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愛ある言葉の力 お父さんへの手紙 

お父さん元気ですか?お父さんの誕生日がもうすぐ来ますね

3年前のお父さんの誕生日には
フルーツいっぱいのタルトケーキを誕生日に合わせてお父さんのいる介護施設に送りました。
でも

誕生日当日、お父さんは布団の中から起きてくることはなくてそのまま、眠ったまま逝ってしまい、お父さんの大好物のフルーツいっぱいのタルトケーキは、施設におきっぱなしになりました。

お父さん
ありがとうございます。

今になって思えば
どれだけたくさんの愛情を注いでもらったか、どんなに大切にしてもらっていたようやくわかるようになりました。

遅れてごめんね、遅すぎるね

親が亡くなってから親の恩を知ったとしても、一緒に晩酌をすることもできず、あったかい布団をかけてやることもできず、好きなものを料理して口に運んでやることもできません。

子供というものは未熟なもので、申し訳ないくらい未熟で無明です。今更ながらに涙が止まりません

お父さん

私は家を継ぐことなくお嫁に行きました。

私は女の子二人姉妹の長女だから、家を継ぐべき立場にあったことをよく分かっていながら、他家へ嫁ぎました。

あの時お父さんは何も言わなかったけれど、
あの時お父さんがどんな気持ちだったのか、今はとてもよく分かります。大切に育ててくれてありがとう。

お父さん

私が大切に育ててきた一人娘のさやかも昨年、他家に嫁ぎました。

一人娘のさやかは
自分が家を継ぐべき人間であることをよく知っていて、その上、私がたった一人残されてしまうことをよくわかっていて、それでも

嬉しそうに、何の悪意もなく、未熟なあどけない顔をして「お嫁に行きます、幸せになります」と嬉しそうに私に言いました。
桜色の可愛いワンピースを着て嬉しそうに手を振って家を出ていきました。

お父さん

よく思い出せないのですがおそらく30数年前

私は真っ赤なワンピースを着て嬉しそうに手を振って、自分の継ぐべき家を出ました。他家に嫁ぐために、何百万も家具や着物やあれこれ花嫁道具を持たせてもらい、何百万円お金をかけて大げさな結婚式披露宴を開催してもらい嫁ぎました。

お父さん

あの時のお父さんは、きっと今の私と同じ気持ちだったのだろうなと今になってようやく理解できます。

ゆっくりゆっくり私はお父さんの大きさを思い知らされています。
ひとつひとつお父さんの愛情が、そして寡黙な優しさが理解できるように、ようやくなりました。

今頃わかったのかと自分で自分が情けないです。ごめんなさいね、でもきっと親というものは、子供の未熟さを軽々と許してくれるんだろうなと思います。

笑いながら。

子供がそう望むなら、そうすればいいと、背中を押してくれる。

お父さん

介護施設に入ってからのお父さんは、時々私のことが分かるらしく「ああ、くみこか!よく来たな、ありがとう」と手を出して握手してくれました。

でも施設に入ってからのお父さんは私がそばに付き添っていても時々、私が誰なのか分からなくて遠い目をして天井を見ていましたね。

お父さん

わたしはね、子供なんて親にしてもらったことの半分も恩返しできないと思うことがあります。

お父さん

昔、私が小学生だった頃、私はお父さんが怖くて、あまりなつくことができませんでした。

でも
ある夏の日、クラブ活動で夜遅くなった日、体育館にお父さんがジョギングしながら迎えに来てくれたことが1度ありましたね。

あの時初めて「あれ?私もお父さんに心配してもらえてる?!お父さんは妹だけじゃなく私のことも迎えに来てくれるんだ!」
そんなふうに思ってとても嬉しかったのを覚えています。

妹のれいこは活発で、お父さんによくなついて、いつもお父さんと一緒に遊んでいて。でも私はお父さんのそばに寄ることができなくて本ばかり読んで。

別棟のおじいちゃんおばあちゃんちへ、いつも逃げるように私は入り浸っていました。

お父さん

覚えてますか?
妹のれいこがの幼稚園のお泊まり保育の日の夜。

私は

お父さんとお母さんと私と3人だけで、町の中心街のレストランに連れて行ってもらいました。特別な日のようでワクワクしました。食事をしてから3人で帰り道、二荒山神社前の大きな信号を渡りました。

お父さん覚えてますか?

その時ね
私の左手をお母さんが、そして私の右手をお父さんがしっかり握って、私を高く持ち上げてスキップするように信号を渡ったこと。

お父さん

私はとっても嬉しかった。
幼い頃の思い出の中で、ダントツ、あの手をつないで渡った夜の出来事が一番キラキラしています。

お父さん

私はとても楽しかった。
楽しいというのはこういうことかと、初めて感じた気がします。いつもは口うるさいお母さんも、あの日はとても和やかで。

あれは私にとっては貴重なかけがえのない楽しい思い出なんです。

あの夜、私は初めてお父さんと手をつなぎ、楽しくて嬉しくてはしゃいでいました。私は初めてお母さんとお父さんと手を繋ぐという楽しさを体験しました。

子供だった私は手を繋いだまま、お父さんとお母さんに両側から持ち上げられて、空中スキップするように横断歩道を渡りました。その後、大好きな絵本を買ってもらいとても嬉しい一日でした。あの夜のことは何よりも大切な大切な思い出です。

小さな妹がたまたまお泊り保育で出かけていたから、その日、私だけが子供扱いを思いっきりしてもらえました。

その日だけはわたしは「お姉ちゃんだから我慢しなさい」「お姉ちゃんなんだからやってあげなさい」「お姉ちゃんなんだから先に行きなさい」「お姉ちゃんなんだから一人で出来るでしょ」

そんな風に一度も言われずに、子供扱いされて、お父さんとお母さんに手を繋いでもらえたんです。

お父さん

私はいつもいつも良い子を演じてきました。いい子でないと愛されないと思い込んでいました。

地元の公立高校の校長を歴任したお父さん。黄綬褒章を受章したお父さん。几帳面で厳格で真面目で行動的で背中が大きくて立派なお父さん。
私にはとても怖くて、そばに寄ることができなかったお父さん。

その頃はねまだね

だってね、
お父さん。

私は幼い子供で、お父さんがどんな悲しみの中で生きてきたかを知る由もありませんでした。

お父さんがまだ10歳の子供の頃に実母を亡くすという悲しみを経験したかわいそうな寂しがりの、そして我慢強い子供だったことを知りませんでした。
お父さんが実のお母さんを亡くしてすぐ、新しいお母さんが来ると、弟がたくさん生まれて「お兄ちゃんなんだから一人で大丈夫でしょう」という理由で構ってもらえなかったことも知りませんでした。
実のお母さんを亡くしてからは、新しいお母さんには可愛がられず優しくされず、食事もそこそこしか食べさせてもらえず、

その後すぐ
お父さんだけが親類の家に養子に出されたことも知りませんでした。戦後の貧しかった時代に食べたいものも十分に食べることができず、それからのお父さんは、親戚の家で小さくなって辛抱強く生き抜いてきたのでしょうか?
自分の居場所がなくて、周りの大人に気を使い、独りの寂しさを毎日毎日感じながら、乗り越えて頑張った子供だったのでしょうか。

幼い頃のお父さんの内面の小さな子供の心はどれだけ傷ついていたか、子供の頃のお父さんの幼い心がどれだけ悲しみでいっぱいだったか。

お父さんが自分で働きながら定時制の大学を出て教師になったという事実も後になってから知りました。

お父さん

私はお父さんの気持ちを察して、(お父さんが喜ぶかもしれないから、親孝行になるかもしれないから)そんな理由で、私はお父さんと同じように公立学校教員になりました。

でもね、お父さん

私は教師に向いている性格ではなく、私は教師になることがお父さんへの親孝行だと思って教師にはなったものの、長く続けることはできませんでした。

自分自身の人間性に私は自信が持てなかったから。私は優しくない人間だから、私は人の面倒を見るような人間ではないから、私は冷たいから、私は意地悪だから、私はダメなやつだからと

私は、自分は無価値な人間だと

その頃の私はまだ思っていたのです。

50歳を過ぎた頃。
私は自分がどんなに親に大切にされていたか、どんなにお父さんに愛されて育ったかを、やっと、ようやく痛いほど知ることができました。

私自身が親にとってどれほどの大切な存在であったか。親にとって子供が、どれほどの価値のものなのかを、五十歳を過ぎてようやく思い知りました。

お父さん

明日はお父さんの葬儀だという日に、
お父さんのさんの教え子がわざわざ他府県から訪ねてきました。

その方はもう40を過ぎていて優しそうな瞳をした人でした。慌てて走ってきたようなしわくちゃなズボンのまま玄関に立っていました。

お父さん

その人はね私にこう言いました。

「手塚先生は僕の命の恩人なんです。お線香をあげさせてくださいますか、お顔を拝見させていただけますか、お願いします」
そう泣きながら言っていました。
高校生の時に無免許運転で事故を起こして同乗者を殺してしまったというその人は、定時制高校を退学になり、自分も自殺するしかないと当時、自分をそれはそれは責めていたそうです。

お父さん

その時、校長だったお父さんが、
教育委員会に働きかけて、その人のこれまでの陸上部での功績や、慎ましい家庭環境や様々な状況を加味して、定時制高校を退学させることなく、なんとか卒業まで責任をもって指導にあたるからと、

お父さん

お父さんが随分、
あちらこちらに頭を下げて、
まだ高校生だったその人が償いをしながら学びを続けることの出来る道筋を考えて整えるために、校長として尽力たことを、私は初めて聞かされました。

「あそこまで親身になってくれる先生なんかいないよ」とその人はお父さんの棺をさすりながら、お父さんの遺体の傍らで1時間ほど泣いていました。

お父さん

お父さんはよく行っていましたね

「人に喜ばれる人になりなさい」と。「人に優しくしなさい」と。「世の中の役に立つように、自分は何が出来るのか考えて生きなさい」と。

お父さんの葬儀から3年が経ちました。今もお父さんの遺影は私に語りかけてきますよ。

「くみ子はこれから何をするんだい?それは人に喜ばれる事なのか?」と。

お父さん

親が生きている時になぜもっと話をしておかなかったのだろうと、私と同じように、多くの人も思うのでしょうね。

お父さん

お父さんが生きている時になぜもっと相談しなかったのだろう。
お父さんが生きている間になぜもっと色んな所に出掛けて楽しい思い出を作らなかったのだろう。

なぜもっと長く一緒に暮らさなかったのだろう。
なぜ施設で、あの日そばについていなかったのだろう。お父さんが生きている間になぜもっとお父さんにいろいろ聞いておかなかったのだろう。

お父さん

お父さんが亡くなる5〜6年ぐらい前、

覚えてますか?

一緒に京都のお寺へ参詣に家族で行ったことがありましたね

「へーすごいね、わーすごいね」

大きな阿弥陀様の仏像を前に新鮮な驚きをお父さんは言葉にしていました。

父「家の近所の多気不動尊にいつもお参りに行ってるから、功徳はたくさん積んでるし大丈夫と思っていたけれど、この阿弥陀如来様と観音菩薩様とお釈迦様にもしっかり感謝を伝えてお参りして帰ろうか」

あの日あの大きな阿弥陀佛像にお参りした日が、家族みんなで一緒に出かけた最後の日になるとは思いもよりませんでした。

そういえば

あの大きなお寺さんの長い長い階段を、私の一人娘のさやかが、お父さんの手を引いて登っていましたね。

お父さん

お父さんを真ん中にして、お父さんの右手を孫がひいて、お父さんの左手はわたしとつないで、長い長い階段を登ったあの日が最初で最後のお寺参りになりました。

気力あふれていたお父さんは「手を繋がなくでも大丈夫、心配ない登れるから」と言っていましたね。
心配していたわけではありません、娘の私と孫のさやかはただとても楽しくて、お父さんを真ん中にして、お父さんと両手をつないで階段を登りたかったのです。

あの日のことが素敵な優しい思い出として、お父さんの魂のどこかに息づいていくれていたら、私はほんの少し救われた思いがします。

お父さん

うまく言葉にはなりませんが感謝しています。ありがとうございました。なにも親孝行できなかった未熟な娘で申し訳ありません。許してください。

お父さん

ありがとう。


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