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ポルノの消費

※この記事には性暴力の表現が含まれています

私は高校を卒業するまで、恋愛とは縁のない人生だった。
中学生のときにクラスの男子と学級委員の課題を終わらせるため、週末に駅前の図書館へ行くことになったのだが、それを聞いた母はとち狂った。すでに学校で約束して家に帰ってきた私は、携帯もない時代にどう断ればいいか分からなかった。一方で母は私にはネチネチ言うくせに、世間体を気にして相手の家に電話をすることはなく、「本当は違うところへ行くんじゃないか」「男と出かけるなんて何を考えている」「恋愛のために受験させたわけじゃない」と私の自意識を辱めるようなことを言い続けた。それを聞いた私は相手にデートと意識されないように、当日は白いシャツに迷彩柄のハーフパンツで男の子のような格好をして待ち合わせ場所に向かった。それを見た男子は私を無視して電車に乗り込んだ。母が怒らないように、期待させずに済んだと安堵した気持ちが大半だったが、相手に恥をかかせてしまった後悔と、無視されて傷ついた気持ちもあった。

それから恋愛はおろか、母の前で男子の名前を口にすることはなくなった。中学生のときは、異性にまつわる話題は友達と、好きになる対象は二次元に限定されていた。私のポルノの消費は相変わらず続いていて、親がいないときはパソコンでアダルトコンテンツを漁る毎日だった。私はなぜか、特にレイプものに興奮を覚えた。父と娘の禁断の関係的なタイトルのものばかり検索していたときもある。求められることに対する憧れもあったし、暴力は愛情の裏返しだと思いたかったのかもしれない。暴力的なコンテンツを消費するたびに自己嫌悪に襲われ、もう絶対にあんな画像、映像はみないと自分に誓っても、繰り返してしまった。

ある日、父に殴られて首を怪我した際に近所の整体院を受診した。骨に異常はなく、首と肩全体がひどい鞭打ち状態だった。今でも鮮明に覚えているくらいの痛みで、座っていても、横になってもしんどかった。受付とアシスタントのために若い女性もいたが、施術をする整体師は男のオーナーだけだった。ベッドにうつ伏せになって、最初は首あたりをマッサージされたが、肩の筋肉もほぐす必要があるので制服のワイシャツのボタンを外すように言われた。うつ伏せになったままシャツのボタンに手をかけたとき、整体師はその様子を覗き込んだ。当然、気持ち悪いと感じたが、整体院は初めてだったし、早く痛みを取って欲しかったので黙っていた。マッサージは続いたが、私は整体師が肩とは全く関係ない背中を触っていることに気づいた。中学生なのでもうブラジャーもつけている。なぜ背中を触るんだろうと思いながらも、私は何もいうことができず、ただただ気持ち悪かった。痛いけど早く終わってほしいと思っていると、背中の横の胸を触られた。直感的に、今のは偶発的なものではない、と思った。私が何か言う間もなく、触られてからすぐに、起き上がって違う台に移るように言われた。一回の施術で鞭打ちが治るはずもなく、週に一度通院するように言われて、その日は湿布をもらって帰った。

自分の部屋に戻って、私は整体院での出来事を思い返した。あれはきっと、わざとだった。怒りが湧いてきた。けれどもう触られてしまったし、色々と考えたところでどうなる、とも思った。悔しい気持ちや怒り、色んな感情が入り混じって、時間が経つにつれ、だんだんと「やっぱり、たまたまだったのかも」と自分を疑い始めた。私は昔から思い込みが激しい母が苦手で、自分は絶対に勘違いをしないようにしようと思っていた。インターネットでは2ちゃんねるが全盛期で、痴漢などの性犯罪を警戒する女は自意識過剰と言われ、かといって性被害に遭うと自衛が足りないと平気で責められる時代だった。私は忘れてしまおうと決めた。近所には他に整体院がないし、鞭打ちもまだ全然治っていない。あそこに通うしかないんだから、自分の気のせいだったと言い聞かせた。私が検索するアダルトコンテンツはさらに過激なものになっていった。

私は小学校3年生まで、男女同じ教室で着替えをしていた。具体的なきっかけは覚えていないが、好きな男子の話を女子同士でし始めるころだったと思う。ある日、好きなひとにほぼ裸の姿を見られるかもしれないのに、平気で男女一緒に着替えている状況を、現実と思えなくなった。友達と一緒に担任に着替えを別にしてほしいと訴えても無視をされ、なんとか下着、特にパンツを見られないように早着替えを特訓する毎日だった。小学校の頃から学校検診は大嫌いだった。低学年のころはもちろん上半身裸で保健室の廊下から並び、高学年になっても下着姿で並んだ。私は名簿順が遅いほうだったので、女子の列が終わりかけると男子が並び始める。下着姿を見られることが本当に嫌だった。保健室の先生は女性でも、記録係はクラス担任で、私の場合は男性だった。健康診断のたびに、出席番号が遅い女子同士で恥ずかしい、嫌だと言い合ったことを覚えている。

私は小学生のときから学校検診に疑問を抱いていた。毎年受けていても引っかかる生徒はいなかったし、ひとり数秒の診察に何の意味があるのか?私自身もたまたま具合が悪い時に検診をうけて、呼吸音に問題なしと言われたが、その後実は肺炎だったことが発覚した。中学生になると、健康診断に対する嫌悪感はさらに増した。さすがに裸同然で廊下に並ぶことはなくなったが、シャツの下は下着を外した状態で列に並び、内科検診をうけることを強制された。私は早い時期から男が女体に興奮することを知っていたし、実際に性被害に遭った経験から、医者は患者相手に興奮しないという説はありえないと思っていた。それに加えて、なんとなく「この医者は気持ち悪いな」と思うと、後日、何人かの生徒が検診中にその医者からセクハラをされた話を友達から聞くことがあった。たまたまではなく、毎年だ。

当時、私が絶大的な信頼を寄せていた知恵袋や2ちゃんねるによると、「医者が患者に性的に興奮するなどあり得ない」「そんなふうに考えるなら病院に行くな」といった意見が圧倒的で、その一方で女体が消費されている現実に私は混乱した。女の立場でポルノを消費している側としておかしいかもしれないが、幼い頃はいつか自分がそういう対象になるとは思っていなかった。女体はあくまで女体であって、そこに人格が存在すると考えたこともなかった。実際に消費されるまでは、自分の性別がもつ危うさに気づきもしなかった。

今の時代、女性に人格がないなんて声高らかに言うひとは少ない。だが、時代が進んでも、女という被写体は常にジャッジされ、消費される対象だ。10代の少女が水着で週刊誌の表紙を飾り、制服は幼さを象徴するツールになっている。数年前に嘆願書で話題になった、某国民的アニメのお風呂シーンはその代表格で、覗きという性犯罪行為を女の子が恥ずかしがるだけでおわる。昔のアニメでありがちなスカートめくりの描写も、犯罪行為として描かれることはもちろんなく、女子がプンプン怒るだけだ。消費する側の願望が反映されたコンテンツがありふれている世の中で、実際に少女たちが性的被害に遭ったとき、彼女たちは何ができるだろう?わざわざ怪しい街や人と関わらなくても、彼女たちはすでに危うい環境にいて、あとはきっかけさえあれば誰だって消費対象になる。家庭環境などのバックグラウンドによっては、その確率は大きくあがるだろう。その上、フェアな立場を気取っている層は「スカートが短いから」「夜中に出かけたから」「ふたりきりになったから」「警戒心が足りないから」など、被害者の落ち度を必死で探す。私は学校やそうでない場所で性被害に遭っても、黙ることしかできなかった。頼れる大人がいなかったことはもちろん、性的なことは表に出すべきではないという羞恥心があったし、自分が性的に消費された事実を信じたくなかった。特に容姿が良いわけでもない自分があんな目に遭うなんて誰が信じるだろうか、とも考えた。なにより、自分は普通に生活していたはずなのに、いつのまにか性的な対象となっていたなんて、プライドが許さなかった。

女が性被害にあっても主張すらしないコンテンツを放置する世の中で、私は自分が不快な思いをしたらどうするか、すら知らなかった。助けを求めることは、色んな思いが脳内を駆け巡り、選択肢に残らなかった。女性たちが助けを求めることができない背景には、文化的な圧力が必ず関係している。性犯罪に甘い法制度もそうだし、なにより被害者を苦しめる同調圧力とそれによる孤立は特に日本では顕著だと思う。

英作家マーガレット・ドラブルの代表作『碾臼』は孤独なシングルマザーが地域コミュニティに助けを求められるようになるまでの過程を描いている。同書は「自立」と「孤立」は似て非なるもので、助け合ってこその人生と教えてくれる作品で、私がフェミニズムを考える上でバイブル的存在だ。現代では時折「他人の力を借りずに自立してこそフェミニスト」と誤解をしているひとも見受けられる。社会の偏見は残酷で、ひとりでは到底太刀打ちできない。私はトラウマを誰とも共有しようとせず、ひとりで乗り越えようともがいていたが、それは完全な「孤立」だった。振り返ると私がトラウマからある程度解放されたのは、セラピストや理解のある友人たちの存在、環境の変化が大きく、そのおかげで私は今トラウマと共存することができている。私がフェミニストであることに条件をつけるべきではない、と考える大きな理由に女性たちの連帯、シスターフッドに理由はいらないからだ。同じ経験や考えを持つもの同士で集まり、共有することに資格は何もいらないし、フェミニズムを条件付きにすることで敬遠するひとがいるなら、それはフェミニズムが目指す女性の解放とは真逆になってしまう。

私のポルノ消費はまだ続いていて、歌手のビリー・アイリッシュが言うようにポルノには依存性があり、特に私のように幼い頃から触れているとそう簡単に抜け出せるものではない。治療によって日常生活に支障はなくなったが、この依存に明確な終わりはないのだろうと思っている。私がフェミニストと自らを名乗るまでに時間がかかったのは、ポルノを消費しながら女性の権利を守るということはあきらかに矛盾だからだ。しかし、自分の記憶を辿ってみると、そこには明白な原因があった。そう気付いてから、いま性産業にいる女性たちのことを考えると、私はどうしても他人事ではいられない。公平さに執着するひとたちはきっと他人の矛盾点を探して嘲笑うだろうが、私は人生はそんなに単純なものではないと考える。トラウマや依存に終わりはないが、シスターフッドにも限界はないと信じている。


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