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発達障害者の楽園②

発達障害者と共生する方法をずっと考えています。そして最近、ようやくその答えに近いイメージができあがってきました。定型と発達が共存するにはどうすればいいのか。

発達障害者の楽園①の続きです

定型と発達との間にある根本的な問題点

ぜひ前回の記事をご覧になってから読み進めていただければと思います。

前回は定型と発達が共存する上での問題点について考察しました。今回はさらに踏み込みこれらの根本的な問題点と、両者共存に必要な条件について私の見解をお話しします。

さて、前回私は定型と発達の共存において「周囲の感情」と「発達の共感力欠如」の二つの問題点をあげました。組織内でのこうした問題は、おおむね柔軟な人事&体系整備と教育で解決できると思います。しかし現実として、これらはまだ深刻な社会問題として根を張っている。解決とはほど遠い印象です。

なぜなのか?

その根本的な原因は、発達の特性や組織のあり方などではなく、そもそも「過剰な責任を要求する社会そのもの」だと私は考えています。

先の記事でベトナムを引き合いにしましたが、結局はそういうこと。社会そのものが寛容であれば、定型も発達もここまで悩まずに共存できるといういい例です。これは個人の権利や主張が尊重されやすい欧米にも通じます。言い換えれば日本はそれだけ個が尊重されない社会ということ。調和を重んじる和の文化に異端者は異物でしかないのかもしれません。

では発達は「こういう社会に生まれてしまったのだから仕方ない……」と、たった一度の人生のあきらめるしかないのでしょうか?

定型と発達の共存には何が必要か

定型と発達の共存に、過剰な責任を問われる社会が妨げになっている。これは私自身の経験や身近で悩むカサンドラの言葉、あるいはさまざまなカサンドラの方々の事例を見る限りほぼ間違いないと確信しています。この問題で私がたびたび口にする「責任」というキーワード。この「責任」こそ、両者共存を難しくさせる原因そのものです。

事実、責任を共有しない関係であれば、ほとんど問題なく発達と付き合うことができます。つまり家庭や会社など、社会活動を行う組織に属して社会的責任をシェアする関係でなければ、健全に関係を構築できる可能性があるということ。夫婦やビジネスパートナーのように親密な付き合いはできないにしても、友人関係であれば問題ありません。現に私の親友の一人はASD気質です。

しかし夫婦や会社の上司・部下など、社会的責任を共有する関係になると途端に歯車が狂う。

その場合の定型と発達の相関はこうです。

①【発達】社会責任をまっとうできない
②【定型】発達の責任を代行する
③【発達】悪びれない、感謝しない、改善しない
④【定型】不満が募る、以下繰り返し──

定型は「責任をまっとうしない発達が悪い」というでしょう。発達は「そう言われてもできないものはできない」といいます。となるとこの問題の根本的な問題はどこにあるか?どちらが正しい間違っているではありません。事実、発達が努力しようとできないものはできないのです。それは定型に「水中でエラ呼吸をしろ」と言っているようなもの。

「社会(環境)に問題がある」とするのが合理的着眼ではないでしょうか。

やはり「責任」が問題なのです。

この問題を解決するには、社会構造や通念の改革が必要です。

現実的な解決方法

責任が問題となると、極論をいえば「責任が求められない社会を築く」のが理想ということになります。

「定型と発達が共存するには社会を変えるしかない」と言うと壮大な話に聞こえるかもしれません。議員を目指して支持者を集めてキャリアを積み政治で社会を変える?とてもやってられませんよね。

でも先ほどもお話ししたように、この社会というのは小さな社会の複合体です。社会は家庭、学校、会社、地域といった具合に、小さな社会がたくさん集まって成り立っています。つまり「家庭」も「会社」も一つの社会なのです。その小さな社会なら、自分の力で変えることができるのではないでしょうか。

たとえば家庭の場合「夫婦は必ずしも同じ屋根の下で暮らしをともにしなければならない」という固定観念を捨て、別居生活を楽しむのも一つの手段だと思います。

「恋人時代はあんなに好きだったのに、同居すると化けの皮が剥がれてついには顔も見たくなくなった」というのなら、恋人時代のように別居すればいいじゃない──という単純な話。

「子どももいるのにそう簡単に別居なんてできるわけないでしょ」というなら「どうして?明日はパパの家にお泊り、明後日はママの家にお泊りして、週末はみんなでハイキングに行こうね」みたいに、それなりの楽しみ方が見出せるはず。要は捉え方です。

「別居=悪いこと」あるいは「離婚=悪いこと」というふうにネガティブな先入観があるなら、その先入観の方が問題かもしれません。

「子どものために離婚は避ける」とは言っても、夫婦がいがみ合ったりお互いを無視したりするような環境で子どもを育てるのが、果たして片親でも親が笑顔ではつらつと生きている姿を見せて育てるよりも健全でしょうか?もしそう考えているのなら、まずはその考え方から修正する必要があります。

思い込みなんてたいてい何の役にも立ちません。世間の常識や当たり前が、必ずしもあなたの人生に適切な答えをもたしてくれるとは限らないからです。常識や当たり前にとらわれず、今自分や周りの人たちが本当に必要としているものに目を向けてください。

別居や離婚は、家庭という小さな社会を変える一つの方法です。もちろんほかにもいろいろなやり方があると思います。思い込みを捨ててあらゆる可能性に目を向けましょう。

会社という社会を作る

現在、私が考えるのがこの「会社という小さな社会を作る」という方法です。

いうなれば会社という名の小さな村です。

実際、会社でなくてもコミュニティ(ネットコミュニティや自助会、あるいは社団・財団組織等)という形でもいいと思います。しかし「組織化して収益を得る」というのが自立した組織を築く上で重要なので、資本的に生産性のないコミュニティではいけません。ビジネス的な視点が必要です。

さて、公益法人や公共法人でない限り、基本的に法人組織は利益を追求するものです。

障害者雇用や就労支援などで雇用者は助成金や補助金といった公的なサポートを受けられますが、これらの多くは十分な補助額といえずしかも期限つきです。制度はうまく利用すればいいと思いますが、そこをあてにするのは組織の自立を前提としている手前、本末転倒というもの。発達障害者を雇用して十分に利益を見込めるビジネスモデルを作る──というのが、もっとも現実的かつ建設的なやり方だと私は考えています。

ではそれは具体的にどういう会社なのか。

実際に実現可能なのか?

この課題においてクリアしなければならないミッションがいくつかあります。

①責任が求められない社会を築けるか?
②チームワーク(集団行動)を苦手とする発達にどう対応するか?
③組織として自立できるか?

これらの課題に対する私の考えについて、次回詳しくお話しします。

続き→発達障害者の楽園③

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