見出し画像

強迫症、そのメカニズムと展開 闘病記【4】

強迫症とは

前回までは私が強迫症になるまでの経緯を振り返ってみました。そして強迫症が誰にでも起こりうる病ではないかということも述べました。ところでそもそも強迫症とはどんな病気だと考えられているのでしょうか。ここで簡単に強迫症がどんな病気だと定義されているのか少しだけ触れておきます。いろんな本の説明を自分なりにまとめました。

強迫症は、強迫観念、強迫行為が認められることを特徴とします。強迫観念とは、不安を呼び起こす好ましくない考え、イメージが頭の中に繰り返し浮かんでくることをいいます。強迫行為(儀式)とは、強迫観念により生じる不安を静めたり、抑止したりするために繰り返し行わなければならないと患者が感じる、特定の行動や精神的な行為です。

詳しくはネットで「強迫症」で検索するとたくさん説明が出てきますのでそちらをご覧になってください。さて前回書いた通り、私にとっての強迫観念は「いじめられるのではないか?」という不安でした。そしてお祈りする時に水晶に決まった回数触れることが強迫行為だと述べました。しかし、それは強迫症の初発の段階での話です。私の強迫症はここから大きく展開していきます。強迫観念はほとんど変わらないのですが、強迫行為はすごい勢いで増殖していきます。

強迫症の種類


それでは強迫症の内部における細かなカテゴリーに従って症状を分類していきます(強迫症には様々なタイプがあります。有名なものとしては不潔恐怖や確認恐怖があります。詳しくは「強迫症」で検索してみてください)。まずは縁起強迫です。前回詳しく説明した、水晶を2回触るというのは縁起担ぎであり縁起強迫と呼ばれるものです。縁起強迫は無尽蔵に膨れ上がっていきます。なぜなら縁起担ぎはいくらでも作り出せるからです。
普通の人でも靴下は左からはくとか、お風呂には左足から入るというような自分なりのルールを決めている人がいると思います。または「鍵は必ず2回確かめる」、「枕は2回たたいてから置く」などを習慣にしている人もいるかと思います。程度の差はあれ、ありとあらゆる行為が縁起担ぎの対象になっていきます。そして私の場合、縁起担ぎの対象は触るもの全てに拡大していったのです。例えば「歯ブラシを置くときに2回触る」「机にあるペンを2回触る」などと、触った時に「いじめられるのではないか?」という強迫観念が起こると、触れるものの回数を数え、規定の回数(初めは2回)触るのです。最初は特定の物(水晶やコンセントなど)だったのですが、強迫観念が頻繁に起こるようになると、それに伴って強迫行為は増加していきます。ちょっと想像しにくいかもしれませんが、とにかく触れるものの回数を2回数えるようになっていったのです。

これは非常につらいことです。それは対象が際限なく拡大していくからです。ですから結局何に対しても2回触らないと不安を感じるのです。
何でも2回触るのなら決まり切ったことだから単純なものだと思うかもしれません。
しかしそこで現れるのが数字強迫とぴったり強迫です(数字強迫とぴったり強迫は一般名ではありません。強迫症のカテゴリーとして私が便宜上つけた名前です。)さて数字強迫とは「4は死につながるから縁起が悪い」とか「8は末広がりだから縁起がいい」というように数字に異常にこだわることです。わたしは何故か3という数字がだめでした。これは根拠がありません。ただそう思ったのです。また9は苦につながるのでだめです。他の数字にも思うところがあって簡単ではないのですが、便宜上説明はこれで終わりにします。

さて前回から2回強迫行為をすると言っておりますが、それはあくまでも始まった時のことです。だんだんと2回触っても不安は解消されず、落ち着かなくなることが出て来たのです。そこで出てきたのがぴったり強迫です。ぴったり強迫は決められた縁起のいい回数を触ってもなんとなく落ち着かず、不安が出てきてしまい、それに対してぴったりするまで強迫行為をしてしまうということとします。
「ぴったりこない」というのは感覚ですので論理的に説明するのは難しいのですが、どうも腑に落ちない感じ、言ってみれば残尿感のようなものです。例えば、普段お札の向きをばらばらに入れると気持ち悪くなり、揃えるということがあるのではないでしょうか?その気持ち悪い感じをなんとかしようと自分の気が済むように強迫行為を行うことをぴったり強迫と呼ぼうと思うのです。またなんとなく本棚の並び方や調味料の並び方などに違和感を覚え整えるということは日常生活の中であると思います。直しても特に意味はないのですがなんとなくぴったりこない感覚です。

したがって、ぴったり強迫は誰にでもどこでも起こり得るのです。そしてぴったり強迫がひどくて生活に支障をきたせば強迫症と呼ばれると思います。ぴったり強迫はサッカーのベッカム選手がなった症状のため知っている方もおられるかもしれません。

増幅する強迫症


ここまで縁起強迫、数字強迫、ぴったり強迫と説明してきました。しかし私の強迫症はこれで終わりではないのです。以上説明した強迫は重なるのです。三つの強迫が複合するととんでもないことになります。例えば鍵をかけたとします。その時に強迫観念(不安)が出てきます。それに対処しようと縁起強迫が出て2回回します。ここでぴったりこないとします。すると次は縁起のいい数字までやらなければならないのです(ぴったり強迫)。3はだめ。4はだめ。5では落ち着かない。そうなったら縁起のいい数字である8回鍵をかけるのです(数字強迫)。この一連の作業があらゆる物を対象として起こるのです。数字恐怖はそれだけではありません。3という数字を縁起が悪いと思うと、階段の3段目は左足で踏むことに決めます。左足は右足より劣った足なので、けがれた3を踏むのに適していると考えるのです。

さてこんな状態でどうやって生活したらいいのでしょうか?朝起きてトイレのノブを回す時に2回。ぴったりこなければ8回。水道の蛇口を回すのに2回ぴったりこなければ16回。これがエンドレスで続くのです。エンドレスと言いましたが一応エンドはあります。それは人前ではやれないのです。自分の行為がおかしいことは分かっているので人に見られたくないのです。だから風呂は父親と入りました。一人だと出て来られなくなると考えたからです。人の前では必死に隠しました。おかしくなったということがばれたくないのでした。

しかし強迫症はそんな甘くはありません。人前でも強迫行為をしないと不安でいられなくなるのです。そして徐々に家族の前でもやってしまうようになりました。そうなってしまい隠せなくなったので病院を受診するようになるのですがそれは次回書きたいと思います。

それだけではありません。強迫行為は触るということに関してのみ起こるのではないのです。見るという行為にまで浸食してくるのです。例えば気になる物、例えば天井のシミを見たときに強迫観念が沸いてくるのです。「2回見ないといじめられる」という「声」が聞こえるのです(縁起強迫)。そしてこれにも数字強迫、ぴったり強迫がついて回ります。8回でだめなら次は16回です。対象は無差別です。それに従ってあらゆる物に対して強迫観念が起こってくるのです。そして対象が固定されると強迫観念がわかなくても惰性で強迫行為をせずにはいられなくなるのです。
ありとあらゆる物に対して強迫行為をしなければならなくなってくるのです。

見る強迫の中で今でも残っている症状が本に対する強迫行為です。丸の数を数えてしまうのです。8個丸を数えないと次のページにいけないのです。また5文字の単語を見つけると何回も読み返してしまいます。これは現在でも少し残っているので本を読むのには人一倍労力を使います。読書が大好きなのですが強迫が出るという難点があるので今ひとつ楽しめないです。

強迫行為の上塗り

もう強迫症の説明にうんざりしているかもしれませんが、最後に縁起強迫とぴったり強迫、数字強迫の最終形を示したいと思います。それは強迫行為を強迫行為で止めるというものです。例えば鉛筆を机に置くとします。そこで「2回置かないといじめられる」という強迫観念が起きます。それに対して実際に2回起きます(縁起強迫)。しかしぴったりこないためにまた強迫観念がわきます。次は「8回置かないといじめられる」となります(数字強迫)。ところが8回でもぴったりこないのです。そうなったら無限に強迫観念が起きます(ぴったり強迫)。これではずっと強迫行為が終われない。永遠に強迫行為をし続けなければなりません。

その時に裏技をかけるのです。それは「16回で終わらなければ明日死にます」という強迫観念を意図的に起こすのです。いじめられると死ぬのとでは死ぬことの方が重大です。死んだらどうにもならないから16回で強迫行為をやめておこうとなるのです。この一連の作業を強迫行為の上塗りと呼びたいと思います。

もうこの時点で何がなにやら分からないと思います。しかし、冷静に考えてみると強迫症に伴う一連の行動は論理的に破綻しているわけではないのです。完全に頭がおかしくなってしまったわけではないのです。ぴったり強迫は主観的なもので説明が難しいのですが、そのほかは至って正気なのです。

バラエティーに富む強迫症の症状

ここまで私の強迫症の症状を詳しく述べてきましたが、いかがだったでしょうか?頭がおかしな奴だと笑ってください。しかし、縁起強迫に関しては誰でも起こりうることを前回確認しました。縁起強迫が増幅すると恐ろしい自体が生じるのです。ここに記したのは私が経験した強迫症の症状の一部にしか過ぎません。
縁起強迫には触る、見るだけではありません。嗅ぐ、聞くということにも波及していきます。もちろんそれらには数字強迫とぴったり強迫がもれなく付随しています。今回は説明しませんが私が経験したものでは加害恐怖や確認恐怖、順序強迫などもあります。強迫症になってしまうと本当に大変です。さてこんな状態でどうやって生きればいいのでしょうか?どうやって生きていたかは次回以降に述べたいと思います。

強迫症の本質

しかし、驚くべきことにこれらの症状とともにここまで生きてきたのです。(今はかなり少なくなりましたが)そしてこれは大事なところなのですが、身に危険が及ぶ場合には強迫症が出ないのです。車にひかれる、ボールがぶつかるなど直接的な身に危険が迫った場合、すなわち緊急事態では強迫症は出ないのです。これはおもしろいことだと思います。生命の危険を感じると強迫症は出ないのです。つまり強迫行為をしているときは命の危険などは感じていない平常心だと言うことです。強迫症は「暇」が生み出した病気であるなどと言われることがありますが、その点に関しては概ね間違っていないと思います。

以上で私の強迫症の説明を終わりたいと思います。うんざりしたかもしれません。しかし強迫症の人は程度の差はあれこういったことに苦心していると思われます。この説明で一人でも多くの人に強迫症の実態をしっていただければと思います。強迫症のひとは自分の症状と比較することにより、客観的に自分の症状と向き合っていただければと思います。前回も述べましたが、強迫症は誰でもがなりうると思っています。ですからこれらの症状が起こってくるメカニズムについては論理整合性が認められるのではないかと思っています。今一度の指摘になりますが、私が述べていることは誰にでも起こりうることであり特定の疾患の方に向けて書いているのではないのです。人類の問題だと考えています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?