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「湧き水の女」・・・怪談。苦難の旅先で見た幻。



それは、まだ俺の心の若さが、恐怖に蓋をしてくれていた頃の話だ。

俺は、学生時代を通しての純愛を失い、ニヒルを気取って羽州から奥州の放浪を企てた。

不調の極みだった学業のストレスが、それまでの不摂生が溜まっていたのか、それとも、季節外れの暑さが生み出す陽炎に惑わされたのであろうか、
六郷の本陣からの道を見失い、名も無い荒れ野に入ってしまった。

日差しを避けようとしても日陰さえも無い枯れた野原では如何ともしがたい。天頂から照らす熱波の洗礼を甘んじて受けるしか術がなかった。

その身が倦怠の汗に包まれ、歩は遅々として進まなくなっていた頃、
乾ききった脇道の先にゆらゆらと動く光のきらめきを見つけた。

「湧き水だ」

暑さのために憔悴しきっていた私は、荷物を投げ出して一気にその泉に頭を突っ込んだ。
深い水底の玉砂利まで見えるような透明な水は不思議なほど冷たかった。

清涼感が喉を潤したところで、泉から一度顔を上げた。
その時、水面に白い着物の女が映っているのに気付いた。

だが、水の冷たさ以外気に留める余裕が無かった俺は、再び顔を浸けて湧き水を飲んだ。

「羨ましいくらい汗をかいていますね」

女が話しかける声が聞こえた。

俺は水面から顔を離し、水が垂れ落ちる瞼を少しだけ開けた。

白い着物を着た女が水面に映っていた。
女は小さく笑っていた。

「汗をかくのが羨ましいだと。いずこかの苦労知らずの金満令嬢が
泉の水を銘酒のように飲み続ける姿をからかっているのか」

それまでの苦労もあって、無性に腹が立った。
俺は泉から顔を上げ、わずかに潤った喉の限りを尽くして声を上げた。

「誰だって生きていれば、喉くらい渇くし、汗くらいかくだろう!」

しかし、目の前に女の姿は無かった。

男の声はむなしく晴天の空に消えていった。

「もういない・・・逃げ足の速い女子(おなご)だ」

そう思うと、癒しきれていない喉の渇きが蘇った。

もはや気にすまい。

男が再び水を飲もうとした時、ふと気が付いた。

顔からの水滴がしたたり落ちる水面には波紋が広がり、
空の青さも俺の顔も、細かく波打って形にはならない。

女が目の前に立っていたとしても、波立つ水面にその姿がはっきりと映るはずが無いのだ。

俺は疲れ果てていた足に力を入れ、立ち上がって周りを見渡した。

泉から二三歩のところに、小さく土が盛り上がっており、傾き朽ち果てた小さな墓石が少しだけ顔を覗かせていた。

絡みつくように熱い風が俺の横を通り過ぎた。
風の中に女の声が聞こえたような気がした。

「暑さを感じることも、汗をかくことも、もはや私には・・・」

俺は泉の水を両手で掬い取り、傾いた墓石に掛けてやった。
石の表面にすうっと水が滲み込んでいった。

「たとえどんなに暑くとも、その辛さを感じ取れるうちは、生きているという証だ」

俺は再び荷物を背負い、日差しの中を歩き始めた。
最早ニヒルを気取った弱弱しさは無かった。
真っ直ぐに前を見つめ、生き抜く覚悟を決めた歩みであった。

おわり


昔、旅先で耳にした話を一部脚色。この話を聞いてどんな時も希望を信じる気になった。
長く続く苦痛を体験し続けると、人間はほんの小さな出来事にも怒りを露わにする。最近流行りの「不謹慎狩り」などもその一つだ。
怒りと怯えの渦巻く世界の中で、前を向く者だけが新しい希望を作ることが出来る。荒野に光る泉こそ、人々が求めるものなのだ。


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