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[21st Century Schizoid Man]の呟き【再掲】

これは、2014年の7月に書き綴った、当時の想いを封じ込めたものであるのと同時に、2013年に起こった「人生を変えた」出来事の記録であります。

書いた当時そのままの記事もあるのだけれど、その当時はなぜか、新しく書き上げたものを上に載せていく、というスタイルでノートを掲載していたので、読みづらいったらありゃしない。

なので、時系列を戻して、再掲。
かなり「病んでいる」時期の文章ですが、よろしければご笑覧(?)下さい。

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2014/07/11
「21st Century Schizoid Man」


今回の台風、関東に関しては完全に杞憂に終わり、一安心。
ただし、その前の大気の乱れがもたらした影響は多大。
ここでは何もかも書くことにしているから包み隠さず書く。
俺はメンタルを病んでいる。
(知人が読んでいる場合、知っている人も多いことと思うが)
病名としては「統合失調症」だ。
ついでに書くと、精神障害2級の障害者手帳も給付されている、立派な精神障害者だ。
障害2級というとピンとこない人もいるかもしれない。話題的にはちょっと古くなってしまったが、サムラゴーチ氏が聴覚の2級を給付されていた、その精神版…って余計わかりにくいか。

神奈川県の認定基準によれば…
「日常生活に著しい制限を受ける状態または日常生活に著しい制限を加えることを必要とする方(必ずしも他人の助けを借りる必要はないが、日常生活に困難がある方。ストレスがかかる状態では、対応が困難になるが、デイケアや作業所などに参加できる程度。)」とある。

俺にとっての「著しい制限を受ける状態」というのは、精神障害により、就労中に意識が飛び睡眠状態に陥ったり、極端にストレスに弱い(健常者なら流せる程度のことでさえ)状態だったりする。
今回の台風や季節の変わり目の様に大気が崩れると、精神的に大きな乱れが起きる。
こういう時に引きこもらざるを得ない状況に陥る。精神不安でベッドから出られなかったり、睡眠状態が長く続き(眠気が続く訳だけど、肉体疲労からくるものではなく、精神が完全に意識をふさぐように働く。自己防衛の、無意識での軽い昏睡状態…みたいな感じか)起床時間が1日に3~4時間と極端に短かったり…。

これだけをあげると、「ただの甘えではないのか?」と言われても仕方ないと思う。
この文章では、俺の場合はこれで止まっているから、まだいい、というだけのことで、ひどい時には幻聴・幻覚、意識の混乱に記憶の欠如、脳へのダイレクトな痛み、それにいわゆる発狂状態に陥るのを感じることもあった。
あと、病気の症状として判断されにくいけど、極端な浪費も、「購買衝動」という症状のひとつに挙げられていて、衝動買いなんかは形としてわかりやすいけど、長電話や極端な出費行動(例えば男性なら性風俗への、性欲以外での、行為のみへの対象としての出費。いわゆる女遊びってヤツ)とか…。
まあ、メンドクサイ病気なんですよ。

俺の場合、もう33歳になるのだけど、未だに「劇作家志望」を名乗るくらいに作品というか創造活動をしたいと思っている。まだ形になっていないのが難点だけど…それでも、諦めたくないし、諦めがつかない。
それは…。
病気による邪魔が多分に入っているからだ。

読書しようにも集中力を欠いて読めない。最近は昏睡状態に陥りかけることさえある。本を開いた途端に頭痛がするのもしょっちゅうだ。少し読書恐怖症になりかけている。
これのおかげで、俺は「文学的コンプレックス」が取れない。素養と居ての文学・演劇的知識の欠落が激しいからだ。読んでいない名著・名作がありすぎるし、それを読んでいないが故に現代作家の文章へも抵抗感が強い。
同様のことが、映像にも言える。DVDの時代になり、気軽に名画が手に入る時代になり、気楽に楽しめる時代だからこそ、映像的知識が問われる時代になってしまった。「見てません」じゃバカにされるだけだ。
何でそんなことを思うかと言えば、それらが俺のやりたいことの礎になるからである

それに。
それらを吸収できなかった、ここ15年、高校を卒業してから大学で発病して現在に至る15年間が空白に感じているからだ。
15年も何も出来ていない人間の恐怖感。
「なにもないわたし」がここにいる。

それでも、まだ重度の症状の方々に比べれば、症状は落ち着いているし、日常生活自体は問題がない。
ただ、就労と自分の(現時点で趣味になっている)作家活動が全く出来ない…。
それが大問題な訳で。
見た目が普通なだけに、より一層難しい問題になっている。

昨年9月から12月にかけて長期入院した。
当時所属していた事業所で発病していた睡眠障害と極度のノイローゼ、上司のパワハラ、医師からの重度の統合失調症の症状の発症という診断…。
3ヶ月で退院できたのは奇跡と思うくらいにひどい状態だったと、今にして思う。
病院自体も開放的というか、かなり開けた環境づくりをしている病院だったおかげで、行きとどいた心のケアをしてもらい、今、なんとかこうして生きている。

今年、派遣会社に所属し、4月5月と就労した。
おかげさまで、環境には恵まれ、障害者だからといって腫れ物に触るような扱いも受けず、健常者と同等の扱いをしてもらい、健常者として働いた。
しかし、病気にはそれは関係なかったらしく、5月の仕事が体に合わなかった様子で、病気の再発を感じた。
それ故に、それまで独り暮らしをさせてもらっていたのだけど、5月中旬に断念、6月に実家に帰省した。

そんなこんながあった上で、まだ他人には言いづらい状況が出来上がっている。
かなり精神状態に悪影響を与える状況なのだが、こればっかりは仕方ない。
自分で乗り越えるしかない。

精神障害者の面倒臭さをお分かりいただけただろうか?
今日はひとまず、そんなことを書いておしまいにしたいと思う。
次回以降、何を書くかは未定だけど、このテキストは基本的に精神障害について、精神障害者の俺が実感していることを書き連ねていく、そういうものだ。
だから、事実と違う思い違いも含まれるかもしれない。
そこだけはご容赦願いたい。
人間だから、そうそう上手くはいかないよ。

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2014/07/12
「NAI」

今は亡き名ロックバンド:THE YELLOW MONKEYの、俺の中の「不変の第2位」の名曲(第1位は変動するし、第3位は「This Is For You」と「BURN」が争うので)。
ロックンロール・アニマル:ルー・リードのヴェルヴェッド・アンダーグラウンドを意識したと思しき曲に乗せられた歌詞が最高な名曲。

その最初の歌い出し。
♪なにもないあなたと なにもないわたし
 燃えるほど愛し合って結ばれてるのに
 キリキリ胸が痛むのがなぜだろう?
 どこかに消えてしまいそう
 今にも

この歌詞の中で、恋人同士でありながら「わたし」は「幸せなのに怖いのは何故だろう」と嘆き、「目の前が真っ白に光ってあなたが 線だけになってしまう 夢見て泣い」てしまう。
そして歌は
♪な な な なにもないあなたと
 な な な なにもないわたし
 な な な なにもない世界で
 な な な な な な な な
 ない
…と、「ない」という言葉の嵐でかき消されて行く。

この歌詞に大学時代から今の今まで、虜であり、呪縛のように付きまとわれている。
「なにもないわたし」
病気が発病してからずっと付きまとってきている感覚。
大学には6年間在籍したにもかかわらず、何も得られていない。
山のような本・映像を収集したが、何も出来ない。
「劇作家志望」といいつつ、何もしないまま5年。
統合失調症による無気力感と絶望感。
キルケゴールじゃないが、絶望という病を背負ってしまった、そんな感覚も覚えた時期もある。
これにより、極度の引きこもり・ニートになってしまった時期もある。

今もそこから脱出したとは言い難い。
しかし、今はそんな自分と闘えるだけの想いを抱いている。

「なにもないわたし」との決別をする、そういう決意。

2013年8月、主治医から「極度の統合失調症に対して入院による治療が必要」と診断を受け、9月から12月までの3ヶ月間、埼玉県の某所にある大きな精神病院に入院した。

その病院は「解放感」と「閉塞感の少ない環境」がウリで、事実、日常生活に対する精神的な症状が少ないため、毎日、時間制限こそあるものの、閉鎖病棟からの外出許可を得ていた。
もちろん、病状の程度により行動範囲が限られていて、病棟も4段階に分かれていた。俺がいたのは「急性期病棟」というところで、3ヶ月での退院を前提にした治療がおこなわれる、比較的症状の軽い患者さん・発症からまだ短い患者さん・退院が間近に迫った長期患者さんなどがいる病棟。

その3ヶ月間、もちろん闘病のために入院していたのだから、辛いこと・嫌なこと・思い出したくないことも山とある。
その代わりに、記憶しておきたいこと、忘れられないことがある。

例えば、男性の看護師さんで、俺のことを熱心に観察・介護をしてくれた方がいた。
当時個室にこもるか外へ外出して独りでいるかしかしておらず、閉塞感が強い日々を送っていた俺に対して、独自にアンケートを作ってくれた。そのアンケートシートを基に4時間みっちりと話し、その日以降、順調に回復していった、あの恩義は生涯忘れ得ない経験だろう。

それと共に。
外出時間に病院の外庭に設置されていた隠れ家的ベンチがあり、そこへ座って数時間となく、iPodを聴いていた。
院内へ持ち込めるモノも、病状により制限がある人ない人と居たが、俺は音楽機器を持ちこめた。タッチだと持ちこめないんだけど、クラシックだったのでOKが出た。

そのベンチで見た、あの時の空と、同時に聴いていた音楽たち。
もちろん「NAI」も何回となく聴いた。
「なにもないわたしをずっと抱きしめて」いた、あの時間。
忘れられるはずがない。

他には、「思い出だけが性感帯」だった時もあれば「生まれ変わってみても栄光の男にゃなれない」ことを考えたり、「生きていてよかった そんな夜はどこだ」と探した日もあり、「It's All Over Now, Baby Blue」と教えられたり、「LOVEはじめました」り、「In My Life」を思い返したり…。
そんな音楽を抱きしめながら見たあの夕陽。
忘れられるわけがない。

もちろん、入院したいとか、あの頃へ戻りたいとか、病気が再発して欲しいなって微塵も思っていない。

でも。

「なにもないわたし」だったあの頃を思い返してしまう、最近だ。
それは、「なにもないわたし」と決別するため、そのためだ。

消えてくれ。
「なにもないわたし」よ。
早く、消えろ。

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2014/07/24(07/30完結)
「向こう側の世界」

少し間が空いてしまった。
気にせず、「21世紀の精神異常者」の日記を続ける。

今回は、前回少し書いた、去年の9~12月の入院生活の記憶をたどってみる。

(途中で文体が変わっていたりしますが、後に修正するかもしれないので、気にせず読んで下さい)

おととし、2012年の7月にある事業所に入所して、1日4時間週5日の労働を始めた。俺はタイトル通り、精神障害者なのだけれど、その事業所はいわゆる障害者の人全般を社員として募集していた。
それに作業内容も、単純作業で、なかなか適応するのは大変にも感じた。
まあ、最初のうちだけだけど。

でも、問題がすぐに起きた。俺が仕事中に寝てしまうのだ。
…こう書くとただのサボり魔だが、単純作業中に意識が飛び、俺は昏睡状態に近くなった。周りから見れば、居眠りなんだけれど。
1週間あった試用期間には全く起きなかった症状が、就業当日から起きてしまい、直接の上司である福祉士の方に注意と注視を受けるようになった。
1ヶ月経とうが2ヶ月経とうが、治る気配が感じられない。

確かに多数の精神剤を飲んでいたので、そのせいなのだろうと思ってはいたのだけれど、止めるわけにはいかない。死んでしまうよ、そんな自己判断であの量を服薬中止したら。

こう書くのは嫌だけれど…。
正直、この上司の方は、あまりいい上司ではなかった、と今思う。
もともと知的障害の専門家で、どうやらスパルタ的なやり方をしていたらしく、精神障害の人間への接し方・薬の理解・人としての理解が極端に悪かったように思う。
あんまり愚痴を書いても仕方ないのだけど…。
ノイローゼ状態だった日々が少し続いたことがあり、デジャヴュが見えた日があり、それを報告したら「そんなもの見てる場合じゃないでしょ!」と一喝された。
…一喝されましても…。

ま、そんな状況のまま、時間は過ぎ…。
状況は、減薬しても一向に改善せず、上司の(今にして思えば)パワハラは進み…。
プラスして明らかにノイローゼが進み、いろんな方に迷惑をかけてしまう事態になった。

8月、医師からの入院勧告。

主治医の先生に進めていただいた病院は、先進的かつ開放的な空気感のある、大変大きな敷地を持った病院で、郊外に位置する、福祉施設のある複合型の精神専門の病院だった。

入院当初から、一気に減薬して、副作用を体から完全に抜き、そこから薬を組み直していく、という療法が取られた。
まず、それがキツかった。
睡眠時の障害としてすぐに表れ、消灯から2~3時間程度で目が覚めるのだが、たっぷりとした睡眠感覚と浅い眠りによる疲労感、それに伴う悪夢の連続。その都度ナースステーションに行くのだけれど、疲労困憊したまま、1時・3時・5時・7時と起きてしまうのがつらくて仕方なかった。

また、最初は大部屋だったのだけど、隣人の患者さんが相性が悪かったのも大きい。
居ない人と話すタイプの患者さんで、まあ、そういう方は別に気にしなかったんだけど、なにしろ、他人とコミュニケーションが取れないうえに、独り言と唄を唄われるのがキツかった。決まって内容は「う」「ち」「ま」で始まる3文字に関する、まあ、猥歌ですわな。それに伴うきしむベッドの音…。
ノイローゼにならない方がおかしい。

1週間ほどで、差額を取られるものの個室へ移動。
それからは自分の治療に専念できる。

…はずだった。

この病院の入院システムを紹介しておこう。
まず、担当医の先生は日中外来・午後内覧で、毎日の見回りの他に、申告制で問診もしてくれる。
病棟には昼夜2勤制で看護師さん、男女混成で毎日5~6人ずつが少しずつ交代しながら監視管理をしてくれる。
そして、患者さんと先生とを結ぶ、ケアマネージャーさんがいる。要は事務員の方なんだけど、自分の担当にあたって下さったケアマネさんは、自分の意見を丁寧に聴いて下さった。
看護師さんの身回りと先生の問診、ケアマネージャーさんの外部との連携、この3つが重なって、治療~退院へと道を作ってくれる。
その他にも行動療法士さんとかいろんな人がいるのだけど。

それと、この病院の特徴をあげておこう。
それは「解放感」
ナースステーションひとつとっても、まず、普通イメージされるガラスの壁などの仕切りが一切なく、あるのはカウンターと別室、最低限の個室のみ。
それに、病状の程度によっては、ある程度の音楽機器の持ちこみや携帯電話の使用(ただし受信のみで、常時携帯は許可されておらず、時間内でのメールチェックのみ、が基本)が可能。
また、外出も、病状によっては出来る。
俺の場合は、ノイローゼと薬の副作用による意識が飛ぶのを治すのが目的だったので、精神的なケアさえ出来ていれば、時間内なら自由外出の許可が下りていた。外出時なら携帯電話の所持も許可されていた。
行こうと思えば駅前まで出られたり、自由に買い物をして個室へおやつを持ちこむことも許可された。
もちろんそうでない患者さんもいっぱいいるんだけどね。

で、だ。

入院して10日ほど経った日、ケアマネージャーさんから、毎日のように、上司から「いつ退院して仕事に帰って来るんですか?」という問い合わせが来ている旨を告げられる。
丸3週間目に、自分から上司へ、直接「連絡が遅くなりましたが、当初1ヶ月の予定でしたが長引きそうです」の連絡を入れた。
上司は「それは困る、労働省からの通告もあり、1ヶ月以上の入院は許可できないからはやく戻ってきなさい」ウンヌンカンヌン。
ノイローゼ進むわ、そんなもん!
ケアマネージャーさんと先生に訴えるも、先生はあまり真剣に受け止めてくれず(というか、今までそんな人がいなかったから対応しようがなかったんだろう、と今は思う)、ケアマネージャーさんは間に挟まれて大変そうだった。

ただ、一貫して云われたのは、「ニイモトさんが治るまで、というのがいちばん大事ですよ」ということ。

なので、ケアマネージャーさんをとおして、会社へは連絡を入れないよう通告してもらい、治療に専念する環境を整えた。
だが…。
今度は内面から、そいつはやってきた。

以前より続いていた、「夜への恐怖感」「睡眠時の恐怖症」が悪化していき、夜に完全にフラフラになってしまうのが、看護師さんの間でも話が通じるくらいに有名になってしまった。
日中はそこまででもなかったけれど、何も出来ず、気が向くと、外出許可をもらって、院内の公園にあるお気に入りのベンチに座り、暮れていく陽を見ながら、所持許可をもらっていたiPod classicで、音楽を聞いていた。

classicにしていたのには理由があって。
タッチだと、外部との連絡が取れてしまうからだ。
ナノやシャッフルでは容量が足りないので、classicにしている。
おまけに、大好きな「空飛ぶモンティ・パイソン」の映像も全45話入れられたので、自分の中のルーツの再発見には大いに役立った。

音楽と外の空気の身を楽しみにしていたのが10月のあたま。
会社の人とのもめごともそれくらいにはひと段落したのだけど…。

今度は狂気に脳が支配されていった。

きっかけは…。

10月3日。
食堂に当たる大きな広間で、大きめのノートに日記をつけるのを日課としていた俺は、その日の午前11時ごろも、日記をつけていた。
テーブルを挟んで向かいには、同時期に入院し始めていた、モデルをやっているという金髪の女性患者さんが座っていた。そこへ、目つきが変わっていたショートカットの若い女性患者さんが、いきなり木製の、10キロはある重いイスを、金髪の患者さんにブン投げた。
看護師さんがちょうどいなくなっていた時間だった。
誰ひとり何も出来ず、俺は急いでナースステーションに走った。
流れる血、加害者の女性は自室へ帰り、絶叫。
慌てる看護師さんたち、冷静を促していたけど12時の食事前ということもあり、ほとんどの患者さんがこの事実を知り、多かれ少なかれパニックが走っていたと思う。

それを切っ掛けに、俺は大人数の前で食事が出来なくなった。
今だに精神障害者・知的障害者の方が大勢いるところへ参加できないのも、この時のトラウマだ。

実際的に自室にこもることが増え、統合失調症の進行・睡眠障害・夜への不安・悪夢への恐怖…。

全てがないまぜになった、10月7日。
その朝。
割れるような、内部から、脳から、頭がい骨が割れるような痛み。
脳内が揺さぶられ、激痛が走り、何物とも言えない感情に侵された。
「あ、俺、発狂する」
そう思った。
急いでナースステーションへ走り、薬を2回飲むもダメ、食事どころではなく、とにかく部屋の中を七転八倒し、自分が狂気の世界、「向こう側の世界」へ行ってしまう、その恐怖と混乱に闘っていた。

その時に浮かんだことが3つある。
ひとつは「生きたい」という、根源的な願い。
ふたつめは「芝居を書きたい」という、具体的な夢。
みっつめは、何故か判らないが「初恋の人」。

俺にとって、今まで恋愛をさせていただいた女性は何人かいる。
忘れ得ぬ人ばかりだけれど…。
恋愛感情とは別に、「初恋の人」というある種の「イコン」が俺の中で、とても大きな割合を占めていることに気付いた。

生きたい。自分の人生を全うしたい。
芝居を通じて自分の表現・やりたいことを叶えたい願い。
自分の中の「永遠に触れられない存在」としての「憧れの女性」。

オレを発狂から引きとめたのは、その3つだった。

それもあり、「急性期病棟」は3ヶ月までの期間限定の病棟とはいえ、無期限の入院へと切り替わった。

その狂気の日から…。

…それからの2週間は、夢の中を彷徨うような感覚に陥った。

ある人に会うために外出許可をもらい、その人と話す中で、俺の中の「初恋の人」というイコン・シンボルは翼を持ち、永遠に俺の上空を飛びまわり、見守り、輝き続けるんだろう、そう思った。

狂ったように日記を書きまくりもした。
この想いを書きとめておかないと死んでも死にきれない、と、言わんばかりの集中力で、A4のレポート用紙12枚に細かい字でびっしり。

発狂の間際に行って、よい思いだなんて一ミリたりとも思うわきゃないが、今、こうして生きている、今こうして生きていたいと思えている、そのためには必要な試練だったんだろう。

入院中、何冊か本を持って行ったが、あんまり読めなかった。
まあ、狂気の淵に行きかけた男が、のんびりと文庫本を読める精神状態であるはずもないんだけど…。
覚えているのは、何冊か持って行ったドストエフスキーの研究本。本編はまだ読めないでいる(正確には今日現在、「カラマーゾフの兄弟」を読み進めている最中)が、研究本で、まずは概要を知りたくて、NHKブックスの埴谷雄高の「ドストエフスキイ その生涯と作品」と亀山郁夫の「ドストエフスキー 父殺しの文学」上下巻を読んだ。どちらも意外に読みやすく、「ドストエフスキーのシベリア流刑が今の俺の入院生活なのか?」とか勘違いしたり。

と、なるとこの日記はさしずめ「死の家の記録」か?
縁起でもねぇ…。

あと、カート・ヴォネガットのガイドブックも持って行った。
人生にはほろ苦いユーモアが必要だ。
そういうものだ。

忘れちゃいけないのが、KERAさんの「祈りと怪物」の戯曲だ。
他に同じくKERAさんの「百年の秘密」と、井上ひさしの「天保十二年のシェイクスピア」が載っていた「悲劇喜劇」2冊を持って行き、穴があくほど読んだ。
これも忘れられないほどの経験だ。
何十回と読んだ「祈りと怪物」。あの長い芝居、隅から隅まで頭に入ってるゼ。

眠れない夜はiPod classicの小さい画面で「空飛ぶモンティ・パイソン」を見て、ガンビーさんに、デニス・ムーアに、スペイン異端審問官に、バカ歩き省大臣に、Mr.ピザーに支えられた。

壊れていく自分を感じた夜もあった。
どうにもならないと思う瞬間もあった。

それでも。

一線で踏みとどまって、気が違う、向こう側の世界へ行かないようになれたのは、「芝居を書きたい」「芝居をやりたい」「芝居を書いていないまま死にたくない」それだけだった。

10月いっぱいがそんな感じだった。

11月前半、ようやく落ち着いて来たけれど、中盤にまた悪夢がぶり返してきた。

その頃、懇意にしてもらっていた男性の看護師さんがいた。
当時個室にこもるか外へ外出して独りでいるかしかしておらず、閉塞感が強くなっていた俺に対して、独自にアンケートを作ってくれて、そのアンケートシートを基に4時間みっちりと話した。
自分が何をしたいのか、自分がここで何を治しておきたいのか、自分が退院したら何をしたいのか。
明確なヴィジョンを持つことで、精神的に解放された。
その日以降、順調に回復していった。
あの恩義は生涯忘れ得ない経験だろう。

またこの頃に、会社側から連絡があり、自分で12月2日に連絡を入れて決着をつける、と、11月18日に決めた。

この2週間が、また精神的に地獄を見てしまった。
自分で決めた期限に追われて、精神圧迫を覚えてしまった。

今思うに、ホント、会社選び、失敗したな…。

ま、愚痴っても仕方ない。

辞める決意を固めて12月2日まで悶々とした日々を過ごし、上司が風邪で不在のまま、5日にようやく話をして、いったん保留にはなったものの、辞職の方向で話を進めることになった。

それから、先生の方から「12月中ごろの退院を考えていますがどうですか?」と聞かれ、素直に「お願いします」と言えた。

それは、看護師さんとの4時間の話し合いの成果でもあり、狂気から帰ってきた自信でもあり、会社への決別を決めたことからくる解放感にもあるだろうし、いろんな要素がからんでの、純粋な心からの言葉だった。

12月13日、無事、退院。

見送りはなく、単独での退院だったので、大荷物を一人で抱えての退院。
会計でトラブルがあったけれど、それも終えて、無事、退院。

この時、まだ睡眠時間は1日3時間程度が2回来る状態。
精神状態も完全なる安定は見せていなかったけど…。
今も不安定だけど。

それでも生きてます。
まだ書いてないけど、これから書きまくります。
これからです。

退院して丸7ヶ月半。
いろいろなことがあり、これからもあるんだけど。
あの3ヶ月間に起きた自己改革は大きい。

自分を見つめ、自分を問い、自分と闘うしかない日々。
自分・自分・自分。

これからも、俺の人生は「自分との闘い」だろうけど。
負けないゼ、バカヤロ。

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再掲の理由

こんな内容の日記を再掲しようと思ったのは、「病気自慢」ではなく、「演劇にこだわる理由」を書き残しておきたかったからです。

ある種の決意表明みたいなもの。

ちょっとね、そんな気分になったの。
ちょっとね。

長文失礼。

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