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記憶する手紙。

誰かの人生に立ち会う
という経験を、本ですることがある。

読み終わって本をとじるとき、そう思うのだ。
神のような視点から作中の人物を見つめ続け、秘密を共有し、他人事が自分事へとなりつつあることに気づいてしまう。

「読書の秋」と言える季節があっという間に過ぎ去ってしまいそうなので、少し前から気になっていた本のことを書く。

『ののはな通信』

「のの」と「はな」は、女子高に通う友だち同士。
ふたりの往復書簡が綴られているのが『ののはな通信』だ。
まだメールも携帯電話も普及する前のお話で、ふたりは授業中にメモを回したり、はがきや手紙でのやりとりをする。

書簡体小説は初めて読んだのだけど、やっぱり他の作品に比べて趣が異なるなぁと思った。
読み手を導くような描写でなく、あくまで「のの」は「はな」へ、「はな」は「のの」へ書いているので、めっちゃふたりの世界。(当たり前)

最初の方はもうちょっと「仲間に入れてくれよう」という心境で読んでいたけど、中盤になると「まぁまぁ」と仲裁に入りたくなったり、「良いこと言った!」と肩を叩いたり(した気分)で、まぁ忙しかった。

たまにふと、私は誰目線でこの物語を追っているんだろう?と、考えることもあった。

✳︎

この本を読んでいるとき、差出人の名前があるページを区切りに栞をはさむ、という行為を私は自然とやっていたけれど、他の読者はどうだろう。
私はそれによってか、ポストへ投函するときの緊張感や、返信を待つ時間を一緒に体感していたように思う。
また本を開くとき、どんな返信が届いてるだろうかと想像したり。

毎回きちんと、宛名や差出人の名前、消印が書かれていることに、手紙の性質を思い出した。それらから、差出人が書き留めたその瞬間の背景が香ってくるようで。

リアルであれば、そこに筆圧やインクのかすれ具合、どんな便箋でどんな絵柄の切手で…なども一通の個性として加わるだろう。

ああ、そうだよな手紙って。それらがないものを手紙とは呼ばない。わたしからあなたへと無事に届けるためのひと手間は、記憶をより新鮮な状態で保ってくれる。

現代ではそれらを省略して通信ができる。
いろんな工程を省くことで早く多くのことを伝えられる。しかし、それが記憶に残るものになるかどうかは疑問であったりする。

✳︎

この本を読んで、自分のなかにある「手紙」の定義が揺らいだ。
彼女たちのやり取りが、まさに手紙を手紙たらしめる行為であることに気づいてしまった気がして。

いま自分が手紙を書くシチュエーションって、とくに返信を求めずに書く片道切符であることが多い。
時候の挨拶やお礼、日ごろの感謝の気持ちだったり自分の思いを告白したり、普段口に出来ないことを手紙に託すのだ。

でも、ののとはなはコミュニケーションの手段として書いている。
それは現代ほど早く伝えることはできないが、その分自分と相手との時間が濃密に蓄積されていくのが分かる。
熱く長くしたためられた手紙によって彼女たちが経験していること。
それは、相手の言葉に呼応して、自分の深い部分にある気持ちと出会い直すというかけがえのない経験だ。
だから、お互いが書かずにはいられないのだと思う。

私がふたりに対し、終始一貫して偉いなと思うところ。
それは、自分の気持ちを大切にしているところ。

手紙って気持ちを綴るものだから当然では?と思われるかもしれないが、ふたりはただお互いの喜ぶ言葉や思いの羅列を交換して楽しんでいるのではない。

相手と深いところで結ばれる関係性を、努めて維持しようと懸命に手を伸ばし続けるのだ。
それって割と体力を使う作業でもあると思う。

自分の気持ちに少しでも嘘や妥協が混じると、片方の思想に飲み込まれてしまったり、精神世界の境界線を曖昧にしてしまう可能性もある。
それは実際なところ楽でもあって、表面上の関係性を保つには多くの人が使う手段だ。

でも、ふたりはお互いを最大限に想いつつも、その想いを所持している自分という存在を客観視するのが上手い。
「私」という存在を、いつもないがしろにしないのだ。

手紙の中で、これはもはや日記では?と思うほどの自分語りがたくさん盛り込まれているのだけど、その自分語りこそ、この本ではとても重要な部分なのだ。

ふたりのやり取りを長く読んで、
言葉を発するコミュニケーションがキャッチボールなら、手紙はお互いの心の池に小石を投げ合うような行為だと思った。
スピード感も、狙いを定める必要もないが、時間差で深く響き渡るように届く。

そのインパクトで、どんな波紋が広がったか。
底に沈んだ土を、どのように舞い上げたか。
それらをゆっくりと噛みしめ、観察する時間が用意されている。

大抵、受け取ったほうの石は重い。
小石では済まないことのほうが多い。
それはひとが、送ったものより、もらったものの方に価値を感じているからだと思う。

✳︎

ふたりの関係性に触れるとすれば
何だったかなぁ。
以前読んだ別の本のなかで
「触れるというのは、これ以上近づけない距離を知ってしまうこと」
みたいなニュアンスがあってすごく印象に残っているのだけど、ふたりを見ているとそのような状況に近いと思った。

思いが通じ合い、互いの精神が溶け合いそうなほど濃密な関係を築いたからこそ、見ている方向や微妙な温度感の違いを感じずにはいられなかったんじゃないかな。

でもその分かり合えない、混ざり切らないふたりの人生が、この物語の肝でもある『記憶』を、より揺るがないものにしたと言ってもいい。

物語の前半では、火花を散らす手花火のような激しさと儚さを感じ、後半ではくすぶった火玉を抱えて燃える線香花火のような余韻を感じた。

消えそうで消えない火種を、私もずっと見守りたい気持ちになった。

起承転結や序破急など、ストーリーの組み立てを分かりやすく感じさせない本だった。もちろん、すべてが手紙のやりとりであるから、そう感じるのかもしれない。
でも、人生ってこういうものだよなぁとも思う。

善と悪なんてあるようでなくて
何の前触れもなく別れや出会いがやってきて
危険が忍び寄る足音もしなければ、何かを予感させる香りも立たない。
日常はただ、淡々としている。

ただすこし過去を振り返ったとき、あのとき自分は物語の只中にいたな。と感じることはある。
やっぱり、記憶なんだ。
過去という記憶を養分に物語が育まれ、色づいていくものなのかもしれない。

私は、してきたことを後悔はしません。これからもしないと思う。だけど、考えつづけることはします。自分がしてきたすべてのことに対して、いつか自分の行いで返す日が来る予感がします。私を生かし、私を私たらしめてきたうつくしい記憶に、行動で報いなければならない日が来る、と。

(ののはな通信/三浦しをん)

ある時期に書かれた、はなの手紙の中でいちばんすきな部分。
これの前後にある文章もとても印象的だけど、私はこの部分にすべてが集約されている気がする。
心に書き留めたい言葉だ。

✳︎

共感するっていうのかな、この感覚。
正直、私はここまで一人の友だち(という表現をあえてする)と深く関係を築いたことはない。
でも、もしそんな人がいた人生なら、歩んだ道かもしれないとは思う。

読書って、そういう「かもしれない」に思いを馳せたり、共に感じてしまうことに私は面白さを感じているから、そう考えると共感していることになるのだろう。

普段の生活では出会わない考え方や価値観を解き明かし、読み手の精神と限りなく接近させてくれるのが本であり、本を読むということなのだ。と、これは自分が読書感想文を書きはじめて思うようになった。

重なりそうなほど接近して心が震えたり、ときに胸が締め付けられるような感覚や浮かび上がった心象を忘れたくなくて書いている。

私はいま、誰の目線でこの本を読んでいるのだろう。という問いは、自分のなかで「立会人」という言葉に落ち着いた。
なんだか聞こえはいいけれど、単なる目撃者ではないということは言っておきたい。

だって彼女たちの歴史を知ってしまったし、考えてしまった。
立ち会ってしまった。
秘密を共有した分、私も何か残さなければという独りよがりの責任が生じた。

だからこの感想文を書くことが出来てよかったと思う。

これは、いつかの未来への
自分に宛てた手紙にもしよう。



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