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作り手のエネルギー

私の仕事のひとつは想像力を使ってモノを創ることだ。
趣味も似たようなもので、結局のところ、子供の頃から好きだったことが規模や体裁を変えて仕事のひとつになっているだけのように思う。
対価が発生するしないに関わらず、電磁的であれ、物理的なものであれ、想像したものが形になったとき、私はとてつもない幸福感に包まれる。

その反面、こちらにも書いたように創作(制作)にかなり集中するため、作品完成後は途方もない疲労感に襲われる。「燃え尽き症候群」あるいは「空の巣症候群」のようなものかもしれない。

それだけ作り手は身を削り、創作物にエネルギーを注いでいる。
好き嫌いはともかくとして、ピカソの『ゲルニカ』やムンクの『叫び』に否応なしに惹きつけられるのは、創作物の中に途方もない画家のエネルギーを感じるからなのかもしれない。

本当に優れた作品は作り手から離れてもなおそれ自体がエネルギーを持っている。
先の『ゲルニカ』や『叫び』にしても、画家の生きざまを抜きにしてそれ自体が強いオーラを放っているし、ガウディがどんな人物か知らなくても『サグラダファミリア教会』は素晴らしい。ベートーヴェンの『運命』は、彼の耳が聞こえないことを知らなくても迫りくる恐怖や絶望、そして光のようなものを感じるはずだ。

つまり、優れた作品とは作り手と切り離されても自身のエネルギーを放つものであり、またそれは作者自身のエネルギーでもあるというメビウスの輪のようになっている。

矛盾するようで申し訳ないが、いくら作り手の意思や情熱が感じられても、やはり作品が良くなければ手にしない方が良いと思ってもいる。

「この人が作ったから素晴らしい」とか「この人なら間違いない」とか、そのような判断は特に”贔屓”の場合は難しいが、例えば「この人ではない人が作ったとしても、その作品は素晴らしい」と感じられるならその作品はやっぱり良いものだ。


簡単に言ってみると、Guerlainの香水はGuerlainではなく、実は聞いたことがないような小さな島の小さな工場で、学校にも行っていないおじさんとおばさんが作っているものだという場合に、香水の評価はどうなるだろうか。

別の例を挙げると、障害を持つ私が作った作品には、”障害を持つ私”が重要な側面と、障害とは別に論じられる作品の良し悪しという2つの面が作品の評価として必ず存在するということである。

いずれにしても作り手が、自ら頭の中で想像したものを”形”として創造するまでのエネルギーは、作り手が真剣で且つ誠実であればあるほど強い光を放っていると私は信じている。
私はそれを感じたいがために、作品が気に入り且つ作り手が店頭に立っている場合は必ず話を聞くことにしている。
そうやって私は心の襞を増やし、次の誰かにエネルギーを渡そうとしている。

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