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【掌編】『ある日の神保町で』 “改訂版”

始まりは大学二年の春だった。講義の合間にホールで悪友に捕まったのがきっかけだ。

「美佐子の相手しててくれないか
 これから授業があるの忘れてた
 頼むよ」

シスコンの清原から彼の妹の”接待”を頼まれたのだった。

美佐ちゃんは、大学同期の清原の妹で春から都内の短大に通っている。
何度か会ったことがあった。ちょっと生意気で苦手かもと思っていた。
まあ、この際しょうがない。

神保町の駅で美佐ちゃんと落ち合い、裏通りの喫茶店に行く。
この辺は、街の裏手にあって後楽園遊園地や野球場から流れてくる観光客はほとんどいない。

『茶房 李白』は、いつも通りのひっそりとした空間だった。
ここならば、この小生意気な娘のおしゃべりも少しはおとなしくなるだろう。ちょっとした作戦だ。

ときどき、何か言いたげにこっちを見るけど僕は知らんぷりして雑誌をめくる。

「お兄ちゃんから聞いてます。学内で知らない人はいない、皆の憧れの人だって」
「えっ、何のこと?」

「タカさんの、あの...…彼女さん」

コーヒー吹きそうなのを必死でこらえる。

実はその彼女にはフラれたばかりだ。もちろんこの娘は知るはずもなく、悪気はないのだろう。

「あのねっ!」

思わず声が大きくなる。

店内の客の視線が一斉に向けられ、マスターの咳払いが聞こえる。

「ふふっ...…」

うわっ、生意気な...…これだからいやなんだよ。

でも、こうなったら言って置かねばならない。
少し大げさに言ってやった。

「その通り! 綺麗で、賢くて、優しくて、何着てもカッコよくって...…」

「プッ...…!」
美沙ちゃんは、いきなりフキ出した。

マスターの咳払いがまた聞こえた。もうそこまでだ。
一斉に向けられた視線を感じながら僕らは店を出るしかなかった。

勘定を済ませる間、ずっと美佐ちゃんは肩を震わせ笑いをこらえてこっちを見ている。

そして店を出るなり堰を切ったように笑い出した。
涙を流し腹を抱えている。

「もう、いったい何だよ...…」

恥ずかしさのあまり美佐ちゃんの手を引っ張って裏通りを急ぎ歩くと、
表通りまで出た。

でも途中から、もう僕も笑ってた。
どうしてなのかわからなかった。

古本屋の軒先の書棚に掴まって二人して思いっきり笑った。

はたきを持った店主がちらっとこっちを睨んだけれど、
すっと奥に引っ込んだ。

少し笑ってた。



こちらからお題をいただきました。



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