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障害児教育と生涯学習のゆくえ

 だいぶ前のことです。親戚に伴われてプサンの大きな食堂で昼食を食べる機会がありました。お昼なので簡単に済ませたいと入った食堂です。そこはビジネス街の中心にありました。観光地からは少し離れていて、あたりの地理に詳しい人しか利用しない食堂です。食卓はファミリーや個人ごとに区切られていたわけではなく、長机ばかりが整然と並んでいるのです。そこにビジネス・スーツの男性たちが座り、皆、同じものを注文し、黙もくと食べ、食べ終えるとさっさと会計を済まして出ていきます。おしゃべりをしているようすはありません。オフィスに残してきた仕事の続きをしに戻ったのでしょう。

 わたしは予想していなかった光景に唖然としました。しかし、唖然としたのもつかの間、スプーンですくって一口食べてみて目を見開きました。白飯にスープをかけ回しただけの簡単な食事なのに想像しなかった美味しさです。そして二口、三口、夢中で頬張りました。いや、おいしい。実においしい。

 これと似た光景は日本の大学食堂にも見られます。いくつかの会社の社員食堂でも似たような光景が見られるのでしょう。さらに言えば、ジャンク・フードのチェーン店もこれに似た食事を提供するのかもしれません。パリでですが、上等なビジネス・スーツを着た紳士が、一度に三つもハンバーガーを注文して食べているのを見たことがあります。要は短時間で効率よくカロリーが摂取できることに特化した食事です――プサンで食べたスープかけご飯は牛骨でとったスープが本当においしかったのですが、「短時間で効率よくカロリーが摂取できることに特化した食事」といえば、これこそまさに、そのものでした。

 プサンのビジネスマンは忙しい。だからスープかけご飯を食べる。さっさと食べて仕事に戻る。そうしなければ「競争」に負ける。組織の中に「競争」があります。同業他社との「競争」もあります。国内の「競争」だけではありません。国際的な「競争」もあるのです。特に○○には負けたくありません。でも、何に対する「競争」なのでしょう。カメルーンやコンゴ共和国の狩猟採集民なら、どんなに忙しがっていても、やれることは五十歩百歩なのにと思ったかもしれません。それとも五十歩百歩だと思ったのは、サン=テグジュペリの描いた『星の王子さま』の方だったでしょうか。

 これはわたしが麻痺になる前の経験です。麻痺になってからでは、大勢が効率よく座る食堂では席を確保することが難しかったような気がします。わたしは「効率よくやる」「さっさとやる」ことが大の苦手です。電車に乗っても、夕方で皆が仕事が終わって疲れている時間帯は、たとえ優先席であったとしても疲れ切った誰かがさっさと座ってしまいます。そしてわたしが「すいません」「通して下さい」と失語を押して優先席にたどり着くまでには、座った誰かは眠ってしまったか、眠ったふりをしてしまいます。皆さん、疲れているのです。そうせざるをえないことは分かります。しかし、わたしにとってそれを見せられるのは辛いのです。ましてや障害者どおしで残った席の奪い合いになればもっと辛いのです。

 このようなことを避けるために、わたしは混み合う時間帯にはできるだけ乗らないようにしています。あるいは少しでも空いた鈍行に乗ります――それで時間的にはだいぶ損をしているようですが、何、違いは「五十歩百歩」です。

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 2023年9月30日付け no+e の「誰にとっても『意思疎通支援』はすばらしいことなのか?」に「国連の障害者権利委員会が日本の『障害児の分離政策』に懸念を示し、障害児や障害者のインクルーシブ教育やインクルーシブ社会の実現を強く求めたこと」を書きました。それから間を置かず、2023年10月10日付けの毎日新聞夕刊に野澤和宏さんの「令和の幸福論 障害児教育を考える」という長文の論説が載りました。毎日新聞を取っていない人のためには、同じく野澤和宏さんが執筆した同じ趣旨の文章が no+e にありました(特別支援教育はどうなる?(1)特別支援教育はどうなる?(2)特別支援教育はどうなる?(3)特別支援教育はどうなる?(4))。野澤和宏さんはジャーナリストで、大学の教員でもあります。野澤さんの文章を読んで、わたしは自分の書きたかったことを確認してみました。

 ひとつは日本の障害児教育がインクルーシブ教育を実現していると日本政府は認識しているということです。ただし国連の障害者権利委員会の委員は、さしあたっては「障害児の分離教育」もしかたないが、近い将来にはインクルーシブ教育を実現できなければ、インクルーシブ教育とは名ばかりの「障害児の分離教育」が続いてしまうと心配しています。それにしても日本政府は、どんな理由で日本の教育制度がインクルーシブ教育を実現していると考え、一方で国連の障害者権利委員会の委員や一部の日本国民はインクルーシブ教育を実現していないと考えているのでしょうか?

 教育は未来のより良い社会を創っていくためにあります。その意味では、インクルーシブ教育はインクルーシブ社会を実現するための礎(いしずえ)です。文部科学省の方針は文部科学省だけで独立しているわけではありません。厚生労働省の働き方に関する方針や内閣府の地方創生に関する方針、国土交通省の都市再生に関する方針など、問題は二重三重に積み重なっているのです。障害者は「自分の障害に気が付いていない人」、つまり非障害者と、どうやって「共生」、あるいは「共存」を図っていくのかに、変に聞こえるのかもしれませんが「障害者側のプラン」がないといけません。なぜなら、多勢に無勢で圧倒的に不利な立場にある障害者が、圧倒的に有利な立場にある非障害者の思いに呑み込まれてしまうからです。

 ということで、ここでは「令和4年 障害者雇用状況の集計結果」を見てみました。厚生労働省が出しているこの統計は、民間企業から国や市町村、独立行政法人などの障害者雇用の状況を手っ取り早く知るために便利な集計です。

 見てみると日本の障害者雇用は確実に伸びているようです。民間企業、国や都道府県などの公共機関、独立行政法人など共に伸びています。障害者の就職率が伸びているのだから、これでインクルーシブ社会に近づいている。でも本当にそう言ってしまっていいのでしょうか?

 障害者の中には、難病の結果、障害者になった人がいます。そんな人は大きな病院でも元の状態には戻せません。また精神障害者のなかには、いったんは寛解(かんかい:病気が落ち着いていること)しても、また再発して、なかなか病院と縁が切れない人がいます。そんな人は障害者雇用の集計では就職できたとは分類できないでしょう。

 そうした人がいるにしてもです。日本の労働者人口全体の失業率は3%弱ですから、90%以上の人は何らかの形で就職ができているわけです。それに対して障害者の就職率は、身体障害者が8.21%、就職率の高い知的障害者で14.3%、精神障害者にいたっては2.62%にすぎません。非障害者と障害者ではいろいろ集計の仕方が異なるでしょうから直接は比べられませんが、それにしても障害者の就職率は非障害者に比べて低すぎます。本当の「インクルーシブ社会」とは、その人に応じたやり方で、その人なりに活動する場が確保できることだと考えています。でも、そうだとすると、この非障害者と障害者の就職率の差はもっと縮まるはずです。そうは思いませんか?

 特定子会社という障害者が働ける形態があります。特定子会社とは、親会社のビルを掃除したり、社員に代わってコピーを取っておいたり、届いた郵便物を仕分けする子会社のことです。法律では企業の規模によって最低何名までは障害者を雇わないといけないと決まっているのですが、特定子会社で雇った障害者の数は親会社の障害者雇用数に組み込まれます。ですから親会社は、実質的に障害者のことを気に掛けることなく仕事に励めるというわけです。この特定子会社の存在とは、わたしが思うに「障害者の分離社会」を生み出している象徴的な制度です。この制度のおかげで民間企業は大手を振って「競争」に励むことができるのです。

 何のことだか!

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 やっぱりわたしは、国連の障害者権利委員会の委員の皆さんの「さしあたっては『障害児の分離教育』もしかたないが、近い将来にはインクルーシブ教育を実現できなければ、インクルーシブ教育とは名ばかりの『障害児の分離教育』が続いてしまう」という意見に賛成です。日本政府の「インクルーシブ教育を実現している」という見解は詭弁だと思います。なぜと言って、特殊教育を受けた障害児は、大部分、地域の障害者コミュニティに組み込まれるからです。世間では人手が足りない、働き手が足りないと言われながら、障害者が障害者であると明かしたとたん、たとえアルバイトであっても断られるという事例が、少なくとも、わたしのまわりでは頻繁に起こっているからです。

 規模に関わらず、企業は労働者をえり好みしています。小さな規模の企業でも外国籍の人は雇うようになりましたが、障害者はほとんど雇いません。大きな規模の企業は外国籍の人でも雇いますが、雇われるのは基本的に企業に役立つ人だけです。また障害者は雇いますが、そこには社会のメイン・ストリームを歩く非障害者の「目に触れない組織」、つまり特定子会社が存在しています。

 『ナチスのキッチン』を書いた歴史学者の藤原辰史さんがお話をして、その内容をまとめた本に『これからの日本で生きる経験』(編集グループSURE)があります。そのなかに、「抽象的に言うと、近代家族というものに、資本主義的な経済の再生産といいますか、つまり外で働いて帰ってきたお父さんを癒やしてあげて、体力を回復させて、もう一回労働市場に頑張って行ってこいって送り出す。あるいは、子どもを産んで、未来の稼ぎ手を育てていく。そういう役割を家族がしっかりと果たせるように、労働力の再生産ができる程度の賃金で家族を賄う土台を作った上で経済を回していく」という言葉がありました。この言葉は「これが成り立たなくなってきた」と続くのですが、現代は古典的な家族の機能が崩壊して、例えばかつては考えられなかった「孤食」と言われる現象が起こっていると藤原さんは指摘します。

 また美術家の横尾忠則さんが書かれた『病気のご利益』(ポプラ新書)という本のなかには、「無理やりにでも倒れないと時間が取れないというのが現代人だと思う」(33ページ)という言葉がありました。

 「競争」のために、せっかくおいしく仕上げられたスープかけご飯を「短時間で効率よくカロリーが摂取できることに特化した食事」として消費するさまには悲しさを感じます。ましてや働くことで疲れはて、元来、立っていられない人のために用意してあった席まで占拠しなければならないような社会は歪(いびつ)です。

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