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声を聞いたことのない日本人留学生

知人のロンドンのある美術大学の教授が言っていました。
「日本人の留学生は、勤勉で出席率も大変良い。でも、彼らは美術の才能には素晴らしいものがあるのに、『セミナー』の時間に、日本人留学生と同じようなレベルの英語力の、他国の留学生の迫力と積極性に押されて、授業中、一度も声を出さない間に授業が終わってしまうことがほとんど。美術の才能の高い生徒なのにもかかわらず、発言や授業への貢献がゼロとみなされてしまい、大学のシステム上、高い成績をつけることができないのがとても残念。日本人留学生の中には、声を聞いたことのない生徒もいる…。」と。

これは特定の留学生の話ではなく、彼女が今まで受け持った複数の日本人留学生が同じ問題を抱えていたそうです。

イギリスの大学では、2時間ぐらいの講義(講師が生徒に対してほぼ一方的に行う)の後に、1~2時間の『セミナー』が行われるというのが一般的です。日本で言うセミナーと言うと、だれかのお話を聞きに行くというイベントを私は想像してしまうのですが、イギリスの大学のセミナーというのは、「生徒間の討論の場」という感じの授業スタイルです。午前の講義で習ったことを午後のセミナーで生徒間のディスカッションによって深ぼっていくという授業システムです。

ラテンの血がうらやましい

上記でディスカッションの時間に、英語は片言だけど発言を積極的にする他の国からの留学生に日本人が圧倒されているという事に触れましたが、ラテン系のスペイン人、イタリア人の積極性はものすごいみたいですね。その煮えたぎった熱いラテンの血を少しでも日本人に分けてあげてほしいです。彼らは、彼らの母国語のアクセントそのまま、時制や三単現のsなどの文法は特に気にした様子もなく(もちろん個人差はありますが)彼ら独自の英語でワーーーーとしゃべります。彼たちは「伝えたい!という思い」が、頭で考えるよりまず口から出てしまうという感じで話します。そんなスペイン人やイタリア人を心から尊敬します。

ここ数年はイギリスのEUからの離脱により、EU諸国からの留学生の学費が以前の倍ぐらいになってしまったことが原因で、ヨーロッパからの留学生の人数は激減しているようですが、日本人留学生の出番が増えたという変化は見られていないようです。

日本の哲学の影響

『能ある鷹は爪を隠す』、『出る釘は打たれる』ということわざに日本の古き良き時代の哲学を垣間見ます。「俺ってすごい!」「私は〇〇がすごく得意なのぉ~」と言う発言に周りがさ~っとひいていくような文化の中で育った日本人。授業中に多く発言するぐらいだったら、テストで自分の実力を証明しよう!と家や塾でコツコツと努力して、普段おとなしいのに学年でいつも3位以内に入っている生徒の方が、なんかかっこ良かったりするのが日本のカルチャー。釘は打たれたなんぼのラテン系の国々、アメリカ人のような、小さい頃から「出てなんぼ」の社会でサバイバルしている人たちの中で、爪を隠し、打たれないように首をすぼめている釘のような日本人留学生は、海外に住んだから突然羽を広げられるというものでもないよな~、と面倒みていた留学生の学校訪問で先生とお話する度に、そう思いながら話を聞いていました。

意見を持たない日本人

面倒見ていた留学生の先生から、その留学生が1時間半のレッスンでエッセーが3行ぐらいしか書けないので、なんとか言ってあげてくださいと言われたことがありました。
留学生と話したときに彼が言っていたのは、「英語で書けないというより、何を書いていいかわからない。」。クラス内で発言がないことに対しても「英語が言えないんではなくて、何を言っていいかわからない。」という返事が返ってきました。
私は、これに関しては、個人が悪いというよりは、日本の教育システムに原因があると思います。前置きしておきますが、イギリスの教育システム全てが素晴らしいわけではありません。基本的に先生が話して生徒が聞くというスタンスで小学校から高校卒業まで教育されている日本では、自分の意見を持ってそれをクラスで分かち合う時間が極端に少ないのではないかなと思います。例えば先生が「意見ある人?」と言って誰かが答えても、その意見に対して先生がMC(司会者)のように回していかない限り、討議がとまってしまうのだと想像します。

セミナーのやっかいなところは、自分の意見を言うだけの役割を求められているわけではないということです。セミナースタイルの授業では、自分の意見を伝えることだけが目的ではなく、誰かが発言したことに対し反応して、同時に他の生徒からの質問を受けそれに上手く返答しながら、様々な角度からその問題を分析し、クラス全体で問題/課題の理解を深めていくというものです。

イギリスやアメリカは、小学校から生徒間で意見が合おうが食い違おうが、とりあえず言い分を聞き、それに同意したり反論したりができるような授業があるようです。実際に、イギリスの大学のセミナーは、先生はあくまでオブザーバー的な立場で、セミナーの中での討議は生徒間の意見交換が中心になるので、やはりそこで意見を求められ慣れていない、意見を特に持っていない日本人留学生は、殻の中に閉じこもりがちになってしまうのだと思います。
討論になれていない私を含む日本人にとってのもう一つの難しい問題は、相手が自分の意見に対して「それには同意できない。」とコメントをしてきたりすると、それだけで動揺してしまうというところかもしれません。違う意見があっても全く問題がなく、これという正しい理想的な答えや結論があるわけではないのがディスカッションですので、他の人が自分の意見に疑問を投げかけてきても全く問題がないのですが、ディスカッションに慣れていない私たち日本人は「それには同意できない」と言われた後は、なんと言っていいかわからず黙ってしまうという傾向もあると思います。なぜそういう意見をもっているかの主張を試みたり、反対意見の理由付けを聞いて、双方の意見を融合させたちょうどいい意見の着陸点をディスカッションの中で見つけるというテクニックは、討論スタイルの授業になれている他の国の生徒たちのようには簡単には習得できないものだと思います。

日本人留学生は内気で積極性がなく、社交性がみられないような捉え方をされがちですが、イギリス人の先生たちと日本人留学生の話になるたびに、実は彼たちの個人的な問題だけではないと伝えています。ただ留学している以上、イギリスなど異国の土俵での勝負となると、日本の文化・教育体制を理由に、自分を変える努力することを躊躇してばかりいたら負け相撲ばかりになってしまうので、他の国からの留学生や現地の学生と肩を並べられるように、本人が殻を少しずつ割っていくしかないのが難しいところです。

『影の努力』より『目に見える努力』

「影での努力」が評価される日本と「明らかに見える形での授業への貢献」を生徒に期待する欧米の教育システムの差が縮まることが、短い留学生生活をより内容の濃い、充実した、そして満足感を得られる貴重な体験となる鍵ではないかなと思います。

留学生本人たちの留学先における努力もさることながら、日本の教育も改革を行なっていく事が理想であると思います。でも実際には『受験合格』が最終ゴールで、それに向けて作り上げられている教育カリキュラムに『ディスカッションのレッスン』を加える時間の余裕はきっとないのでしょうし、生徒の親達も、何より生徒達自身もそういったカリキュラムの改革は望んでいないのかもしれません。

と言う事は、やはり留学生が留学先で刺激を受け、自分を自ら改革して行くしかないのでしょうね。

頑張れ、留学生!

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