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「理解」と「納得」の関係性

「理解しました!」

私たちは物心ついた時から幾度となくこの言葉を使ってきた。
しかし、私はカントの「超越論的知覚」やプラトンの「イデア論」と出逢い、この言葉を容易には使えなくなってしまった。

彼らの考え方を平たく説明すると、現実を正しく認知できている人間はいないというものである。(自己解釈)
もう少し詳しく説明すると、私たちが見ている「現実」とは、五感という曖昧な器官によって認識したデータを、脳によって恣意的に加工したものに過ぎないということだ。

私はこの考え方に大方賛成しており、真なる世界の姿はおろか、同じ人間の仲間であっても全く異なる現実を認識していると考えている。つまり、真なる世界(イデア)を認識できている人間は誰1人としておらず、1人1人が異なる自分の中の世界を持っているということだ。よって、認識している世界の前提が異なっている限り、世の中の真理や隣の人のことを「理解する」ことができるはずがない。

したがって、「理解しました!」という言葉はあり得ないと私は思う。

それにも関わらず多くの人が「理解する」という言葉を使うのは「無知の知」を自覚していないからだろう。つまり、自分が理解できていないことに気づけてないのである。

これは非常に危うい。
なぜなら理解したつもりになっている状態は、そこがゴールではないのにゴールしたつもりになり、それ以上思考を進めることができなくなるからだ。すなわち、恣意的にそれを説明原理だとみなして「納得」している状態である。

たしかに、結論が迫られた時などに「納得」が必要になることもあるが、あくまで「理解」ではなく「納得」だということを自覚しておくことが重要だ。
ここはゴールではなくセーブポイントなのだと自覚しているだけで、また思考を走らせるが可能になるからだ。

要するに、常に私たちは「無知の知」を前提に、理解しようと試み続けているプロセスの中にしか存在しえない、「考える葦」であることを忘れてはいけないということだ。


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