悲劇的で可哀そうなボクちゃん
発達障害を持つ弟に傷つけられながらも支え、やがては仕事を捨ててまで彼の自立支援活動を行い、家庭を危険にさらし心を壊しながら献身した結果、感謝されることもなく礼の一つもなく、父には「お前のせいでこうなった」とすら言われ、手帳が発行されても進展があっても何か報告してくるわけでもない。ただやり捨てられた惨めな自分の姿がそこにあるだけ。
これが今の私の姿。
似たような心境のカサンドラはたくさんいるのではないでしょうか。
とても悲劇的で救いようのない発達被害者ですが「悲劇的で可哀そうなボクちゃん」とは思いません。自分に同情することはありますが、他人に同情させるのは不健全だからです。
この心理はおそらく、自律的な行動への欲求にあるのだと思います。
つらい出来事を体験して「自分は可哀そう!誰か慰めて!」と同情を求める気持ちは理解できますが、その先には何が待っているでしょう?人から慰めの言葉をもらい、気持ちよくなって、「やっぱり自分は間違っていない」という歪んだ正義がもし生まれてしまったら。それは過激な人権派へのルートかもしれませんし、発展性のない自己正当化の原因になるかもしれません。
人の心は振り子のように動きます。
一方に大きく振れたら、反対方向にも大きく振れやすいのです。
それを冷静に観察しコントロールできるのは、ほかでもない自分しかいません。
「振り子をコントロール」というのはつまり感情をコントロールするということでもあります。
これは「苦しみに勝つ」ために必要な作業であり、「自分に勝つ」ための手段でもあります。
確かに抱え込み過ぎるのは危険。私も時には妻の前で涙を流したことがあります。人前で泣くことなど決してしてきませんでしたが、いくら強くても心から溢れる感情を「止めてはいけない瞬間」はあるものです。
どういう経緯があれ、私は他人に同情させない振る舞い、決断を選択してきました。
自律的な行動への欲求とは何か?
それは自分の人生を自分でコントロールする力を養うということにほかなりません。
幸せになりたければ、幸せになるための方法を自分で探し自分で実行するほかないのです。そのためには自分で自分の人生をコントロールする力が必要不可欠。
それを養うには、むやみに弱音を吐いたり愚痴を吐いたりしないこと。
陰口を叩いたり不正に関知したりしないこと。
ネガティブに打ち勝ちポジティブに転換する思考を持つこと。
悩むのではなく、考えて試すこと。
検証の分、実行があること。
そして決断すること。
自分自身に同情するなら、自分がその状況を変えてあげなくては。
不幸にとらわれすぎると人はますます不幸になっていきます。当たり前ですよね、不幸しか見えていないのですから。ですからまずは視点を変えてください。
他人に同情されたら、それは底のない泥沼に片足を突っ込んだ状態です。すぐにその場所を離れ、健全な思考を保てる環境に身を置くことをオススメします。
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