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表現者たち。

夜更けに眠くなるという、当たり前にやってくる生理現象が遠ざかる時期がたまにあって、とても困る。
眠らなきゃと思うほど意識が冴え冴えとしてくるもんだから、副交感神経よ今こそ活動せよとその都度強く念じている。

でも深夜には深夜の良さがあって、その時間帯でしか感じられない空気感は嫌いじゃない。

今日は横にならずに起きていようかと思った日の夜に、たまたま読んでいた本が、ああこれはこのタイミングで読めてよかったなと感じられる本だった。

思えば、本を読むタイミングや場所、そのとき周りにいた人の動きなんかは、本に集中しているようでもそれ以外の情報としてしっかり記憶できている。なぜだろう、わからないけど。
あの本はあの部屋で。
あの本はあの旅先で。
あの章はあのタイミングで。みたいに。

たまに、本当に集中できてるのか?と不安になりつつも、振り返ればむしろそういう記憶のあるものの方が、本の内容自体も色濃く残っていることが多い。
だから、都度場所を変えて読んだりする。
旅に必ず本を持って行きたがる人の気持ちがすごくわかる。

こころの記憶写真というか、しおりというか、そのシチュエーションを記憶にとじこめる効果を高めるためにも有効であると思う。
旅との親和性が高いのは、そのせいかもしれない。

✳︎

深夜に開いたその本は、タイトルに「夜」が付く。
私は夜と付くタイトルの本をよく買う癖がある。
本棚にはたくさんの夜があって、これから読みたいと思っている本もそんな傾向がある。

夜はなんだか落書きが許されるような、そんな自由さを感じているのかもしれない。
昼には仕事をしたり、家事をしたり、学校へ行ったり、みんながやるべきことをやっている。

でも夜は、今日の終わりを待つだけで、何か目的を持って励まなくていい時間。
まぁ職業や生活スタイルの違いもあるから当てはまらない人もいるだろうけど、私にとってはそんな時間だ。

でもねぇ、落書きってのは表現者としての出発点だったりする。
昼間の自分とは別次元で生み出されたものって、誰かをハッとさせたり、自分をも驚かすことができたりする。
そういうことにも、気づけた本だった。
そう、この本の魅力は登場人物それぞれがあるひとりの表現者であるということ。

深夜ラジオがテーマにもなっていて、それがより心をくすぐるポイントだった。
ラジオは昔はよく聴いていたけど、最近は頻度が落ちている。たまに芸人さんのラジオは聴くけれど。
あのダラダラと無意味な会話を繰り広げながら流れる時間が、私にとっての明るさを持った夜だった。

普通のお便り、いわゆるラジオでいう「ふつおた」が特に好き。
リスナーのお便りを起点にパーソナリティが会話を転がしたり、転がさなかったり、テレビだったら絶対カットされてるよなって内容で。

遊びや落書きが許される世界で存分に羽を伸ばしているリスナーの存在を知ると、笑いながらも彼らは昼間どんな顔で生活しているんだろうと思う。

最近は読みたい本がありすぎて、聴きながら読書できるオーディブルを契約しようかどうしようか悩んで早2ヶ月。
「寝ながら聴ける」「時間を有効に使える」ってのが魅力だけど、やっぱりラジオも聴きたいなぁ。

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読んだ本はいわゆる青春群像劇で、もともと好きなジャンルではあるのだけど、「青春」という言葉で片付けたくない気持ちもある。
でもあの空気感ってやっぱり青春だよなって、何かを持ち寄って集うって年齢に関わらずきっと青春なんだなって思う。

一人称で語られる物語だけど、ネガティブな「俺」の部分が必要以上にフォーカスされず、ときにさらりと表現されているから、粘っこさがなくてよかった。

個人的には、若者の一人称小説には攻撃性やむき出し感が強くあって欲しい、と思っている。
そこに「生モノ」な感じがあってこそ、一過性の輝きを見れるからだ。

その反面、主観が強調される分、読むタイミングによってはどっと疲れてしまうこともあるけど、この本は不思議とそうはならなかった。
主人公の饒舌過ぎない孤独っていうのかな。

「なんか」とか「そんな感じ」とか、表現を身に付けたり年齢を重ねると使わなくなる言葉が散りばめられていて、それが逆に効いている。

モヤモヤと心に居座り続ける何かに対して、彼らは適切な対処の仕方を知らない。知らないんだなと思わせる書き方が逆にプロだなと思う。若者特有の不器用さが過不足なく伝わってくる。

作中の人物の気持ちが文章で補完され過ぎていると、きっとこんな風には思えなかったと思う。
若者のことを「大人」が書いてる感じになってしまう。

気がつけばこんな感じで、私は文章に対してのアンテナが立ちはじめたころから、書き手の意図を汲みたいという独自の視点を走らせて物語を読んでしまうところがある。

でもそんなドライな視点を持っていても、やっぱり涙したり、感情が込み上げたり、そういう反応は鈍っていないからまぁいいかという事にしている。
楽しいし。

✳︎

谷川俊太郎さんの「ひとり暮らし」というエッセイが好きだ。

読んでいると、彼が遠い存在のようにも、近い存在のようにも感じられて、自分のなかの遠近法がぐちゃぐちゃになる。

そのなかに、以前付箋を貼っていたページがあった。

「生きるのと生活するのを分けることの出来たのが、私の青春でした。」

谷川俊太郎『ひとり暮らし』

なんだか掴まれる言葉だったんだろう。
いま読んでも十分に掴まれる。

この書き出しから始まるエッセイでは、詩に求められる瞬間を考察しながら谷川さんなりの思考が綴られている。
生活という事実だけが生を構成しているのでなく、生活という衣装を脱ぎ捨てて裸になった生々しい現実が生を浮かび上がらせる。それは恐ろしくもあり甘美でもあると。

「ですがほんとうの生とは、そんな意識の介在を許さないのかもしれない。「生きていてよかった」というような、通俗的な感慨の表現がどこかうさんくさく、気恥ずかしいのは、生きることの手ごたえはそんなひとことで言えるほど、やわなものでもうすっぺらなものでもないということを、私たちがちゃんと知っているからではないでしょうか。ほんとの生はもっと無口で不気味だと私は思います。」

優れた表現者や磨き抜かれた感性の持ち主なんかは、このような感覚を持ち合わせているのかもしれない。
でも、私のなかでもこの言葉の意味はなんとなく理解できるし肯定したいという気持ちがある。

ここまで明確に意識化されたものでなくとも、何かを表現したいと思うとき、人は誰でも生活の下に根差す何かをスルーできないのだと思う。

放っておけば埃をかぶってしまいそうな言葉やそれ以前にある感情は、必ずどこかに蓄積されていて、それらが発露されるタイミングと場所を、実は心から渇望していること。
だれもがそんな表現者であるということ。

たまに読み返すと、そんな言葉の出会い直しがあって面白い。

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眠れなかった夜に出会ったのは、そんな表現者たちの出発点を垣間見れる物語だった。

主人公が、あるひとりの大人から言葉をかけられるシーンが印象に残っている。

その質問に対して、主人公は「わからないです」と答えるものの、次の瞬間には背中を押されるようなすがすがしい気持ちになっていたのだ。

「わからない」という言葉が似合うのも若者の特権だなと思って、私にはなんだか眩しく映った。

「わからない」ことが苦しいんじゃない。
「わからないこと」を「わかろう」としなきゃいけないことが苦しいんだよな。わからないと言わせてくれる居場所っていうのは、実は貴重なのかもしれない。

そんな居場所を作れる大人でいたい。



いま見ても、やっぱりタイトルがいい。

自分にとっての明るい夜ってなんだ
と、少しだけ考えていた夜だった。



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