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特別支援教育はどうなる? (2)      

国連障害者権利委員会と日本の特別支援学校 


 かみ合わない議論

 「分離された特別な教育をやめるために、障害のある子のインクルーシブ教育を受ける権利を認め、質の高いインクルーシブ教育に関する国の行動計画を策定し、すべての障害のある生徒があらゆるレベルの教育において、合理的配慮や必要な個別支援を受けられるようにすること」
 国連障害者権利委員会の日本政府に対する総括所見(勧告)のうち障害児教育に関する核心部分です。
 これに対して永岡桂子文部科学相は「多様な学びの場で行われている特別支援教育の中止は考えていない」「勧告の趣旨を踏まえて引き続きインクルーシブ教育システムの推進に努めたい」と述べました。
 「特別支援教育の中止は考えてない」というところが強調され、マスコミや障害者団体から批判されているのですが、一方で「インクルーシブ教育」をめぐるコメントは権利委員会の主張とかみ合っていません。
 権利委員会は日本の学校教育は障害のある子にインクルーシブ教育が行われていないという認識に立って、「インクルーシブ教育を受ける権利を認め、質の高いインクルーシブ教育に関する国の行動計画の策定」を求めています。これに対して永岡文科相は、日本がすでにインクルーシブ教育を行っていることを前提に「引き続きインクルーシブ教育システムの推進に努めたい」と述べているのです。
 たしかに、文科省は何年も前から「インクルーシブ教育」の推進を打ち出しています。ということは、国連の主張するインクルーシブ教育と日本の文科省が行っているインクルーシブ教育は違うものなのでしょうか。

 文部科学省が考える「インクルーシブ教育」

 国連権利擁護委員会が考える「インクルーシブ教育」とは、2006年に国連総会で採択された障害者権利条約24条に規定された「障害者を包容するあらゆる段階の教育制度及び生涯学習を確保する」を指します。

States Parties recognize the right of persons with disabilities to education. With a view to realizing this right without discrimination and on the basis of equal opportunity,
States Parties shall ensure an inclusive education system at all levels and lifelong learning.

 24条はこう続きます。
 「障害者が他の者との平等を基礎として、自己の生活する地域社会において、障害者を包容し、質が高く、かつ、無償の初等教育を享受することができること及び中等教育を享受することができること。個人に必要とされる合理的配慮が提供されること」
 「障害者がその効果的な教育を容易にするために必要な支援を一般的な教育制度の下で受けること」
 「学問的及び社会的な発達を最大にする環境において、完全な包容という目標に合致する効果的で個別化された支援措置がとられること」
                          (文部科学省訳)

 一方、文科省の推進している「インクルーシブ教育」とはどのようなものでしょうか。
 「共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進(報告)」(2012年)には次のような説明があります。
 「インクルーシブ教育システムにおいては、同じ場で共に学ぶことを追求するとともに、個別の教育的ニーズのある幼児児童生徒に対して、自立と社会参加を見据えて、その時点で教育的ニーズに最も的確に応える指導を提供できる、多様で柔軟な仕組みを整備することが重要である。小・中学校における通常の学級、通級による指導、特別支援学級、特別支援学校といった、連続性のある『多様な学びの場』を用意しておくことが必要である」
 「基本的な方向性としては、障害のある子どもと障害のない子どもが、できるだけ同じ場で共に学ぶことを目指すべきである。その場合には、それぞれの子どもが、授業内容が分かり学習活動に参加している実感・達成感を持ちながら、充実した時間を過ごしつつ、生きる力を身に付けていけるかどうか、これが最も本質的な視点であり、そのための環境整備が必要である」

 国連権利委員会が掲げるインクルーシブ教育の方向性を基本としつつ、障害のある子とない子が一緒にいるだけではなく、授業内容がわかり、学習活動に参加している実感・達成感を持ち、充実した時間を過ごし、生きる力を身に付けていなければならない。
 そのために、通常の学級、通級による指導、特別支援学級、特別支援学校といった連続性のある「多様な学びの場」が必要と訴えているのです。

 「ダンピング」という問題 

 インクルーシブ教育が登場する以前、障害のある子を普通学級で受け入れる「統合教育」を求める運動が日本各地で見られました。障害があると地元の学校ではなく、一般の児童・生徒から分離されて遠くの特別支援学校に通わなければならないことに異議を唱える保護者と児童・生徒、支援者らによる運動です。
 障害のある子が通常学級にいることで障害のない子どもたちとの心温まる交流が生まれ、思いやりや生きる力を育むことにつながる、という話に感動したことのある人は多いのではないでしょうか。幼いころから障害のある子が地域に当たり前のようにいることが差別的な状況をなくし、地域共生の土壌を作っていくのは事実であり、とても大切なことだと思います。
 その一方で、障害のある子とない子が一緒にいることばかりが重視され、障害のある子が通常の学級で何の配慮も工夫もされていない状態で放置されていることを問題視する声も聞かれました。「ダンピング(投げ捨て)」と呼ばれ、障害のある子はクラスの一員というより、「お客様」のようになっているというのです。
 学校や先生が一生懸命に配慮しているつもりでも、見えないところで障害のある子がストレスを感じ、傷ついている場合もあります。
 どんなに重い障害の子もすべて受け入れているという地方の中学校に私は訪れたことがあります。医療器具を付けたまま車いすに乗った生徒も通常学級にいました。すべての障害児にはマンツーマンで介助者がずっと付いており、それでも通常学級にいて疲れた時のために特別支援学級もあり、生徒がいつでも自分で選べるようにしていると言われました。生徒も先生もごく自然に障害のある子のサポートをしており、ソフト面の配慮もよくなされていることがうかがわれました。
 ただ、体育館でいくつかのクラスが集まって合唱コンクールの練習をしている場面を見た時は少し違和感をおぼえました。順番が来てステージに上がるまで、クラスごとに集まって長時間座って待っています。車いすの生徒はともかく、ざわざわした雰囲気や見通しの立たないことが苦手という発達障害の生徒は辛いのではないかと思ったのです。
 先生に尋ねると、自閉症の生徒がいることを教えられました。指さされた先を見ると、みんなから離れたところにポツンと生徒が座り、その隣には介助者が寄り添うようにぴたっと付いていました。一生懸命に配慮しているのはわかりましたが、何か心に引っかかるものを感じました。本人がどのように思っているのかわかりませんが、何となく形式的に集団活動のピースとしてはめ込まれているような感じがしたのです。
 そのシーンを思い出すたび、文科省のいう「学習活動に参加している実感・達成感を持ち、充実した時間を過ごし、生きる力を身に付けている」ことになっているのだろうかと考え込んでしまうのです。

「障害者支援を学ぶことは、すべての支援の本質を学ぶことです」
かつてはJR東京駅にも掲示されていた植草学園大のキャッチフレーズ。

 発達障害はわかりにくい

 その地域では普通学級に通っている障害児がストレスを高じて不登校になり、放課後等デイサービスにやってくるという話を福祉事業に携わっている人から聞いたのは、私がその中学校を訪れて1か月ほどたってからのことでした。ストレスから自傷他害やパニックなどの行動障害を起こすようになった子もいるそうです。
 先生も生徒たちも一生懸命だということはよくわかりました。おそらく障害児のご家族も熱心に支えていたのだろうと思います。障害のある本人もがんばっていたことでしょう。
 それでも、発達障害や知的障害の子どもは平気なように見えても心が混乱している場合があります。自分自身も不安や混乱の原因がわかっていない場合が多く、その場で嫌だということを表すことができなかったりします。時間がたって違う場所でパニックや自傷他害などの行動障害を起こすことがあるので、周囲も何が理由なのかよくわからない場合が多いのです。
 そうした観点から考えると、障害特性に配慮された環境、障害特性に合った支援が提供できる特別支援学校や特別支援学級の役割は重要だと思えてきます。
 いや、発達障害や知的障害はよくわからないということを踏まえた上で、一般の子どもたちと同じ場(通常学級)で障害特性を見極め、できるだけきめ細かい合理的配慮を追求すべきだという意見もあります。
 それにチャレンジするのであれば、障害特性について専門知識や経験のある先生の存在は不可欠です。質も量も飛躍的に充実させなければなりません。国連障害者権利委員会が勧告するように「必要な予算の確保を含めた国の行動計画」が必要なのです。
 牧歌的な時代とは異なり、今は障害のない子どもたちもストレスにさらされています。いじめ、不登校、自殺などは統計上かつてない深刻さを見せています。そうした現状に障害のある子がダンピング(投げ捨て)されたらどうなるのか、ということを考えてしまいます。
 障害のない一般の子どもたちのためにも、子どもの福祉や教育環境の抜本的な底上げが必要なのです。

                              つづく

野澤和弘 植草学園大学副学長(教授) 静岡県熱海市出身。早稲田大学法学部卒、1983年毎日新聞社入社。いじめ、ひきこもり、児童虐待、障害者虐待など担当。論説委員として社会保障担当。2020年から現職。一般社団法人スローコミュニケーション代表、社会保障審議会障害者部会委員、東京大学「障害者のリアルに迫る」ゼミ主任講師。著書に「スローコミュニケーション~わかりやすい文章・わかちあう文化」(スローコミュニケーション)、「条例のある街」(ぶどう社)、「障害者のリアル×東大生のリアル」(〃)など。https://www.uekusa.ac.jp/university/dev_ed/dev_ed_spe/page-61105


植草学園大学・短大 特別支援教育研究センター
障害者支援を学ぶことは、すべての支援の本質を学ぶことです。千葉市若葉区小倉町にキャンパスをもつ植草学園大学・植草学園短期大学は、一人ひとりの人間性を大切にした教育を通じて、自立心と思いやりの心を育むことにより,誰をも優しく包み込む共生社会を実現する拠点となることを学園のビジョンとしています。特別支援教育研究センターは、そのビジョンを推進するため、平成26年度に創設され、「発達障害に関する教職員育成プログラム開発事業」(文部科学省)の指定を受けるなど、様々な事業を重ねてきています。現在も公開講座を含む研修会やニュースレターの発行なども行っています。                                                                                                                tokushiken@uekusa.ac.jp

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