正しい感情の所在。

正しい欲と書いて、「正欲(せいよく)」と読む。

多様性の時代である。
差別、マイノリティ、ジェンダー、LGBTQ。
これらの認識が高まり、現代では他者を受け入れるための考え方が上位にきた。
他者を受け入れる寛容さ、新しい価値観への柔軟性。

もし受け入れる側にまわるのなら、さも自分の人間性が高まったような気さえする。
「弱者に寄り添う」とか「マイノリティへの理解」など、自らはあくまで安全な立ち位置で、危害の及ばない範囲の中で、それらの言葉が踊っていることにもはや慣れつつある。

昨今叫ばれている多様性とは、人種、性別、年齢、働き方など、多種多様な在り方を認め、理解を示すという前提に基づいている。
人生の選択肢が増え、自分らしさを発揮できるようになったことは、個人の生きやすさに繋がっているようにも感じる。

しかし一方で、社会からはじき出される多様性も少なからず存在している。
いや、その少なからずという視点からもう間違っているのかもしれない。
その多様性は、犯罪すれすれの道を通る、常識というレンズの中で見れば「アウト」と呼ばれる人たち。

思い描く多様性は、自らの想像し得る多様性でしかないのだということを、私は強く思い知らされた。

では、想像し得ない多様性とは何なのか。
それを突き付けるのが、
朝井リョウ著の『正欲』である。

本屋の入り口に積まれているのを横目で見つつ、何度も通り過ぎてやっと先日手に取った。

話題の本を読むことのメリットは、結構ある。
人それぞれの感じ方が多様であることをタイムリーに知れる。
同じ時代を生きる課題を、一緒に抱えたような感覚になる。
それは、読後感をより深く味わえる貴重な時間だ。

✳︎

みんな自由に生きる権利がある。
多様性を認めよう。
(※但し社会を脅かすと判断されるものは除く)

この注釈は、いつもセットだ。

社会の謳っている多様性とは、形がないようで、ある。
ここまでの多様性ならオッケーという、冷たいラインが存在する。
そこには意識せずとも、自分もきっちり加担しているのだろう。

価値観や思想、嗜好など、目に見えないものに対する多様性に、どれだけの覚悟で向き合わなければならないのか、今一度、思い直す必要がある。

想像力の欠如、ことなかれ主義、無自覚な線引き
そんな罪名があるなら、私は真っ先に罰を受けなければならない人間かもしれない。

社会のルールは、突き詰めれば人としての正しい感情(欲)があるかないかに基づいている気がする。
それは種の保存とか、社会を脅かさないという観点から見れば正しい欲なのだろう。
そこからはみ出せば異端とみなされ、直接他者に害を与えていなくても、制裁をくだされる側に簡単に転げ落ちてしまう。

話は少し逸れるが、例えば子どものことを無条件に可愛いと思ったり、植物を愛でる気持ちが芽生えたり、そういう、年を重ねると多くの人が持ち得るであろう感情が自分にもあると気づいたとき、ちょっと安心感を覚える。
でもその安心感って何なのだろう、とよく思うのだ。

それはおそらく、「人として正しい感情」という認識だからだと思う。
私は人として正しいルートを歩んでいる。という安心感なのだ。
だから堂々と人に表明できる。
それは自分の道を歩んでいるようで、本当は社会的に正しいルートを無意識に選択しているからかもしれないのに。

まぁ、正直私はそれでもいい。
共に生きるひとと平和な生活が送れたらそれで充分だし、多数派の渦に飲み込まれている方が楽だったりする。

「アウト」と呼ばれる思想がマジョリティを占めれば、やはり秩序が崩れるだろう。そうなれば安心して外も出歩けない。
やっぱり、そんな世の中では困るというのが素直な気持ちだ。

でも、でもでも
その一線を越えてしまうひとと、自分って一体何が違うのだろう。
私はたまたまこの星に合った、そういう感覚を持ち合わせていただけ、だとしか言いようがない。
その「たまたま」が運命の分かれ道。

明日、その「感覚」が降ってきたら。
他者の想像し得ないものが、社会からはじき出されるようなものが、この身に芽生えたら。
私はどのように生きていけばよいのだろう。

私は多数派でもあり、少数派でもあるだろう。
多数派であることの安心感と引き換えに、自分の意思が遠ざかっていく感覚もある。
何となく集団に紛れ込んで社会の歯車に入れさせてもらっているような。

物語の終盤で、ひとつの思想に染まるのなら、あちら側の人間でなくて良かった。というニュアンスで、少数派の人間が自分の幸福を見出すシーンがある。

そういう気持ち、分からなくもない、と思う。
ここに出てくる登場人物ほどの切実さはないが、私はそのような感覚が何となく理解できると思った。

自分が多数派側にいたときに感じた違和感を、見透かされたような言葉だった。

✳︎

多様性は、私たちのあるべき姿であると思う。
しかし、ミクロ視点を生きるひとりの人間からすれば、それはときに痛みを伴うことでもある。
私はその痛みと対峙したとき、これも必要な多様性なのだと、自信を持ってYESと言えるだろうか。

分からない。
分からないが、この本によって何かが変わった。
痛みと覚悟に似たひとしずくが、この胸にしずかに落ちた気がした。

多様性とは、ジレンマを抱えてしまうものだと思う。
多様性を大切にするのも、一種の偏りだからだ。

それでも推し進める必要があるとき、私は覚えていよう。
無自覚を自覚すること、ありったけの想像力を働かせること
はき違えた寄り添い方をしていないか自身に問うこと
分かり合えないことを知ること

いつも思う。
思うだけでは変わらない、何もはじまらない。

でも、何かをはじめるときの
水面を揺らす一滴の何かが落ちたときの、
そんな感情が消えませんように。


この記事が参加している募集

読書感想文

ここまで読んでいただいたこと、とても嬉しく思います。