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加藤諦三さんの本との出会い(幼児的一体感について)

私は子供の頃から本が好きでよく本屋に行っていた。
天井の方までぎっしりと本が詰め込まれた本棚に囲まれる空間は、とても落ち着き、私はいるだけで癒された。
そして私はなにか迷っているときや悩んでいる時もよく本屋を利用した。

本屋さんというのはこの世界の知識の縮図といっても過言ではないと思う。さまざまな知識学問、ジャンルを超えて全てのものが本という形に姿を変えて集結している。
なので、意味もなく本屋さんをうろうろしていると「本に呼ばれる」ことがある。不思議な表現かもしれないけれど、「本が呼ぶ」としか言えない。
ふと目に入ってっくる。意味もなく手に取る。そして本棚に元に戻せなくなる、そんな感じだ。そういう経験を何度かしたことがある。

加藤諦三さんの本もそんな感じで『本に呼ばれて』手に取った。
19歳くらいの時だったと思う。
それまで、精神世界、心理学関係の本の売り場にはほとんど行ったことがなかった。けれど、その時偶然その売り場の前を通り、ふと目に入った『自信』という本から目が離せなくなった。私は恐る恐るその本を手に取った。
当時、精神世界や心理学そういったジャンルの本を手に取ることはとても怖いという気持ちがあった。自分とは無関係の世界だと思っていた。
でもその本は私を離さなかった。

手に取った理由として、自分自身にまったく自信がもてなかったというのがあると思う。当時の私の自己肯定感はとても低いものだった。だからなぜそうなっているのか、知りたいという心理はあったと思う。
とはいえ、私はその本の内容をじっくり読んで購入を決めたわけではない。
後ろに書いているあらずじをさらっと読んだだけだったと思う。
でもその本を買わずにいられなかったのだ。

そして家に帰って読み進めていき衝撃を受けた。
その本に書かれていたのは、自信のない人は、親に取り込まれ飲み込まれてしまった人だ、というような内容であったと思う。
親が子供に対して『幼児的な一体感』をもとめ、自分と『同じ』であることを暗に求めた結果、その子供は自分という個人を育ててもらうことができず、故に大人になっても自信を持つことができない。そう言った内容が書かれていた。

要するに原因は親であると書かれていたのだ。
この原因が親であるということは、心療内科を受診した時点で医者から言われてはいた。

それでも、私はこの加藤諦三さんの本を読むまで自分の親は優秀な親だと思っていた。(今は大人として振り返ってボロクソに書いているけれど、当時の私の主観では私の親はいい親だと思っていた)
子供の頃から周りの大人たちは、私の親を優秀だとベタ褒めしていたし、社会的に客観的に見て、うちの親に落ち度は見えない。

けれど、加藤諦三さんが本の中で語っている問題のある親がそのまま自分の親の行動と一致していた。
自分のなかで『これだ』とガンガンなにかがなっていた。
私はその後、何冊か加藤諦三さんの本を古本屋で買っって読んだ。
どの本にもベースには親の幼児的一体感の話が出ていて。読めば読むほど、これは私の親のことだという気持ちが強くなっていった。

幼児的一体感というのは何かというと、母子の共依存状態のようなものを指す。自分自身が不安定であるが故に、子供に自分とまったく同じものを求め
、その自分と全く同じ存在としての子供と一緒にいることで安心する心理である。本来子供が親に幼児期に求める要求を、親が子供に求めてしまっている状態だ。

言い換えれば心理的境界線のない状況であり、自分と自分の子供は違う人間であり、同じものを見て同じ世界を体感していても、感じているものが違うということを認識できていない状態のことを言う。そのベースがないために、自分の価値観と切り離して、親としてその子供なりの個性を育てていけない、その子のありのままの個性を認識しない。

わかりやすく言うと、中のよい気の合う友達と一緒にやるならできるけど、自分一人だけでやるのは不安という心理状態をなんとかするため、子供を気の合う中の良い友達として育てて、人生をやっている感じだ。気の合う中の良い友達としてふさわしくない部分は認知しなかったり、切り捨ていく。親から子への愛情は条件付きの愛情となる。母子間の共依存、母子カプセルなどはこれで起きてくるのだと思う。


私の母親は心理的境界線がかなり薄い。昔は本当に薄かった。発達障害の人は薄い場合が多いらいいからそのせいもあるのだろう。そして自分と他人と同じ場所にいても認知しているものが違うと言うことに気がついたのが50代だと言っていた。(これに関しては私も自身もそのことに気がついたのは25歳くらいである)
子供の頃私はずっと母親に、自分が母親と同じ感性で同じことができると思われていたところがある。

加藤諦三さんの本は読めば読むほど、しっくりきた。
そして、それと同時に私は母と距離を取らなければいけないと思った。

自分が本当にやりたいことはなんなのだろう、本当の自分とはなんなのだろうかという自己探究がここから始まった。

加藤諦三さんの本の中で、とても心に残っている言葉がある
「後ろ向け、後ろ」
「怖いと思う方へ行く」
だ。

「後ろ向け、後ろ」は親に飲み込まれてしまった人は、親に同化していく方向を『正』だと思っている。けれど、その道に進めば進むほど、鬱などは悪化していく。
だから、「後ろ向け、後ろ」、自分が正しいと思っている方と逆の方に行けと言うのだ。これは結構正しくて、こっちは間違っている、こんなことをやっては行けないと思うことをした方が、案外鬱状態は改善して行った。

そして「怖いと思う方へ行く」というのは、分離不安のことだ。子供は親など依存している存在から分離する際、分離不安というものを覚える。
それは、依存していなければ生きていけない子供が自分の身を守るために、親から離れることに恐怖心を抱くようにしている心の防衛本能だ。
親から見捨てられないように、見捨てられて生きていけなくなるのを防ぐ機能だ。
けれど、自立した一人の大人として育つには、親から分離をしていかなければならない。
依存して同化してしまっている人というのは、分離していく行為に恐怖感を抱く。その親と同化しない自分が存在していることは親に愛されないことに繋がり=死ぬ可能性があるという死の恐怖と結びついているためその行為に恐怖を感じる。
なので、自分に戻っていく方向、自立する方向は恐怖を感じる方向とほぼ一緒だ。

恐怖を感じる対象としては別の理由もあるので100%とは言い難いが、経験上、親が受け入れなかった、自分の好きなものなどを受け入れていく行為をする際は、壮絶な恐怖心との戦いになる。
人は普通、多くのものを見てもなにも感じないようにできている。
意味もなく怖いと思うものというのはそこに何かしらがあると私は思っている。
なので、怖いものに向かっていくという行為も自分を育てるためには効果的であると思う。

ただ、上記のようなことを実際に始めるのはまだだいぶ先である。
この時はまだその概念との出会いであった。
そして親を疑うという、自分自身の目線で見てみるということを始めた瞬間であった。

この加藤諦三さんの本との出会いも人生を大きく動かした出来事である


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