい頃から健康や学歴やお金など、不安要素がたくさんありながらも、
自分にできることを最大限やり抜き、学ぶ人からの教えも守ってきたのが、
この人の人生なんだろうなと思いました。


愚直に徹底的に、何が必要で、今ない仕組みでもどうしたら世の為になるか、
そこに自分が責任を取ると決めたからこそ、
様々なことに挑戦してきたんだろうなと思います。


自分が責任を取ると決めたら、そこはとてつもなく自由なんだろうなとも感じました。

自分もこれから仲間と様々なことにチャレンジしていくと決めていますが、
人生ややることに「それは私の責任です」と言い切るからこそ、
真の責任者足り得るんだろうなと思います。

全部自分の責任で、なんでもできるというところに立って、
仲間と豊かな人生を作っていきたいと思います。


それではまたどこかで。

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