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【短編小説】マスオ

 月曜日が、来る。
 成人式の記念品でもらってから6年間も働いてくれているデジタル目覚まし時計のライトを、私は叩いて点ける。窓の外に見える街の日曜日の夜よりもずっと暗い部屋に、たったひとつだけ灯る緑色の光。
 あと1時間13分4秒、3、2、1。
 あと1時間12分で、月曜日に曜日が変わる。
 そしたら、会社に行かなければならない。最寄りの駅まで自転車で向かって、満員電車に揉まれて乗り換えを2回して、会社近くの駅に着いたら最寄りのコンビニでお昼ご飯を買って、時間があればトイレで少しだけメイクを直して、オフィスビルの8階へ向かう。事務職員として中途入社して半年、平日の出勤日にほぼ毎回同じことを繰り返している。
 前の会社のパワハラ、モラハラに比べれば、今の会社は天国だ。給料は以前よりも減ったけど、前の会社では月90時間残業していたから当たり前だ。事務職が向いていないことは入社してすぐにわかったけど、同僚の方たちが優しくフォローしてくれるから心穏やかに続けていられる。時々は先輩や上司に飲みにも連れて行ってもらって、お酒は強くないけど、飲酒を強要されることもない。
 何か目標が見出せているわけじゃない。けど、私は今の会社に満足している。
 だから、会社に不満はない。でも明日、月曜日が来たら会社に行かなければならないと思うと、胸が詰まる。寝なきゃいけないのに、目を閉じると今日上司に言われた言葉と、よく見ているはずの申し訳なさげに笑う顔が、鮮明に、それでいて影を落として瞼の裏側に映し出され眠れない。
 嫌な人じゃなくて、寧ろ働くモチベーションになってるくらいに優しい人で、その優しさが上司として当然のマネジメントだとわかっていても男性としての好意を抱いてしまうような良い人で。でも、眠れないのは、そんな高校生の恋愛みたいな昂りなんかじゃなくて、もっと、脳が暗く霧がかって思考の引き出しの取っ手がどこにあるかも見えないような状態でーー会社に不満はない。上司も良い人だ。きっと、私自身の問題なんだと思う。
目覚まし時計のライトが消えた。早く寝ろ、と言わんばかりに。

 二回り上の上司と休日に二人きりで会うのはこれが初めてだった。上司には奥さんも小学生6年生の子供もいるのだから当然だ。
 でも、この日曜日は違った。子供がボーイスカウトのキャンプ演習とかで、土日家を空けるらしい。それに乗じて、奥さんはボーイスカウト繋がりのママ友同士でキャンプ場の近くへ旅行に行くそうだ。上司にとって、久しぶりの何の予定も土日となった。
 それを聞いたのは、上司から今上映しているアニメ『白子のポートボール(通称、白子)』の映画を見に行かないかと誘われてからだ。
 元々、その『白子』は私の趣味だ。上司が『白子』に興味を示してくれたのは、入社して間もない頃だった。会社近くの居酒屋で歓迎会を開いてくれた際、趣味を聞かれて「アニメ鑑賞」と勇気を出して言ったのが正解だった。上司が、本当か嘘か「え、俺もアニメ好きだよ。オススメ教えてよ」と食い付いてくれた。その流れから、初めて自分の推しアニメを男性に話す、更に言えば布教する機会を得られたのだ。嬉しかった。前の会社の誰に伝えても、“オタク”への偏見から聞く耳を持ってもらえなかったアニメの話を、興味津々に聞いてもらえる状況に感動すら覚えた。
 その後上司は、私が出社する度に『白子』の感想を話してくれるようになる。原作漫画だけど、折角何も展開を知らないのだからとアニメを1話から追ってくれた。「この後、どうなるの?」「エースが部活を……」「あ、やっぱりネタバレは聞かない!」などというやり取りも楽しかった。いつの間にか上司は私にとって、心から愛するアニメを通して、素の自分で安心して接することのできる存在になっていた。
 アニメオリジナル脚本での映画化が決定してから、話題の中心はオリジナルストーリーの予想になった。自分の考察を交わす度に、映画の公開が待ち遠しくなるのと同時に、彼と一緒に観に行けたら、と思う気持ちが高まっていった。
 『白子』は暴力描写や性的な描写があるアニメじゃない。政治や経済が絡んでくる社会派アニメでもない。高校生が主人公の王道の青春ポートボールアニメだ。小学生の息子とだって楽しめるはずだし、何より上司も「息子が中学校に上がったらポートボール部に入りたいって言っててさ」と嬉しそうに話していた。ポートボール部はないだろうから近いスポーツのバスケ部に入るといい、と返すと上司は残念そうに「そっかあ」と項垂れていた。
 本当なら、上司は息子と映画を観に行く方が絶対にいいだろうし、上司もそうするはずだと思って、私は二人で映画を観に行くことを諦めたのだ。
 だから、上司から映画の誘いは想定外で、いや想定をして妄想を働かせてはいたんだけども、「日曜に『白子』観に行かない? 映画代出すからさ」との単純な言葉にしどろもどろになってしまった。私はその時点で、数種類の中からランダムで配布される入場者特典の缶バッチ欲しさにもう3回観に行っていたけど、初めて観に行く風を装って誘いに乗った。
 日曜日、つまり今日の朝はいつもよりも化粧に力が入った。濃くなり過ぎて、化粧し直したくらいだ。前日に選んでいた服に今朝になって納得がいかなくなり、姿見の前で何度も着直した。もし上司の携帯の充電がなくなった時のためにポータブル充電器、もし上司が映画で目疲れした時のために目薬、もし上司がペットボトルのキャップを失くしてしまった時のために使い回せるボトルキャップと、ありとあらゆるものを詰め込んでバッグがはち切れんばかりに膨れた。上司が寒いと言った時のためにホッカイロも持った。夏なのに。
 まだまだ待ち合わせまで時間があるのに、予定より1時間前の電車に駆けこんだ。早く待ち合わせ場所に着きたくて。
 これはもうデートと言っていいのではないだろうか。となれば、別れた彼氏として以来だからもう6年振りのデートだ。浮かれていた。20代半ばも越えての感情の昂ぶりに対して、気恥ずかしさは一切なかった。恋人になりたい、なんて思っていない。彼には奥さんがいる。でも、ちょっとだけ、ちょっとだけでいいから、仕事の部下以上に想ってくれたらな、と願った。
 待ち合わせ場所に現れた上司は私服だった。当たり前だ、日曜日なんだから。オシャレとか、ダサいとか、そんな素人の薄っぺらいファッションチェックの感情なんて湧かなかった。彼が着ていれば、どんな服でもオシャレだ。
 映画館の近くでランチをご馳走してくれた。私がお手洗いに立っている内に会計は済んでいた。スマートだと思った。
 映画館で彼は一番大きいサイズのポップコーンを買った。私はお腹がいっぱいだったけれど、一つのバケットを二人で食べたくて、まだ食べられると嘘をついた。ランチ後に迷わずLサイズのポップコーンを選ぶ彼を可愛く思った。
 映画を観ている最中は、彼の表情ばかりが気になって、気付かれないように何度も横顔を覗いた。既に3回観ているから、じゃない。私が勧めた『白子』を、二回り上の彼が童心に帰って楽しむその眼差しを目に焼き付けたかったからだ。
 映画館を出ると、入場特典の缶バッチを私にくれた。それも、私の推しキャラの缶バッチ。「息子とも観に行く約束しているから。先に行ったのがバレると怒られちゃうし」と、笑っていた。離れても家族を想う彼を誠実だと思った。
 彼の行動全てが心に触れた。こんなにも素敵な所が沢山あることを知っているのは世界で私だけなんじゃないか、もしかしたら奥さんよりも知っているんじゃないか、これって私だから気付けたんじゃないか。
 恋をしている時の脳はコカインを吸引した時と同じ位のドーパミンが出ていると、SNSでいつか読んだことがある。勿論コカインを吸ったことなんてないけど、もしそれが本当ならば、この時の私は法に裁かれる程の量のドーパミンを垂れ流す夢見心地のトリッパーだった。そうだ、諸悪の根源は止めどなく沸いて出てきた恋愛感情にある。自分に問題がある、と悲観していたが、原因が恋愛感情の暴走にあるのなら思わせぶりな態度を取った彼にも責任がある。そうなんだよ、彼が全ての物語を仕組んだんだよ。絶対そうだよ、こうなるように、20時なんて健全な時間に私が帰宅できたのも、全部彼の作戦だったんだよ。それに乗った、乗ってやったんだよ、私は。
 そうやってーーそうやって自分に言い聞かせなくちゃ、映画を観終わった夕方、彼とふたりで飲みに行くなんて間違った選択をしてしまった私を、殺したくなっちゃう。
 映画の後の予定は特に決めていなかった。感想を言い合いながら街を散歩して、喫茶店でお茶をして、気が付いたら日は落ちかけていて駅前の繁華街が賑わいを見せていた。
「ちょっと飲んで帰らない? 嫁と子供、帰り遅いっぽいんだよね」
 上司が映画に誘った時に見せた申し訳なさそうな笑顔で言った。
 同僚を交えて飲みに行くことはあっても、2人きりで飲み行くのは初めてだ。高なる心音が言葉に出ないように、意識しながら返答する。
「別に予定もないので大丈夫ですけど。夕ご飯も外で食べて帰るつもりでしたし、中途半端に時間余っても家でやることないですし。居酒屋もちょくちょく開いてきてるっぽいし、まだ早い時間だからハッピーアワーで安くなってる店を多そうだから財布にも優しいし行くのもアリですね」
 全く照れを隠せなかった。早口でまくし立てて、気持ち悪がられてはいないだろうか。大体、これだけ言い訳を並べて、本当に飲みに行きたくないと思われてしまってたらどうしよう。答えた側から不安になってくる。自分の一言一句が上司にどう届いているのかが気が気でならない。
 でも、上司は砕けた笑顔で返してくれた。
「財布の心配しないでよ、ご馳走するからさ。ごめんね、休日の時間取っちゃって」
「いや、別に、全然、気にしてないです。さっきも言いましたけど今家帰っても暇なので」
 照れを隠そうとする度、口調に棘が生えてくる。目も合わせられていないので、益々素っ気なく見られているのではないだろうか。
「よかった。それじゃあ行こうか。良い店知ってるからさ」
 上司の表情に変化はない。ずっと柔和な優しい顔。ポジティブな感情を表出させない為に、ネガティブな振る舞いを過剰にしてしまった自分が惨めに感じるほど、全てを包み込んでくれる顔だ。
 上司の示した『良い店』は、駅前の細い路地を入った暗がりの雑居ビルの地下にあった。中に入ると、外よりも薄暗いオーセンティックなBAR。しかし、BARには珍しく奥には引き戸の開いた個室があった。上司は行きつけらしく、入ってすぐに赤いネクタイを締め髪を七三に分けたマスターに目配せをした。個室に案内してほしいらしい。マスターは「いらっしゃいませ」もそこそこに、上司のサイン通り個室に手で誘導する。
 この時点で、上司の性的な意図を大体予想、いや確信していたが、それが嫌じゃなかった。それどころか、夢心地に感じた。アバズレだと思わないでほしい。だって、私の脳にはその時、コカインを吸引している時と同等のドーパミンが駆けずり回っていたんだもの。
 個室は、背の低いテーブルを二人掛けの黒革のソファーが挟んでいた。琥珀色のライトが怪しげで、それも私の普段の生活からは想像も出来ない光景で高揚した。
 そこで横並びに座れるほど、好戦的にはなれず、向かい合ってソファーに腰かける。
 酒は強い方では決してない。それでも、楽しさ、それよりも緊張を隠すために酒を煽った。上司がウイスキーをロックで頼んだら、同じウイスキーの同じ飲み方で注文した。ウイスキーなんて口にした記憶すら片手で収まる程度しかない。でも、飲んだ。同じ酒を飲むことで好かれる気がしたから。
 酔ってからの記憶は曖昧だ。その中でも覚えている会話がある。映画の感想も出終わった頃、上司は訊いてきた。
「日曜のこの時間って普段は何してるの?」
 先程上司に捲くし立てた言い訳は、嘘ではなく、本当に日曜日の夜帰ってからしていることはなかった。適当なアニメを流して、コンビニで調達した惣菜を食べていることが多い。一応、体に気を遣って、弁当ではなく惣菜だけにしている。コンビニという時点で本末転倒な気がするけど。
 日曜日のこの時間帯に流しているアニメと言えばーー。
「サザエさん観てます、かね」。夕飯をコンビニで済ましていることは言わなかった。
「サザエさん好きなの?」
「いや、そんなことはないんですけど。何というか、ホッとするっていうか」
「確かにね、俺が子供の頃からやってるからなあ。日曜の風物詩だね」
 私のおぼつかない呂律での返答にも共感してくれる上司にまたトキめいた。
「サザエさん好きなんですか?」
 しょうもない質問。上司との会話を何としてでも続けたかったのだ。
 思いの外、上司は快く応えてくれた。でも、『白子』の映画を観ていた時のような少年のような輝きはそこにはなくて、影を落としたような表情だった、気がする。
「最近好きになったんだよね。夫婦だけだと観なかったけど、子供と一緒だとどうしても観る機会増えるじゃない? それでさ、興味持っちゃって。色々調べたら面白いんだよ」
 上司は声を潜めて、私に顔を近付けて囁いた。向かい合っているのに、耳打ちしているような声だった。
「サザエさんとマスオさんの馴れ初めって知ってる?」
 何かアニメ業界の闇でも伝えるのか、そんな語調だった。私も合わせて声量を落した。
「知らないです」
「スピード婚だったんだよ。それも、出会った初日で結婚を決めたの」
「そうなんですか!?」
 特別、興味があったわけじゃない。ただ、大きなリアクションをとった方が上司が喜ぶと思って。
「そうそう。確かね、デパートのフードコートみたいなところで、お見合いしたんだよ。お見合いだからさ、サザエさんは内密に行いたかったなんだけど、おっちょこちょいのせいで、他のお客さんにお見合いってことがバレるんだよね。そもそもフードコートでするなよって話なんだけどさ」
「絶対ダメですよね」。私は話を合わせる。
「それでさ、周りの注目が集まっちゃうわけ。皆が見守る、っていうか野次馬する中で、決まりが悪くなって結婚を決めるんだよ。会話もひとつもしないで」
「会話ひとつもしないで、ですか」。オウム返しは共感を表す手段の一つだと聞いていた。
「そうなんだよ。すごい話だよね」
 上司が溜め息をついたのがわかった。とても小さな溜め息だった。多分、上司は生理的に溜め息をついたんだと思う。そう感じたから、上司が続けた言葉に妙な考えを巡らせてしまったんだ。
「ホントですよね、出会ってその場で即決ってすごい」
「ううん、そこじゃないんだ。その浅い出会い方でさ、タラちゃんを3歳まで育てて、サザエさんの両親と一つ屋根の下で暮らせているマスオさんがすごいなって。時々は不平不満をこぼしても、結局は30分アニメ3本の内の1話で整理がつく。やっぱりさ、アニメだなって思うよ。現実はそう甘くはさ、ね」
 上司は俯いて、語尾の一文字だけで私に同意を求めながらウイスキーを舐めた。
 きっと、これはきっと会話の弾みなんかじゃなくて、私に奥さんとの関係が上手くいっていないことを示しているんだ。私は酔った勢いもあって、その感情を言葉に込めた。
「アニメってエンタメですから、基本は夢を見せる産業だと思うんです。だから、多分、それを夢じゃなくて、現実の環境と照らし合わせるようになるようになるのは、限界が近い証拠なんじゃないでしょうか。無理して欲しくないです」
 思い返せば、こんな痛烈な言葉でも私は上司を励ましたかったんだ。恋愛経験どころか、人生経験さえ上司の二回りも少ない私が説くのなんておこがましい話だけど、私はそう思ったんだ。ちょっとだけ、上司が自分の環境を客観視できるきっかけになればいいなって。本当はそんなところまで考えてなかったけど、きっと当時の私はそんな気持ちで言ったんだと思う。思いたい。
 つまり、私が言いたかったのは、その時だけは下心なんてなかった、ってこと。ホントだよ。
「限界、ね。うん。限界かもしれないな。限界かもしれない」
 上司の声は語尾に近付いて、萎んだ。
 心の内を噛み締めるような沈黙の間、私は、上司の沈んだ目を見つめた。酒の勢いさえあれば、合わせることが出来なかった目を合わせることが出来た。それに、この言葉だけは届いて欲しかった。
 私はもう、いつの間にか、上司の苦痛を他人事として流せるような心持ちにはなれなくなっていた。それも、酒の勢いだったのかもしれない。真面目な話と馬鹿話の境目は酔うほどに曖昧になっていく。善悪が逆転するような話題の移り変わりがあっても、すぐにそれを受け入れられるくらいに。
「限界だったら、受け止めてくれる?」
 上司はそう呟いて、ソファーから立って私の隣に腰かけた。上司の重さで沈んだ勢いで、私の体は上司に傾く。怖さはなかった。このまま身を委ねてもいいと思えた。ちょっと前の私なりの真面目な励ましの気持ちは瞬時に飛び去っていった。上司と肩を寄せ合っている、そのシチュエーションが今までの見栄も、カッコつけも、真面目に見せようとしたハリボテの心も全部。上司の体温が灼熱にも感じた。
 何度も言うけど、私はコカインを吸っているのと同じ状態なんだ。だから、感情が転々としても仕方がない。
「はい」。蚊の鳴くような声しか出なかった。
「何? もう一回言って」。絶対に聞こえているはずなのに、上司は訊き直した。
「あの、受け止めます、私なんかでよければ」。再び、目は合わせられなくなっていた。でも、上司の視線は間近で感じた。
 上司は更に、顔を近付ける。柔軟剤の香りがする。奥さんの匂い、もっと言えば家庭の匂い。それが私にとって、これから訪れるであろう事を拒否する理由には、全くならなかった。私は、高揚していたんだ。
 多分、高揚しやすい私は、舐められていた。
 上司は、映画に誘った時と同じ笑顔で囁いた。私の顔の覗き込んで、目を合わせて。

「今夜のことは会社には内緒にしよ。俺らふたりとも働きづらくなっちゃうでしょ。ふたりきりの思い出ね」

 あと、5分36秒で日付が変わる。
 何度も目覚まし時計で時間を確認してしまう。何回見たって、時が止まるわけでもないのに。帰宅してから、スマホで時間を確認することはなかった。上司からの着信が鳴り止まなくて、電源を落したからだ。
 上司が顔を覗き込んでまで届けたかった言葉、というか台詞を聞いた途端に、それまで脳内に満ち満ちていたドーパミンが一気に蒸発して霧散し消えるのがわかった。その冷えた蒸気が、私を店の出口まで走らせた。私は、逃げた。そのまま、電車の中に飛び込んで、浮かれていた自分が嫌で泣いて、帰宅した頃には涙は乾いていた。
 私はあの直前まで、上司に誘われるがままに身を委ねようと、身を委ねてもいいと思っていたはずだ。上司の奥さんにも子供にも会ったことはないけど、架空の顔を想像するくらいには頭の中にしっかり存在していた。それでも、私は上司と関係を持つことに肯定的だった、はずなのだ。
 上司の言った通り、端から今夜のことを同僚に話すつもりなんて毛頭なかったし、勿論奥さんにも伝わらないように配慮をするつもりだった。だから、上司の言葉に間違いはなかった。でも、その言葉を私の心全部が拒絶した。数時間前の上司への熱は消え失せていた。
 理由はわからない。わからなくて、モヤついて、結局こんな時間。
 寝なくちゃ、いい加減。明日も変わらず会社に行かなくてはならない。思考を整理しようと、理由を探ろうとなんて、この夜にしなくてもいいじゃないか。きっと一番整理し難い時間だ。でも、こんな頭が黒ずんだ状態で明日、どんな顔で上司と話せばいいんだろう……抜け出せないループを払拭したくて、無意味に強く寝返りを打つ。
 カラン。軽いアルミが当たり合う音が鳴った。
 枕元に投げ出した、今日映画館でもらった入場特典の缶バッチだった。ひとつは私がゲットしたもの、もうひとつは上司がくれた推しキャラのもの。今は缶バッチに描かれた推しキャラの屈託のない笑顔を見ても、何も感じない。
 『白子』への熱が冷めたわけではない。きっと、缶バッチから上司の顔がチラつくからでーー。
 ああ。そういうことか。『ズル』か。
 頭の中のモヤが晴れる、なんて喜ばしい表現は相応しくないけど、消え去っていく。
 缶バッチを私にくれたのは、私の推しキャラがプリントされていたからではなくて、子供に先に映画を観てきたことがバレないようにでもなくて、単純に奥さんに誰かと会ったことを悟られないためだ。そんなこと、薄々わかっていたけれど、そこじゃなくて、その行為を『ズル』だと認識した途端に上司への恋愛感情どころか、良い人という評価すら消し飛んだんだ。
 私が逃げ出す直前、上司が私にどうしても届けたかった言葉こそ、『ズル』なのだ。
「今夜のことは会社には内緒にしよ。俺らふたりとも働きづらくなっちゃうでしょ。ふたりきりの思い出ね」。ここに内包されている言葉を頭の中で並べてみる。
「共犯だからね」「バレたら会社にいられなくなるからね」「体の関係だけでよろしくね」「これから一緒に世間的なルール違反をするわけだから足引っ張んないでね」。
 これらの、自己中心的で、横柄で、高圧的で、下品で、雑念まみれの言葉の意味がズルいんじゃない。
 それを私に明言し、押し付けたことがズルいのだ。
 どんどん腹が立ってきた。何度も言うけど、私は上司に奥さんも子供もいることは知っていたし、その上で関係を持つことに抵抗はなかった。問題は世間的な倫理観ではなくて、上司が「お前はこれから俺のセフレな」と、念を押して、私に伝えたことにある。
 上司にとっては自分の社会的地位を崩されないための保険だったんだろう。二回り下の小娘だからと侮っていたんだろう。舐めやがって。
 さっきまで脳内を蹂躙していた黒い霧が憤怒で全部真っ赤に染まっていく。
 大体何だ、路地裏の雑居ビルの地下の個室付きのBARが行きつけって。明らかに狩場だろ。私は何人目だったんだ。思い返せば、映画を観てる時のキラキラした眼差しって、あれ、眠くてあくびして涙目になってただけじゃないか。服だって今考えるとおかしかった。厚手のカーキ色の皺だらけのジャケットを羽織ってたけど、今真夏だぞ。しかも、「こういうデザインだから」とか、皺のこと自分から言い訳してきたけど、いや厚手のジャケットでワッシャー加工って聞いたことないわ。髪の毛もハゲ隠すように整えてたけど、ペンキ塗ったみたいにてっかてかだった。あれなんだ? ポマードか? |松脂《まつやに》じゃないのか? 心なしか上司の髪の毛がバイオリンの弦だったように思えてきて笑えた。
 端から舐められていたのだ。多分、出会った当初から。
 今のところ、バレたら会社にいられなくなるのはふたり、ではなく、上司だけだ。だって、上司と関係を持ちたいなんて私は一言も口に出していないのだから。しかも、最終的に逃げてるし。理由は「恋愛関係になるつもりなんてなかった。怖かった」、これで決定。
 俄然、明日が楽しみになってきた。私の人生の励みである『白子』を雑な下心で汚してくれたその報復というものを見せてやろう。部長に相談するのもありだけど、まずは女性に話した方が共感を得やすいだろうな……多分、噂好きのあの先輩に話したら2、3日で広まるだろうから……。話す前に、今LINEで先輩に深刻そうな文でも入れておくか。深夜帯のSOSほど不安をかき立てるものだから。
 昼間とは真逆の理由で胸を高鳴らせ、スマホの電源を入れた。待ち受け画面の時間が目に入る。
 0時3分。

 月曜日が、来た。


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【罪状】医師法違反

上司の植毛手術の際、執刀医が頭にバイオリンの弦を無断で移植したため。

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