創作大賞感想 『その蜘蛛は巣をつくらない』


捕まえるでもなく、殺虫剤を散布するでもなく、部屋にいる蜘蛛(たぶんあの黒っこいちっこいやつだろうか)を思う話。
或る事象に直面するとき、思考はその事象をたえず自分の世界に位置づけ(理解し)ているわけだが、なにか考えようとしてそうする場合、たいていは自分にとって既知の考えに適合するように位置づけているものだ。実際、かなり頑張れば地球が丸い――たしか織田信長あたりの時期に今日では地球儀と呼ばれるものが入ってきてそれで後に「地」は「球」であるとしてこの名詞が生まれたんだったか――という考えを固持することもできるだろう。『さよならを教えて』の主人公くんの妄想は極端な例だが、多かれ少なかれ、あの主人公くんと女医さんとの断絶みたいなんを経験しことがある人はいるのではないか。
エッセイをこの企画で読んでいて、文学やエッセイや小説まわりの人のなかに面白い人がやはり多いなと思えるのは、その日常的な思念の無軌道さというか、いわゆるテツガク的な話とかでは上がりもしない思考の動きを開示している人が多いからかもしれない。すくなの「蜘蛛は文豪からの使いだったのかもしれない」を見て「ほーん、そういうふうになる?」と私はその念を強くする。
とはいえこういう、日常的な出来事がなにかまったく別種のことを意味するものとして主題的に現れる、ということはよくある。よくある例では靴紐が切れる、あるいは夢、などなど。たいていの場合は或る種の突発的な、普段とはなにかしら異なる特徴的な、そういう押しつけがましい事象をきっかけにしているが。
すくなのこの記事の面白いところは、蜘蛛が部屋にいることを多少は気にしつつも、小さい蜘蛛でとくに毛嫌いしているわけでもないためか特筆するものではないものとして見なしていながら、自分から蜘蛛へ視座を移したり(移ったり)、あえて日常的なものへ開放的であらんとしているところにある。外向的でも内向的でもなくそれを非意図的に無視してしまっているという点で、人間は見慣れているものに対してこそいわゆる「コミュ障」なわけだが、すくなはなんでもない蜘蛛へコミュニケイトしている。
そうして読書へと気が向いていくように、自室に籠りながらにして思考によっていまだに触れたことがないものへ触れようとしているところで終わる。部屋に引きこもらせる梅雨時の雨が描くだろう線はさながら別所へ誘う蜘蛛の糸である。慣れているところで慣れた仕方で慣れたものにのみ関わる者こそ真に引きこもりなのかもしれない。
私もひさびさに「びっくりするほどユートピア!」をやってみようかしら。

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