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昔語り:エッセイ : 危険と共に過ごす海外生活

パーンという激しい爆発音の後に、地響きのような揺れが起きた。

道行く老人たちは皆、路上に伏せた。

道の反対側にうつぶせになっている老人がこちらに手を振って、「Duck!」と叫んでいる。

とっさに私も路上にうつぶせになった。

しばらくして消防車と救急車のサイレンが鳴り、パトカーが何台も通り過ぎて行った。

道にうつぶせになった人達は何事も無かったかのように起き上がると、その場を急いで立ち去った。

私がイギリスに連れてこられたのは14歳の時。親の転勤で無理やり連れてこられた。

ドイツがまだ東西に分かれた二つの国で,マーガレット・サッチャー首相やゴルバチョフ書記長が活躍していた時代だ。

中学校での生活が楽しくてならない時だったのに、当時日本で流行していた作家のエッセイにはまった親は、「子供は外国に連れて行けば一年も経たずにその国の言葉を喋るようになる」という言葉を鵜吞みにして、英語のできない高校生と中学生だった私達子供を連れて海外赴任に出かけた。

テロが蔓延している国だった。隣国との国境と宗教の争いで、私たちが暮らすことになった首都では頻繁にテロ行為が繰り返されていた。

事前情報としてそのような事を聞いていなかった私たち家族は、自分の身の安全は自分で守るように言われた。

私は、地元の言葉が出来ない両親を助けるために街のインターナショナルスクールに放り込まれた。

少しずつではあるものの、地元の言葉を聞いて理解できるようになった頃、あることに気が付いた。

それは、自分たちの周囲がかなり差別的な言葉を浴びせてきている事だった。

現在の英語では差別的な表現としてあまり使われなくなっているらしい「東洋人」という言葉が普通に使われていた時代。人数的に少なかった東洋人に対する差別意識はあった。

これはどこの国でもある外国人差別の一つだろう。当然日本にも外国人差別はあるし、どこの国の人でも一旦自国の外に出ると避けられない事の一つだと思う。それを負担に思うか思わないかは、受け止める側の度量の深さにもよるのかもしれない。

実際に自分や家族に対して、こちらが言葉が分からないだろうと踏んで差別的な言葉を投げかけてくる人に合うのは、何ともやりきれないものだった。言葉が分かるようになって嬉しいとは思えず、反って何も分からなかった頃の方が楽だったと感じた。若い世代からの差別的発言が多かった。

しかし、一方で「この国に住んで大きくなっていくのなら、これだけは知っておかなきゃ」と何かと面倒を見てくれる親切な人たちにも出会えた。

いずれ大人になったら、あと少し大きくなったら。と、首都の街で生きていくための礼儀作法や、街の歴史、言葉遣い、習慣など、主にお年寄りの人達が積極的に指南役を買って出てくれた。

そんなお年寄りから教わった一つが、爆撃テロにあった時の対処法だった。

まずは道に伏せること。爆破で壊れた建物の一部が飛んできたり、爆弾が実際に飛んできたりすることもある。そんな時に道に立っていたらそれこそ怪我どころか命さえ危ない。

まずは低い姿勢で身を守ること。そしてパトカーや救急車のサイレンが鳴って、安全を確かめることが出来たら、なるべくその場から素早く立ち去ること。次の爆撃もあるかもしれないからだ。

あるとき、「こうした対処法を知っているのは、この街に爆弾テロが多いからですか」と尋ねてみた。帰って来た答えは「戦争があったからよ」だった。

第二次世界大戦中、この街は爆撃の対象となった。当時十代だったそのお年寄りたちは、街が爆破されたときにはまだ疎開をしていなかったそうだ。爆撃機が飛んできて街を破壊し始めたあたりで、やっと郊外や田舎に疎開で来たとも言っていた。

親元から離れて、田舎で不自由な生活をするのは大変だったとも仰っていた。年齢は低いものの、筆者の叔父達がたまに言っていたことと重なる。

日本でもこの国でも、第二次大戦は当時の子供たちに壮絶な影響を与えた様だった。

「あなたがここで生きて行くなら、テロが起きている街だと自覚しなきゃだめだよ。宗教戦争で、もう何百年と続いている根深い戦いだから、そう簡単には収まらない。だから、街を歩いているときは常に気をつけて自分の身を守ること」

そういうお年寄りたちから、この街で生きて行く覚悟を試されているような気がした。どんなにきつい環境でも生きていけるのかと。

当時、爆弾テロは頻発しており、新聞やテレビニュースなどでも何度も報道されることがあったが、街の人々は「これが現実だから」と淡々と受け止めていた。

その後の人生でテロの相手国から来た人とも知り合い、宗教戦争の歴史も学ぶことが出来たが、14歳で移り住んだ国に筆者が戻ることは無かった。

あれからEUの加盟国間で人の移動の自由が保障され、あの街での爆弾テロは終結を見た。

しかし、その後イギリスは47年間加盟していたEUを飛び出し、独自の政策で国を舵取りしていく流れになっている。

それがきっかけに、かつて緊張状態にあった国境には、再度不穏な空気が流れ始めている。

話し合いで決着が付くのかどうかは分からないが、あの街が三十年以上前の緊張状態に戻らない事を、世界の反対側にある日本から祈るばかりだ。



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