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女性活躍と特別支援とかけて助長のことわざと説く

よくある社会の通念や制度が、一見とても良いように見えて、実はより本質的な問題解決を遠ざけていると言うことがある。
私の子どもには障害があるので、教育と聞くと、途端に胸が重くなる。本当に毎日が試行錯誤で、出口の見えない暗いトンネルを無我夢中で恐る恐る歩いている気がする。障害を持つ子どもは、できることできないことがいわゆる標準から外れたところに散らばっている感じで、彼らを教えるのは本当に常に調整の要るカスタム・メイドだからだ。

「最近は、障害を持った子どもも色々な選択肢が増えてよかったね。」と周りの健常児のママ友から時々言われる。特別支援学校、支援級、通級などや放課後ディサービスも含めて、障害や特性をもった人間の存在を制度が認めてくれて、その制度が拡充されつつあるのは、先人の人たちの大きな努力の結実である。障害児を持つ親の中にも、国がこんなに手厚い支援を用意してくれいるのだから利用しない方がおかしい、と言う人もいる。

が、「概念としての良さ」を自分の子を眺めながら考えた時、どうしても引っかかった。

おお、この違和感、私はまさしく何度も人生で感じているではないか。

例えば、女性の就職活動である。
私たちの新卒採用の年代は、企業がよく「女性でも働きやすい職場」と広報し、社会派系週刊誌などにも、「女性でも働き続けられる会社特集」のような記事がしょっちゅう出ていた。就職試験で女性の応募者も「女性が活躍できる御社、女性の先輩のロールモデルも多いと魅力を感じました」と面接で志望動機を話していた。それを横目で眺め、私は心底しょげてしまった。今まで男性を同じように教育を受けてきて、いざ社会に出ようとするときに、いきなりそんなことを言われて、疑問に思わないのだろうか?憤らないのだろうか?しがらみが少ない若い時こそ、やりたいことをやる、とはならないのだろうか? 笑顔で「御社は女性もずっと働いていけることが魅力に感じました」と話し、「長期の人生プランを着実にステップアップしていける」賢い女性たちの無邪気さに私は打ちのめされたような気になった。

イギリスでは、私がいた当時でさえ、就職に男女の壁を感じたことはない。第一、履歴書に男女や年齢(それに人種も)を書くのは差別だと法律で禁止されている。
それに、長い学校生活を終えて、初めて労働する貴重な機会を自分がしたいことではなく、自分の性を考えて選択肢を敢えて自分から狭めると言う社会通念は全く感じなかった。もちろん、さまざまな考え方の人がおり、そういう考えを個人的に持つ人もいたかもしれないが、たいていの人は、やりたいことを主軸に据えていた。

全く恵まれた境遇ではない中、私は苦労の多い子ども時代を過ごした。このまま日本にいては私のような人間はこのままどんどん沈んでいくばかりだと切羽詰まった思いに駆られ必死にもがいて海外へ渡った。だから日本には戻りたくなかったし、戻ったら、また元の場所に引きずり下ろされると思っていた。時々帰国して、就職活動を少し試したのだが、このような状況を目の当たりにして、早々にすごすごと撤退し、絶対に戻れないと感じさせられた。

それと似たようなデジャブ感を障害児教育に抱く。確かに支援教育は手厚いかもしれない。が、そうやって障害を持つ子どもを健常児たちから簡単に隔離して良いのだろうか。特別支援学校、支援級から作業所へと世の中からほぼ隔離されてこの社会で生きていくことは本当に彼らのためにも、そして健常者のためにも良いのだろうか?相次ぐ施設での虐待事件などを見るたびに何度も疑問が胸に浮かぶ。

簡単に答えの出ない問題ではあるが、世界はもう既に一つの方向を目指し日本の先を走っている。2022年、国連が日本の教育に対して、「障害のある子どもの分離された特別教育が永続している」として、中止を求めると同時にインクルーシブ教育に向けた国の行動計画の策定を求めた。日本政府(文科省)は現在のところ、いまだに特別支援教育を中止するとは考えていない。

女性が活躍できると言いながら、女性を一定の枠(女性の働きやすい職場)に押し込めたり、障がい者を自分のペースを確保できると言いつつ一般から隔離するように生活させる。これは近視眼的に見ればもっとも手早い、なんとなく配慮の効いた解決策なのだろうが、長期的には私たちの社会をとてもいびつに歪めてしまうと感じる。

もう、ずっと昔に感じる頃だ。子どもに障害があると認定され、役所に手続きに行った時、係の人が紙をA4の紙一枚をくれた。それには年齢が0歳から老年に至るまで横軸に記されて、縦軸にはその時々に受けるべき支援サービス、行ける場所(学校や作業所など)が記してあった。その地域にある学校や作業所の名前が書いてあったが、それをもらって見て私は思わずむせび泣いた。私の子どものような人は生まれてから死ぬまで、紙っぺら一枚で表される人生、半径500メートル内で生きて死んでいく、と人生全てを説明され設計されているような通告に感じたのだ。

どの親も、たとえ子どもにどのような障害があっても、子どもが将来どんなふうに育つか、何を経験して大きくなっていくのか、その未知数の可能性に胸を躍らせる。その可能性はより広い複雑な社会と関わり合ってこそ伸びていくものだ。その機会を私たちは障害や特性をもつ人からも奪っては決してならない。

どう見ても、健常児の子どもが一番選択肢がある。障害児の選択肢が増えたと言うけれど、特別支援の教育状況は、できないところなどネガティブなことに照準した、決してポジティブではない選択なのだけれどなぁ。選択肢を享受できる子どもとそうではない境遇の子ども達が繋がってお互い満足してともに学べる教育制度があれば社会はもっと拡がり豊かになるだろう。今の学校制度に特性を持つ生徒を誰でも彼でも考えなしに入れると言うことではない。子ども一人ひとりにできるだけ合わせる教え方など抜本的に制度や考え方を変えた初等教育制度に、政府がもし未来の日本と日本に暮らす人を大切に思うなら、真っ先に注力してほしい。

参考文献:教育新聞
https://www.kyobun.co.jp/article/20221104-03

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