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白鯨少女

雨上がりの、澄んだ青空が広がる昼下がり。
鍵の掛からなくなった扉を潜り、屋上へ忍び込んだ。もう数え切れないほどに破ってきた校則だが、今のところ教師には見咎められていない。
案外、見ていないものだ。
コンクリートに寝そべり、目を閉じる。
鳥の声がして、風の音がして、木々が騒めく音がして。それ以外、この屋上には何も無い。
それが、今の私には驚くほど心地よかった。束の間、何かを考える必要がない。
仕事。
大学。
部活。
友人。
教室。
宇宙服のように覆い被さってくるそれら全て、この屋上では脱いでいていい。誰にも見られていないのだから、此方だって何も見る必要はない。
大人はきっと『若いね』と言う。彼等は大人だから。
ぐるぐると巡る思考に、眠気がにじり寄ってくる。暖かく湿気を帯びた風に吹かれて眠るのは、気が抜ける気持ちよさだろう。
眠ってはいけないとわかっているけれど。
目を開けて、青空を見つめる。
今日は雲の流れが早いから、ぼんやり眺めていても変化が読み取れた。あの向こうでは、想像を超えた速さの風が雲を追い立てている。
少し可哀想に思えた。
でも。
アレは犬の頭、アレは片仮名のサ、アレはミッキーのなりこそない……。雲は色々な形を見せて流れていく。隣町に辿り着く頃には、犬は龍に姿を変えているかもしれない。
それは、彼等にとって自由か、表現か、なんだろう。
「……あ」
千切れることなく連なった、大きな大きな雲は。
「…………鯨」
まるで、巨大な白鯨だった。
海を飛び出し、空を泳ぐ、実体のない白鯨。周りの雲を蹴散らし、距離を置き、一匹堂々と。
まるで、空の王者のように。
【大きくなったらね、鯨になるの。他のお魚よりずっとずーっと大きくなるの】
ふと思い出したそれは、幼少期の夢で、目標で、絶対的な進路だった。なんにでもなれる、その言葉が嘘ではないと知っていた頃の、確定的な将来。
今では、"なんでも"なんて無理だと理解してしまったけれど。将来は、曖昧になってしまったけれど。
白鯨は、形を変えることなく漂っている。
あの白鯨も、いつかはそのままでいられないと悟り、形を変えるのだろうか? それとも、鯨は鯨のまま、遠い空へ泳いでいくのだろうか?
『貴方のが一番上手だった』
…………ついさっきの、国語教師の声が耳の奥で聞こえた。
小説の感想を書いた宿題に対して、優しく言ってくれた言葉だ。そんな風に褒められるのは初めてで、酷く冷たい態度を取ってしまったけれど。
長編小説〈白鯨〉を読んで書いたものだった。言葉を探って、表現を模索して、苦痛をぶつけるように書き上げた感想文だった。生き生きと、書き終えた感想文だった。
初めて、認められた。
目を閉じ、身を丸める。
……眠り落ちてしまえば、午後の授業には出ないで済むだろうか。
教室は嫌いだ。特に、屋上の空気を吸ってしまうと、あの小さな場所へ戻ろうなんて思えなくなる。彼処は圧縮された深海のようだから。
「っ……つめたっ……?」
本気で寝転けてしまいそうになった瞬間、冷たいものが顔にぶつかった。思わず飛び上がり、頬に触れる。
空を見上げ、息を飲んだ。
白鯨が、泣いていた。
私の頬を濡らしたのは、あの白鯨の涙だ。私には、そう見えた。
晴れた空にそぐわない雨。それは、すぐに土砂降りになった。
髪も制服も、あっという間に濡れそぼり、顔やら腕やら足やらに張り付く。それでも、私は青空の中で泣き続ける白鯨から目を逸らせなかったし、動かなかった。
小説の白鯨と、雲の白鯨が重なる。
……モビーディックは、本当に単なる怪物だったのか。
怪物、自然の化身、神の代行者。そんな白い鯨も、本当はただの、ひとつのカタチで。誰も彼もが、何かをそこにはめ込んで見ていただけ、ということはないだろうか。
そう思うと、急に親しみが湧き上がった。遠い世界の生き物が、すんなりと心の中に収まる。
愛おしくて、力が抜けて、大の字に寝そべった。
濡れた髪が腕に絡み、煩わしかった。
塊のようになったひと房を摘み上げてみる。女の子だから、と伸ばし続けた髪。
小学生の頃、短くしようとしたら、止められた。短いのは似合わないよ、と言われた。それ以降、私は髪を伸ばし続けている。
切る時はいつも整えるだけで、長さを変えたことはもう何年もない。
…………鯨になりたかった私、の遺産のようなもの。
もう、必要ない。
雨は止んだ。
もう一度空を見て、大きく息を吸い込んだ。白鯨は、いなくなっていた。
次のカタチを見付けたのだろう────

この日、初めてジャージ姿で美容院に行き、髪をばっさりと切り落とした。
──高校二年の春が、終わろうとしていた。

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