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海辺の路線バス

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一台のバスが止まっている。お客さんの姿はまだなく、エンジンもかかっていない。海の近くを走っているせいか、車体はどこか錆びついてみえる。

ここは中国地方のとある駅前。セミの声が徐々に聞こえだす夏の初め、ぼくはこの少し古ぼけたバスに乗って、海辺の小さな町に向かおうとしていた。

よくある田舎のバスだ。都会の乗り物と違って本数が少ない。

1時間に1本もないバスの発車時刻まで、あと15分はある。ぼくが乗ってきたJRの電車は30分に1本の間隔で走っていたけど、もちろん乗り継ぎがすんなりうまくいくはずもなく、何十分も待ちぼうけをくらうこともごく普通のことだ。

駅前には、駐車場とコンビニ以外特に目立ったものはない。気温も30度を越えてしっかりと夏らしくなり、リュックを背負うぼくの背中は汗でびっしょりと濡れていた。

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運転手と思しき男が、バスの外に立っている。発車時刻まで余裕があるからだろう。帽子をとって汗を拭いながらぼんやりと遠くを眺めている。

バスのドアはまだ開いていない。車内に入ることができないので、バス停のベンチにリュックをおろし、少し暇つぶしをしようと思っていた。

明らかに旅人然したぼくの格好を見て、50代後半と思われる男は、興味本位かぼくに話しかけてきた。

「いやぁ、今日は暑いからなぁ。まだクーラーがついとらんけん、ちょっと待っててくれんかねぇ」

そんな一言から世間話がはじまった。あと10分くらいで発車するからもう少し待ってくれ。ところで君はどこまで行くんだ。どこから来たんだ。そんな場所があるのか、それはおもしろそうだな。

そんな感じで、ポンポンと調子よく地元の人との会話が進むのは、なかなかに心地よい。そして、ところどころに混ざった方言を聞きつつ言葉を交わしていくその過程は、東京の人間であるぼくにとっては、ずいぶんと遠くにやってきた感じがして楽しいのだ。

どうということのない世間話を5分ほど続けると、他のお客さんらしき人たちもバス停に近づいてきた。運転手さんがいそいそと車内に戻ると、やがてブルブルと唸るような音を立ててエンジンが掛かりはじめた。

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もしもあの時、ぼくがスマホを荷物から出してきて、どこか話しかけにくい様子だったとすれば、運転手さんとの会話はきっと生まれなかっただろう。

旅をしていて面白い瞬間の一つは、旅先で出会った人との何気ない会話だ。

普段出会うことのない人たちとの会話を通じて、その土地のことを理解したり、新たな発見をする。なにげない会話をきっかけに「まだ知らぬ世界」に目を向けようとすることは、時に自分自身の他者に対する姿勢そのものが試されることでもある。

もちろん、知らない人との会話を避けて「自分の殻」に閉じこもっていたとしても、さほど不自由なことはない。スマホとネットがあればだいたいの調べ物は事足りるし、連絡も自由に取れて、わからないこともある程度は解決してしまう。それに、知らない人に余計な気を使わなくていいぶん楽だ。

でも、そうした「自分の殻」に閉じこもっている状態って、ふだんの生活と何が違うのだろうか。だったら家にいればいいと思うし、わざわざ遠くへ行く必要なんてないだろう。

せっかく旅に出ているのであれば、そうした「殻」にこもることなく、目の前の人や世界に対してオープンであったほうが楽しい。

だからこそ、ぼくはなるべく「隙」をつくるようにしている。話しかけやすい雰囲気を出したり、時にわざとぼんやりしてみたり。その「隙」は、自分を守る上では全然役に立たないのだけど、もしかしたらそのルーズさのおかげで、何かおもしろいことが起きるかもしれないから。

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バスは駅前のロータリーを出てからしばらく広い大通りを走り、やがて細い道へと進路を変えた。

古くから建ってそうな小さなお店や民家が、狭い道に連なって面している。バスはそんな道を走りながらこまめに停車し、乗っていた数人のお年寄りたちが徐々に降りていった。

駅前のバス停を発車してからおよそ20分。ついにバスは街を抜けて海辺の国道に差し掛かった。

片側1車線。ガードレールの向こうはそのまま海だ。空はすっかり晴れていて、波のないおだやかな群青色の海が、どこまでも遠くに続いている。海の彼方には島影が見えて、遠くには大きな船が行き交う様子も見える。

気がつくとバスは終点についていた。お客さんはぼく以外誰もいなかった。

運転手さんに軽く礼を言ってバスを降りる。降り立ったバス停の目の前には静かな海が見える。バス停を降りて国道沿いに歩きだすと、今ぼくを乗せてやって来たバスが、そのまま折り返して駅の方面に戻っていった。

やっぱりお客さんは誰もいなかった。

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