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小豆色の寂寥(5)

 老人は、とコウさんが口にする。

かし老人は、ひとりきりで死んで、さびしくなかったんだろうか」

 小豆色の部屋の天井を見つめ、コウさんはふと言った。

「ふしぎだわね。こんなこと、本当は私を創り出した者が書かない限り、感じ得ない考えだというのに」

 彼女の表情の変化に気付くとともに、私も、樫のおじいさんの死に、気持ちが及んだ。

 樫のおじいさんに友人や知り合いはいたのか。いたとしたら連絡を取ることはなかったのか。親戚のだれもおじいさんに電話をしたことはなかったという。知り合いのだれも、連絡を取らなかった。
 隣の住人のだれも、樫のおじいさんを気に留めなかった。
 滞った家賃を大家さんが指摘しに行って初めて、おじいさんは見つかったのだ。
 だれかがおじいさんのことを気にしていたら、この夏の暑いさなかに、ひとりで息絶えることはなかったかもしれない。そう、ひとりきりでないということもあったかもしれない。

 でも、そんな分かったようなこと、私には言えない。樫のおじいさんの心や感覚は、おじいさんだけのもの。

「樫のおじいさんの気持ちは、想像でしか……。寂しかったのか、苦しかったのか、なんも感じとらんかったのかも」

 じゃけど、と首を振った。

「おじいさんの部屋にはコウさんが」

 先を言わなくても、コウさんは、言わんとすることを分かってくれた。

 だれかがそばにいて、ふれてくれるぬくもりや安心感。樫のおじいさんは、これがきらいだっただろうか。それとも、知らなかったのだろうか。

 私は、数日前に存在を知った親戚の樫尽蔵さんの生活もなにも、知らない。本当に知らない。とはいえ、多分、今後も知ろうと努力はしないだろう。

 やがて、コウさんは低い声で、

「仮定でしか語れないか」

 と言い、もういいよ、と私に言った。

「じゅうぶんよ。もとめていたもので身体がいっぱいだから。私はもういいわ」

 私は小豆色の頁から手を離す。

「私という設定がぽんぽん変わりつつあるな」

 苦笑するコウさんの空気がどこか和らいでいるように思う。

「設定がぽんぽんと変わる、って?」

 たとえば、と、コウさんの瞳がまっすぐに私を捉える。

「対面した相手を温度があるものとして見るとか、ね」

 今までどう見えていたんだろう、と思ったが訊かなかった。

「興味が湧くというのはこういうことなのだろうな。要するに、知りたいと思ったということかな。ひとつめは、きみの名前」

「私の?」

 きょとんとした。今さらと思うも、名乗る。

岩戸亜芽いわとあめです」

「いくつ?」

「十七才、もう少しで十八才です」

「十七才か、そうか。亜芽には趣味はあるのかしら?」

「趣味、って」

「ほら、好きなことよ」

 もちろん、単語の意味は分かっている。

「そうですね。絵を描くことが好きです」

「絵を描くのは、楽しい?」

 私はコウさんが突然始めた問答に首をかしげながら、楽しいですと答える。相手を知る、相手に興味を持つ、そこから生じてくる問いなのだろうか。

「では、好きな食べ物は? 苦手な食べ物は? 得意料理はあるの?」

「コウさん、ちょっと待ってください。質問攻めすぎやしませんか」

 かもしれないわね、と絵の中の女性は勢いを少し収めて言った。

「向かい合った相手にも感情があり、温度があるとちゃんと分かったのが、あまりに新鮮だったのでね」

「ふつうのことじゃないですか」

「それが分からなかったのよ、今までずっと。だから私はずっと凍えていた」

 生を受けたが愛されず、愛を知り得る環境になったときにはすでに、ぬくもりとは程遠い冷たさの中にいて、ひとの命に手をかけ、小豆色の牢で物理的にも心理的にも独りで震え続けて。

「亜芽は、樫老人が死んだとき、私がそばにいたと言ったわよね」

「はい」

 確実に、ぶんぶんと頷きを返す。コウさんは、ゆっくりと、自身の身体を抱いた。

「やっと、想像することができたよ」

「えっ、なにをですか?」

「もしこの牢に」コウさんはぐるりと自分のいる室内を見回した。「だれかがいたら。亜芽にふれられて感じたような温度を、感じられただろうということを」

 たまらなくなって、再び小豆色の頁に手をふれる。

 しばらく沈黙が降りた後、ねえ、とコウさんがまた問いかけてきた。

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