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室町時代劇:(1)始動

その家は想像以上の大きさだった。おやじに連れられてやってきた俺は、あんぐりと口をあけて眺めた。大きな家だとは聞いてはいたが、ここまでとは。門構えのあまりの立派さに呆然となった。

俺は悲田院という寺で育った。その寺には男の子たちが外から連れてこられる。赤ん坊もいれば、同じ年頃の子供も沢山いた。皆に共通していたのは、親がいないと言う事だった。子供達は大きくなると、出家して僧になる。そうした中で俺は六歳まで育った。

しかし俺は寺での生活に満足していなかった。

寺での生活が悪いものだったわけではない。着物も着せてもらえるし食べるものもあるし、勉強もさせてもらえる。

けれども俺はもっと広い世界が見たかった。寺の外の世界が知りたくて仕方がなかった。そう思って動いたのが今日の事だ。早朝、まだ暗いうちに見張りの坊主が交代する時、開け放しになっていた裏口から外へ出た。寺へ連れ戻されないところまで走っていった。

どれだけ走ったかは分からない。町まで来て、これからどうしようと思っていた矢先におやじと会って、今いる家に連れてこられた。おやじは旅の一座をしているという。旅の一座が何のことだかよく分からなかった。とにかく悪い人ではなさそうだったので、そのまま付いて行った。

俺達がおやじの家に着くと、入り口にいた女が家の中へ声をかけた。

「新しい子だよ!あんたたち、世話してやっておくれ」

すると、子供達がやってきて俺を部屋の中へ連れて行ってくれた。四人いる。皆薄汚い着物を着て、髪もぼさぼさだ。見た事のない赤や黄色や緑、青の着物を着て、袴はつけていない。顔や腕も薄汚れていた。男の子供が二人、女の子供が二人。見た所俺と同じ年恰好か、少し大きい子供のようだ。

しかし、全員なにやら楽しそうな顔をしていた。何か楽しい事があるのだろうか。すると一番背が高くて年かさに見える男の子供が俺の事を満足そうに眺めるとこう言った。

「お前、家出してきたんだろう」

家出?家出とは何のことだろう?

「母ちゃんや父ちゃんと喧嘩してきたんだろう?見つかるとひどいぞ。奉行衆の叔父さん達にも思いっきり叱られるぞ」

母ちゃんと父ちゃん?何のことだろう。聞いたことのない言葉だった。俺がまごまごしていると、大きい女の子がこう言った。

「あんた、人の話聞いてんの?」

「聞いてるとも。でも母ちゃんと父ちゃんとは何のことだ」

返事をする代わりに、子供達は笑い出した。

「母ちゃんと父ちゃんを知らない?嘘つけ!」

「嘘つき!」

「嘘なんかついていない。俺が叱られたことがあるのは寺の坊主からだけだ。母ちゃんというのも、父ちゃんというのも聞いたことが無い。誰の名前なんだ」

それを聞いて、子供達は一瞬静かになった。

「寺?お前寺の人間か?」

「寺の人間ではないが、そこで育った。」

「じゃあ、お坊様と暮らしてたの?」

「ああ、そうだとも。俺や、寺にいる他の子供達皆そうだ」

そこまで話したとき、さっき入り口で声を上げていた女が急いでやってきた。

「あんたたち!新入りをまたからかってるね!やめなさい!何度言ったら分かるんだい。この子はしばらく家で預かるんだ、とっとと家の中を案内してやりな!」

ものすごい剣幕だった。俺は女を絵草紙の中でしか知らないが、この女は大声で子供達を叱るようだ。

「母ちゃん、分かったよ。おい、こっち来いよ。家の中を見せてやる」先ほどの背の高い子供が言った。

子供達は踵を返し、家の中を案内してくれた。大きな板張りの部屋がいくつもあり、広い廊下でつながっている。家の中には中庭があり、大きな柿の木が植わっていた。寺にも柿の木があって毎年仏様に柿の実をお供えしたものだ。この家でもやっているのだろうか。

庭の片隅にはもう一つ建物があった。そちらにも板張りの部屋が沢山あった。

「こっちは兄さんや姐さんたちが使ってるんだ。勝手に入ると叱られるから、絶対入るなよ」

背の高い子供が念を押すように言う。兄さんは分かるが、ねえさんとは何だろう。

もう一つの建物の周りは広い庭になっていて、松や楓の木が植わっていた。なかなか綺麗なものだ。庭には細かい白い石が敷き詰められている。

「この庭で兄さんや姐さんたちが稽古をするんだ」

もう一人の背の低い男の子供が教えてくれた。

庭をぐるっと回り、厠や台所、井戸などを見せてもらった。中庭から家の中に入ると、赤い着物を着た背の高い女の子がこういった。

「あんた、名前は?あたしはきよ」

「俺はきちまる」青い着物の背の高い男の子が言った。

「おれはとくじ」緑の着物の小さな男の子が言った。

「うちはこゆき」黄色の着物を着た小さな女の子が言った。

俺は自分の名前を名乗るのを一瞬とどまった。藤丸という名前はあるが、これは寺の坊主がつけた名前に違いない。

俺は寺での自分を捨てたかった。寺に引き戻されたくない。その気持ちが強すぎて、名乗ることをためらった。親のつけた名前がもしかしたらあるのかもしれないが、俺は自分がどこから来て何者なのかが分からない。それが悔しかった。

「ふじ・・・」そこまで言いかけて止めた。

「ふじ?ふじっていうのかい?」

「富士山の富士の事かい?」

「たぶんそうだろう」

俺は焦って話をさえぎった。

「ちょっと待ってくれ、違う、今のは名前じゃない」

子供達はぽかんとした顔をした。

「名前じゃなけりゃなんなのよ?」

「俺達、お前の名を聞いてるんだよ?どう呼べばいいんだよ?」

そこで俺は適当に言った。

「おれの名前は保名(やすな)だ」

「葛の葉狐」の絵草紙に出てきた名前を適当に言った。

これは信じてもらえたようだった。

「保名、か。おい、こっち来いよ。兄さんたちが帰ってきたみたいだ」

「河原の芝居はもうおしまい?夜になると思ってたのに」

「多分越後に行ってた兄さんや姐さんたちだろう。今日戻るって話だったろう?」

俺達が入り口に向かうと、すでにそこは人でいっぱいだった。
汗と埃にまみれた男と女が十人ほど、上がり框をふさいでいる。

何やらおやじと話を交わすと、全員家の中へ上がってくる。皆遠くから帰ってきた割には話が忙しい。大勢が一気にしゃべっていて何が何だか分からない。

「兄さん、姐さん、お帰り!」

徳二や小雪が帰ってきたばかりの男や女たちにしがみついて甘えている。何人かのものが通りすがりに俺の頭をぽんぽんと叩いていく。これに何の意味があるのか俺には分からなかった。

夕方、おやじに呼ばれておれは外へ連れていかれた。奉行衆という所へ行くらしい。

奉行衆の所へ行くと、昼間におやじから聞かれた質問を繰り返された。同じことを聞かれても答えられないものだらけだ。

家はどこか?
家族は?
どうして町中で座っていた?
誰かと待ち合わせをしていたのか?

家族がいない俺にとっては答えようのないことだらけだ。下を向いたまま黙っている俺を見て、奉行衆の一人が紙に何かを書きつけ、おやじに話しかけた。

「これだけきちんとした着物を着て髪まで結っている子供だ、すぐ家族が見つかると思いますよ。きっと迷子か、家族と諍いがあったかのどちらかでしょう。この町にはそうそうこんないい暮らしをしている家は無い。すぐにあたってみましょう」

奉行衆の所での用事が済んでおやじの家へ戻ると、飯の支度が始まっていた。今日は家で出迎えてくれた大人の女と俺達子供達だけで食事をするようだ。

俺達が家の中へ入ると、女が迎えてくれた。

「何か分かったかい?」

「いや、まだ何も。でもすぐに家族を探してくれるそうだ。いい暮らしをしていそうな家をあたっていけば、すぐに見つかるのではないか、というのが奉行衆たちの意見でね」

多分、そんなものは現れないはずだ。俺は自分が今朝どれだけ走ったかもう覚えていないが、かなり遠くまで来ている。そう信じたかった。寺に連れ戻されるのはまっぴらだ。

「ほら、お膳。自分で運んでちょうだい」

女が俺にお膳を渡した。膳の上には粥が入った木の椀と、漬物と野菜の小鉢、あと味噌汁の椀がある。箸も添えられていた。他の子供達は囲炉裏の周りを囲み、すでに食事を始めていた。

吉丸と徳二が喧嘩を始めた。

「おい、おれの漬物だぞ!手を出すなよ!」

「昨日おれの白菜を取ったのはお前じゃないか!それに今日の稽古では俺が勝ったんだぞ!ひと欠けもらうからな」

そう言って吉丸は徳二の皿から漬物を箸で奪うと、さもうまそうに食べてしまった。徳二が吉丸にとびかかり、取っ組み合いの喧嘩が始まった。

「あー、もう。また始まった」

いつもの事、と言わんばかりに清と小雪は自分たちの膳をかかえ、女の近くに場所を移した。女は大声で二人を叱りつけた。

「あんたたち!食事中に喧嘩するなといつも言ってるでしょ!お膳のものがこぼれたらどうするつもりよ!すぐに大人しく座らなかったら、二人とも夕餉は無しだからね!」

すごい剣幕だった。寺の行儀作法を指導する坊主の何倍もの大きさの、部屋中に響き渡る声だった。坊主ならいたずらをした子供達をまず廊下にだす。そして小声で、けれども有無を言わさず自分に従わさせる。普通の家だとこうも違うものか。

叱られた吉丸と徳二は一気に粥と味噌汁をかき込み、慌てて野菜に手を付け始めた。あれでよく喉に食べ物が詰まらないものだ。

「かあちゃん、ごちそうさまでした!」
「おふくろさん、ごちそうさまでした!」

吉丸と徳二がそう言って、奥の台所の方まで膳を抱えて走り去った。

飯が終わると、することも無いので、おれは先ほど吉丸と徳二が言っていた「かあちゃん」と「おふくろさん」、どっちがあの女の名前なのか尋ねてみた。

二人は苦笑した。

「かあちゃんの名前は「かあちゃん」じゃないよ!」

「おふくろさんの名前も「おふくろさん」じゃない!」

小雪が割って入った。

「保名は自分のかあちゃんの事をなんて言ってたの?」

「かあちゃんとはなんだ」

「おふくろさんのことだけど・・・あ、でもこの家ではおふくろさんの子供は吉丸だけ。うちも徳二も清も、皆おふくろさんのことはおふくろさんと呼んでるよ」

俺は不思議になって小雪に聞いてみた。

「お前はあの女の子供じゃないのか」

「ちがうよ。ここの家の子供は吉丸だけ。うちと徳二と清には親がいない」

「じゃあ、俺と似たようなもんだな」

「保名も親がいないの?」

「ああ、そうだ」

「一緒に暮らしたことは?」

「ない」

「そっか。うちは去年まで一緒に暮らしていたけど、二人とも死んじゃった。その後預けられた親戚の人も死んじゃったんで、道端に座っていたらおやじさんから声をかけられた。悪い人じゃなさそうだったのでついてって、いっぱいご飯を食べさせてもらって。それ以来ずっとここにいる」

「そうだったのか・・・俺と一緒だな。そうか、かあちゃんとは吉丸の母上の事だな。でも、他の三人はおふくろさんと呼ぶ」

すると清と小雪が笑い転げた。

「母上、ってあんた、お武家さん?」

寺に時々くるどこかの家の使用人らしき者が使っていた言葉を真似しただけなのだが、何かおかしかったらしい。

「いや、武家ではない」

「そっか、さっき寺って言ってたもんね。寺だと母上っていうんだ」

寺で俺が一緒に暮らしていた連中は、母上や父上の事は皆「おたあさま、おもうさま」と呼んでいた。俺は何かが違うような気がして、そのようには話さなかった。

結局、俺がこの家にいる限りは、吉丸の母上はおふくろさんと呼び、父上はおやじさんと呼ぶことになっているようだ。

気が付けば、俺以外の全員が床に寝そべり、俺だけが正座をしていた。

「堅苦しいな、お前もさっさと寝そべろよ」吉丸が業を煮やして言った。

「いや、俺はこれで慣れているから」

「そんな正座なんかしてつんと澄ましやがって。あ、でも寺の坊主なら経を上げるときには正座するもんな。経を上げてみろよ」

俺は観音経を唱えた。

全員あっけに取られていた。

「今のが全部か?」

「そうだとも」

「本当に覚えているのか?」

「この経ばかり聞いて育ったんだ、覚えているとも」

「お前、坊主になった方が良いんじゃないか?正座もできて経も上げられるなら坊主になれよ。この町にも寺はあるぞ」

「いや、おれは寺には戻らない」

「なんでだよ」

「寺の事しか分からないからだ。俺はもっと世の中の事が知りたい」

「ふーん、変なの。町の四つ辻だとお坊様が良く托鉢をやってるのに」

そういえば、今日おやじと出会う前に、俺は汚い身なりの男の横に座っていた。剃髪もしておらず髭もぼさぼさだった。あれも坊主だったのだろう。証拠に人から食べ物を貰うと経を唸っていた。

そのことを話すと子供達は全員吹き出した。

「あれは乞食なんだよ。本物のお坊様じゃない。どこからか袈裟を仕入れてきたのか分からないけど、お坊様のふりをしてるだけだよ」

「そうなのか?観音経を唸っていたけど・・・」

「あれだけ長生きしてればお経の一つも言えるようになるよ」

そんなことを話していたら、夜が更けてきたようだ。おやじさんや若い男や女達はまだ帰ってこない。

おふくろさんが言った。

「今日は皆もうおやすみ。明日になれば兄さんや姐さんたちが帰ってきているからね」

奥の狭い板の間の部屋に筵を敷き、その上で眠るようだ。

俺は着ていた水干と袴を畳むと、下着一枚になって筵の上に横たわった。

「そんなに何枚も着物を着ているのか?」吉丸が言った。

「これの事か?」俺は下着の事を指して言った。

「そうだ。着物の下にまた着物なんて・・・」

「寺では本当に不思議な生活をしているな・・・」

昨日の夜から、外に出られるように厠でこっそり着替えて支度をしていたんだ。着ていて何がおかしいんだろう。

「俺達はこのままで寝るよ」

そう言うと吉丸や他の子供達も、着替えもせず筵の上に横たわり、すぐに寝息を立て始めた。

俺も横になった。朝早かったのと、走り続けて疲れたのもあるが、脚が痛くてたまらなくなってきた。その晩は足の痛みと戦いながら、何とか少しの間だけうとうとすることができた。

はっと気が付くと朝になっていた。寝過ごしたようだ。子供達は誰もいない。着物もない。廊下を走っていくと、中庭の柿の木の周りに子供達がいた。吉丸が木に昇り、俺の水干と袴を柿の木の枝に掛けている所だった。俺に気が付いた吉丸が大声で言った。

「寝坊助!お前、二枚も着物を着なきゃ寒くてやってられないんだろう?秋はまだ始まったばかりだと言うのに。こんなに着込んでいるなんてどこの坊ちゃまだよ。おい、軟弱!着物を返して欲しけりゃ上がってこい!」

ちょうどいい大きさの柿の木だ、幹も十分に太い。

俺は寺で行儀作法の坊主がいない時を見計らい、毎日松の木で遊んでいた技を使うことにした。

少し勢いをつけて走り、柿の木の幹を足の裏でとらえる。そのまま幹を駆け上り、身体を後ろに伸ばした。吉丸が枝先にかけた俺の水干を取ると、そのまま後ろにくるっと周り、そっと地面に降り立った。ここで音を立てると坊主に見つかる。あくまで静かに降りるのが肝心だ。

ふと見ると、吉丸だけではなく、清も徳二も小雪もぽかんとこちらを見ていた。

「お前、そんなことができるのかよ!」

「おれもやってみたい!」徳二が割り込んできた。

「うちもやってみたい!」清や小雪も興奮しながら話しかけてきた。

こんな遊びだが、本当にやりたいのだろうか。

「これは遊びだよ。お前たち本当にやりたいのか?」

「やりたいよ、もう一回やって見せろよ!」徳二が言った。

遊びだから、ともう一度念を押し、もう一度同じことをやって見せた。
吉丸が最初にやってみた。木の幹に足をかけるところまではできても、すぐに尻餅をついてしまう。俺はもう少し勢いをつけて柿の木まで走ってみろと言ってみた。

勢いをつけて走った吉丸は、二歩だけ幹を駆け上がることができた。しかし今度は背中から地面に落ちてしまった。

「こんなに難しいのかよ!」

吉丸は悔しそうにしていた。他の連中も試しにやってみたが、皆大体似たようなところまではいく。二歩、幹を駆け上がる所まで行くのだが、そこでどうしても背中から落ちてしまう。

俺はもう一度手本を見せた。

「柿の木に足をかけた後はへその下に力を入れ、駆け上がってきた勢いをそのまま使って上まで登るんだ」

一番背の低い小雪がまず成功した。柿の木の枝まで手が届き、あとは俺と同じように後ろ向きに回る。しかし着地の時にドスンという音を立ててしまう。

次にできたのは徳二だった。だが、やはり地面に大きな音を立てて降りてしまう。「もう殆どできている。あとは足音を立てないように降りるだけだ」
俺はもう一度手本を見せてみた。

「後ろに一回転したら、へそのあたりに力を入れたまま、上半身をぐんと上に引っ張るんだ。そうすると地面に降りた時に音がしない」

その日は、午前中おやじさんに呼ばれた。昼飯が終わってからもう一度柿の木で遊ぶことを約束して、俺達は分かれた。

おやじさんと俺は部屋の板の間に向かい合って座った。

「昨日、奉行衆の前では結局何も喋れなかったけど、一晩落ち着いてみて何か喋れることが出てきたんじゃないかと思ってな。どうだい、せめて今までどこに住んでいただけでも教えてはもらえないだろうか」

吉丸たちには寺に住んでいたと言ってしまっている。これではいつ何時おやじさんの耳に入るか分からない。ここは、もう自分で言ってしまおう。

「ここに来る前は寺に住んでいた。でもどこにあるのかも分からない。暗いうちからずっと駆け通してきて、ここの町にたどり着いた。どこをどうやって走ってきたのかも分からないし、今自分がどこにいるのかも分からない」

これ以上、言いようがなかった。昨晩、まだ日も登らない頃から走り通しで、どこをどう走ったかなど分かりはしなかったからだ。

「時間はなんどきだったかい?」おやじさんが尋ねた。

「確か丑四つの刻(午前三時)」

「丑四つの刻か・・・早いな。そんなときからずっと走って、で、この町に来たと。あの路肩で乞食坊主の隣にはどのくらい座っていた?」

「そんなに長くないと思う。座って、隣の坊主の顔と着物をとくと眺めて、前にあった鉢に食べものが落ちていくのを少しの間見ていただけだ」

「そうか、丑の刻から午(うま)の刻(午後十二時)までね・・・分かった、ありがとう。これも奉行衆に伝えておこう」

そういうとおやじさんは立ち上がり、表に出て行った。

俺は不安になった。多分近くの寺にも奉行衆が行くことになるのだろう。俺のいた悲田院にも連絡がいくのだろうか。もう一度連れて帰られるのだろうか。

不安な日々が始まった。その不安を拭い去ってくれたのが吉丸だった。吉丸は柿の木を登れるようになりはじめ、お礼にトンボの切り方を教えてくれた。
「お前はもうほとんどできているようなものだから、あとは走ったりしないでそのまま飛んで後ろや前に回るだけだよ」

そう言って俺のやることを見ていてくれた。初めは走って空中で回っていた。こつが吞み込めるとその場でくるっと後ろや前に回れるようになってきた。

座の芝居に出ていた男達や女達も、俺達の稽古を遠巻きに見ながら嬉しそうにしている。男達が俺たちの方に近づいて来て、色々言ってくるようになった。

「前と後ろができるようになったら、今度は横に回ってみろ」

横になんか回れるのだろうか。

「お前には出来るのか?」そう訊ねたら、男の一人が言った。

「よく見てろよ」

男はその場でくるっと横に回って見せてくれた。

「これが出来りゃもっといろいろな軽業が出来るようになるぞ。初めは手をついて良いから、体の右側の方に回ってみろ」

と思った矢先に男達に持ち上げられ、俺はぐるっと横に回転していた。おれがやっていた後ろ周りとはまた随分違う技だ。始めのうちは手をついて回り、最後に後ろのトンボを切る、という事をやらせてもらった。すると吉丸が俺の袖を引き、こっそり声をかけてきた。

「あの人たちはここでは兄さん、姐さんと呼ぶんだぞ」

お前と呼ぶのはいけないらしい。

そのうち横に回る回数が増えていき、だんだん技にも慣れてきた。兄さん達が根気よく俺に教えてくれた。

ある日の晩、兄さんの一人がおやじさんに言っているのが聞こえてしまった。

「おやじさん、保名の呑み込みは早いですよ。あの調子じゃ、今度の神社での奉納の舞に出してもいいんじゃないでしょうか」

「うん・・・あともう何日か待とう。まだ奉行衆が親探しをしている最中だから」

それを聞いて、俺は少し安心し、少し不安になった。奉行衆は俺の親を探している、とおやじさんは言った。それでは、寺はどうなったんだろう?
その日の晩、俺は途中で目が覚めてしまった。その時おやじさんとおふくろさんが話しているのが聞こえた。

「奉行衆にはこの界隈の寺も探してもらっている。たぶん保名は寺のお小姓か何かをしていたんじゃないだろうか」

「そうね、きちんとした服を着ている子だし、お小姓というのはあながち外れてもいないでしょう」

「いずれにしても子供の足じゃそう遠くから来たものではないと思う。もうしばらくしたら奉行衆の所へ聞きに行ってみるよ」

朝が来た。いつものように軽業の稽古をやり、一日が過ぎていく。七晩寝た後、俺はおやじさんに呼ばれた。

「奉行衆から聞いたんだがな。結局お前さんを探している家も寺も見つからなかったそうだ。どうだろう、このままここの家にいるかい?お前さんの軽業は見事だし、年かさの連中からも稽古に熱心だと聞いている。頑張れば出し物にも出られるようになるだろう。おじさんはこのまま保名がここにいてくれると嬉しい」

「本当ですか?!」

俺は天にも昇る気持ちだった。願ってもない一言だ。ここの家にいられる。吉丸たちや兄さん、姐さん達と稽古に励める。俺は二つ返事で言った。

「お願いです、ここにずっと置いてください!」

その日の昼過ぎ、笛吹と鼓の兄さん達と一緒に、俺と吉丸は町の四つ辻に立つことになった。

「四つ辻で何をやるの?」

「お前たちがずっと稽古してきたことを、道を行く人たちに見てもらうのさ」

「楽もつけて?」

「そうだよ。ほら、あそこに四つ辻があるだろう?今日は他の芸人達もいないようだし、俺たちが独り占めに出来る。辻の角まで来たら、準備しよう」

俺たちは四つ辻の一つの角を陣取った。

兄さん達が笛と鼓を奏で始めたのを合図に、出し物が始まった。楽に合わせて俺と吉丸が軽業を見せる。音に合わせて動くので何ともやりやすい。音楽がだんだん早くなると、それに合わせて動きも早くしていく。音楽がもうこれ以上早くなれない、という所で、俺と吉丸は特大のトンボを切った。

いつの間に集まってきたんだろうか、周りには大勢の人垣ができていた。見ていた者達から拍手があがり、俺達の方に茶色の小さな丸いものが沢山投げ込まれた。

吉丸が小さい声で言った。

「おい、ぼうっとするな。早く拾えよ」

茶色い丸いものは金だという。軽業を見せると金がもらえるのか。そんなことも全く知らなかった。俺は吉丸と一緒に金を拾い集めた。兄さんたちは上機嫌だった。

その日、俺たちは五度、四つ辻で出し物を披露した。

「保名、吉丸、今日はたんと稼いだな。おやじさんもさぞかし喜んでくれるだろう。次の神社での奉納の踊りの時、お前たちも軽業を披露させてもらえるようだとおやじさんから聞いているぞ。精進しろよ、絶対うまくいくから。さあ、帰って稽古の続きをしようか」

神社での奉納の踊りだと?どんなものなのか想像もつかないが、また軽業をやらせてもらえるようだ。帰り道、俺達はふざけながら駆け足で家路を目指した。

(続く)


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