見出し画像

『CURRY BIBLE(カレーバイブル) カレー好きであれば知っとくべき知識満載の教科書』第一章・無料全文公開

書籍『CURRY BIBLE(カレーバイブル) カレー好きであれば知っとくべき知識満載の教科書』より、第一章「日本でカレーはなぜ流行ったのか? 知られざる歴史を紐解く」の無料全文公開!
下記リンクはAmazonストアでの商品ページになります。書籍の概要や目次もこちらでご覧になれます。

横浜、横須賀、北海道! カレー伝来の地はどこ?

オシャレな異国情緒溢れる港町――。横浜からはそんなイメージを連想させられるが、それはなんといっても、幕末の開国期、多くの外国人がこの地に居留地を築いて住み着いたからに他ならない。それまで寂しい漁村にすぎなかった横浜は、これを機に日本の窓口として発展していくのである。
そんなわけで、この時期日本に伝わった西洋料理には、横浜を拠点として日本全国へ発信されていったものが非常に多い。居留地の外国人たちが自分たちの食べているものを付近の日本人に紹介し、それを見た日本人がマネをして作り、東京や他の地域にお店を出すなどして広めていく……という流れが一般的だったからだ。
カレー粉や牛肉・豚肉など、カレー作りに必要な材料が、横浜なら比較的手に入りやすかったことも事実だ。また一部の外国人は、自分たちの日々の食事用に、ジャガイモやタマネギといった西洋野菜の栽培も、自給自足で行っていたという。当時の横浜には、西洋料理のカレーを再現する下地が、他のどの地域よりも整っていたのだ。

ちなみに、横浜以外にカレー伝来の地として挙がるのが、同じ神奈川県の横須賀市。戦前は軍港として栄え、海軍の駐屯地でもあった街だ。確かに、明治時代の海軍の食事に早くからカレーが取り入れられていたという記録はあるのだが、残念ながらそれが具体的に何年からだったのかはわかっていない。

さらにもう1つ、北の大地・北海道もカレー伝来の地の有力な候補と目されている。明治維新後、新政府は北海道開拓のため多くの外国人を顧問のようなかたちで雇い入れ、北海道に派遣した。札幌農学校(現・北海道大学)の初代教頭であるクラーク博士が有名だが、そうした外国人たちの一部によってカレーが北海道に伝えられ、日本全国に広まっていったという説だ。実際、農学校の生徒たちに洋食を常食とさせたクラークだが、どうしても米を食べたいという彼らの要望に応えるかたちで、カレーだけを例外として米食を認めたという逸話も残っている。

「横浜説」「横須賀説」「北海道説」――どれが真相なのかはっきりとわからないが、いずれにしても、カレーはこの時期日本にやってきた外国人たちの口コミによって、初めのうちは実に細々と日本人へ伝えられていったことだけは間違いないようだ。

日本最古のカレーにはなんとカエルが入っていた!

ビーフにポーク、チキン、シーフード……。現在私たちが食べているカレーには、実に様々な具材が使用されている。
「いつもはポークカレーだから、今日は気分を変えてシーフードカレーを作ってみよう」
そうやって具材を自由にアレンジできるのも、カレーという料理の大きな魅力の1つだ。
では、カレーが日本に伝わったばかりの明治時代には、一体どんなカレーが食べられていたのだろうか? やはり現在のように、様々な種類の具材が使用されていたのだろうか?

1872年刊行の『西洋料理指南』という本に書かれている、現在記録に残る日本最古のカレーレシピなるものによると、当時の「カレー」の製法は、「みじん切りのネギ、ショウガ、ニンニクをバターで炒めて水を加え、鶏肉、エビ、タイ、カキ、アカガエルなどをいれて煮、カレー粉をいれて1時間ほどしたら、塩と水溶きの小麦粉を加える」というものだった。
作り方自体にそれほどの驚きはないが、問題は、例として挙げられた具材のラインアップだ。仏教の影響で四つ足動物の肉を食べる習慣がまだ日本人の間に根づいていなかったため、牛肉や豚肉の変わりにこのようなものを使用したらしいのだが、鶏肉、エビ、タイ、カキまでは良いとして、なぜよりによってアカガエルなのか?

アカガエルカレーのルーツははっきりしていないが、今のところ最も有力なのは、イギリス人が日本に連れてきた中国人シェフによるアイデアだという説。そういわれてみれば、確かに中国人は、カエルを唐揚げや炒めものなどにしてごく当たり前に食べている。彼らならば、カレーの具にアカガエルを使用するというアイデアを思いついてもなんの不思議もない。日本人がカレーに醤油をかけたり、納豆をのっけたりするようなものだ。
恐らくは、あくまで牛肉や豚肉の代用品として使用されていたのだろう。ところが、この中国式アレンジが加えられたカレーを見た当時の日本人は、「カレーにはカエルを入れるものなのだ」と思い込んでしまい、それがレシピとして記録されたというわけである。
現在でも、食用カエルの肉は手に入る。ビーフやポークといったありきたりのカレーに満足しきれなくなってしまった方は、一度この「カエルカレー」を試してみてはいかがだろう。

カレーのレシピ本のルーツを探る!

『西洋料理指南』の少し後には、もうちょっと「おいしそうな」カレーレシピも世に紹介されている。同じく1872年、『西洋料理指南』から数ヶ月遅れて発刊された『西洋料理通』という料理本に掲載されたレシピである。こちらは、当時横浜にいたあるイギリス人が、使用人に料理を作らせるために用意したノートをもとに、戯作者の仮名垣魯文が書き上げたものだという。
「仔牛や鳥の冷えた残り肉に、ネギ4本、皮をむいたリンゴ4個を刻んで加え、カレー粉、小麦粉を、水あるいはスープにいれて4時間半煮込む。最後にゆずをしぼり、皿に盛ったご飯のまわりに円をえがくように盛る」

4時間半もの間、煮込んだリンゴやゆずを使うなど、さすがイギリス人のノートをもとにしただけあって、なかなか本格的なものである。料理名も、単なる「カレー」ではなく、「カリード・ヴィル・オル・ファウル(curried Veal or fowl:仔牛や鶏肉のカレー粉料理の意)」という当時の正式な英語表記で記されている。

ちなみに、最後にゆずを搾って入れるというのは、レモン汁の代用であったと考えられている。カレー以外の当時の西洋料理レシピでも、随所に「ゆずもしくはレモン」という記述が見られる。同じように、ネギも現在のようなタマネギではなく、和ネギ、つまり長ネギで代用した。まだこの頃には、レモンやタマネギという食材自体が日本では一般的ではなかったからである。

いずれにしても、先ほど紹介した『西洋料理指南』とともに、『西洋料理通』はカレーの料理法を初めて日本で紹介した、当時としては大変モダンな料理本でもあった。ともに「西洋」という文字がタイトルに含まれているのを見てもわかる通り、明治時代の人々にとって、やはりカレーはまぎれもない「西洋料理」だったのだ。
当時は「牛肉食わねばひらけぬ奴」といわれ、知識人や上流階級を中心に、明治初期の日本人は皆競うようにして西洋文明に順応していこうとした。牛肉やカレーを気味悪がって食べないようでは「ひらけぬ奴」、今でいえば「ダサイ奴」と周りにいわれてしまう。カレーが急速に日本で広まっていったのは、人々のそんな見栄も、おおいに関係していたのではないだろうか。

マジ? インド人はカレーライスを知らない!

ご存知の通り、カレーは元々インドの食べものだ。ところが、インド人に日本のカレーライスを食べさせると、「非常においしい料理だね。でも、これはなんという名前の料理なの?」と聞かれてしまうことがあるという。一体どうして?

17世紀以降、ヨーロッパ列強は競うようにしてアジア諸国の植民地化を進めていた。その中で世界の覇権を握り、「陽の沈まぬ国」といわれるほどに世界各地に植民地を広げたのが、当時のイギリス、大英帝国だった。インドも大英帝国の植民地政策の重要な拠点として、長らく支配下におかれ続けてきた。

そんな折、江戸時代から鎖国政策を貫いてきた日本にも、開国という大きな転機が訪れる。ペリーの黒船来航に始まる政治的・軍事的圧力により、江戸幕府は欧米諸国との通商をなかば強制されるようなかたちでスタートしたのだ。
当然、世界の覇者・イギリスも欧米諸国の1つ。長年のインド支配の間にイギリスに伝わっていたカレーは、この時期イギリスからさらに日本へと、「西洋文明」として伝わっていったというのが、カレー伝播の真相というわけだ。
文化の違う国々の間を渡り歩けば、それだけカレーの姿形にも変化が生じてくる。それぞれの国で独自のアレンジが加えられ、その国の人々が食べやすいように味が調節され、作り方にもその国ならではの工夫が施される。

というわけで、幕末から明治初期に日本に伝わったカレーは、元々インドで現地の人々が食べていたカレーではなく、インドのカレーをイギリス人たちが自分たち用にアレンジしたイギリス流・欧風カレーだったのだ。
その後、日本人もこのイギリス流・欧風カレーに日本人ならではの様々なアレンジを施し、次第に現在私たちが家庭で食べているような「日本流」カレーを形作っていったというわけ。
欧風にアレンジしたものを、さらに日本風にアレンジしたわけだから、「日本流」カレーは、もはや本場インドのカレーとはほど遠い、まったく別のシロモノとなってしまった。
インド人が「これはなんという料理?」と思ってしまうのも、ムリもないことなのである。

福沢諭吉が紹介したコルリって何?

「キリーム」「エップル」「ボッタル」……。皆さんは、これがなんのことかわかるだろうか?
実はこれ、すべて江戸時代の辞書に出てくる外来語のカタカナ表記である。『増訂華英通語』というもので、それぞれの言葉に英語、中国語、日本語の表記があわせて記されている。刊行は幕末の1860年。著者は1万円札の肖像で有名な福沢諭吉。先に挙げた奇妙な言葉は、それぞれ「cream(クリーム)」「apple(アップル)」「butter(バター)」のことで、なんとか英語の音を日本語で表現しようという、諭吉の苦心の跡がうかがえる。

『増訂華英通語』の中に、「curry・コルリ」という項目が存在する。いうまでもなくカレーのことだが、実はこれが日本で初めて「curry」という言葉を紹介した文献なのだ。
諭吉が実際にカレーを見たり食べたりしたことがあったのかどうかは定かではない。だが、グルメとして知られ、人なみはずれて好奇心も旺盛だった彼のことだ。恐らくカレーを探し求め、一度は口にしていたのではないか。もっとも、その時に「コルリ」という彼の発音が英米人に通じたとは、どうしても思えないのだが……。

初めてカレーライスを食べた日本人はカレーを残した?

年配の方などに聞くと、海外旅行の際に一番困るのは、やはりなんといっても食べものだという。最初のうちは現地の料理を食べて異国情緒を満喫していても、2~3日もすると日本の味が恋しくなってしまう。そのため漬けものや梅干し、醤油を必ず持って出かけるという人も多いようだ。
食生活が多様化したといわれる現代人でさえこうなのだから、幕末、明治時代に留学などで海外に渡った人々は、食べものの問題で相当な苦労をしたことだろう。まして、当時は現代のように飛行機でどこへでもすぐに飛んで行ける時代ではない。ヨーロッパに行くにしても2~3日どころか、片道だけで20日ほどの船旅である。その間いっさい日本食どころか米の飯すら食べられないのだから、漬けものでもなければとてもじゃないが耐えられなかったに違いない。

明治期の物理学者として名を馳せた人物、山川健次郎も、国費留学生としてアメリカに向かう船中、おおいに食べものに苦しんだひとりだった。
三度の食事に出される西洋料理は、当時16歳だった健次郎少年には、「変なにおいがして」どうにも受けつけない。何も食べないで数日間頑張ったが、医者にも「とにかく何か食べなさい」と勧められ、ついに「ライスカレー」というメニューに挑戦してみることにした。数ある料理の中から「ライスカレー」を選んだのは、ともかく米の飯がついているからという理由だった。

ちなみに、カレーという食べものを初めて見たと記録されているのは、江戸時代の遣欧使節団のひとり、三宅秀という人物。だが彼は、得体の知れない食べものを食べてみようという気になれなかったらしい。
こうして健次郎少年が晴れて日本で初めてカレーを食べた人物ということになったわけだが、彼にしても、ご飯の上にかかったルウは、「あの上につけるゴテゴテしたもの」と敬遠して手をつけなかったという。その時たまたまあったあんずの砂糖漬けをもらっておかずにし、ルウの下のご飯だけを食べたのだそうだ。
結局、健次郎少年も本当の意味でカレーを食べてはいないのである。

クラーク博士は「少年よカレーを食べよ」と言った!

スポーツの国際大会などを見ていて、日本人と外国人のあまりの体格差に唖然としてしまうことはないだろうか。今でこそ、日本人にも立派な体格の人はだいぶ増えてきたようだが、それでも全体としてみれば、やはり違いは歴然だ。
「あいつらは一体、何を食ってあんなに大きくなったんだ?」
食べものばかりのせいではないことはわかっていても、ついついそう考えてしまう。

明治時代、同じように「日本人の体格が貧弱なのは米を中心とした食生活のせい」と考えた、ある外国人が存在した。「Boys Be Ambitious(少年よ大志を抱け)」の名言でお馴染みの、札幌農学校(現北海道大学)初代教頭、ウィリアム・スミス・クラークである。

当時の札幌農学校は全寮制だった。生徒たちは皆、学校の寮で寝起きをし、まかない方の作った料理を朝昼晩と三食食堂で一斉に食べなければならない。
そこでクラークは、生徒たちの食事に米食ではなくパン、つまり洋食を採用した。
「生徒は米飯を食すべからず」
真偽のほどは定かではないが、そんな規則をクラークが作ったという説もある。

だが、日本人の米に対する執着心は、外国人であるクラークたちの想像する以上のものだったのだろう。生徒たちの要望に押し切られるかたちで、やがて「ただし、らいすかれいはこの限りにあらず」という一文が先の規則に付け加えられ、カレーに限っては米を食べることが認められるようになったというわけだ。

ジャガイモ、タマネギ、ニンジンといった今ではカレーに欠かせない野菜類は、札幌農学校では園芸実習として日本の他地域に先がけて栽培していた。また、カレーならば予算に応じて具材の中身を自在に変えることができるという学校側の都合も、この「カレー推奨策」の背景にはあったようである。
いずれにしても、米の飯が食べられるということもあって、カレーは他の洋食と比べて生徒たちに大人気であったという。やはり日本人には米が一番。いくらクラークといえども、長年慣れ親しんだ生まれながらの習慣は、一朝一夕に変えられるものではなかったのだ。

C&Bカレーパウダー成功の秘密はヒミツ!

人間というのは、とにかく「秘密」が好きな生きものである。恋愛でも「ミステリアスな人が好き」などという女性がたまにいたりするが、何から何まですべてがわかってしまうよりも、「これはどういう仕組みなんだろう?」「どうしてこんなことが可能なんだろう?」と不思議に感じてしまうような自分には理解できないものに、人は時としてより深い魅力を感じるものなのだそうだ。

セールスやマーケティングの手法としても、近年この人間の心理を利用したやり方が注目を集めているのだが、実はすでに18世紀、この「秘密」をウリにして大きな利益を上げた会社が存在する。世界で初めてカレー粉を商品として販売した、イギリスのC&B(クロス&ブラックウェル)社である。
C&B社は当初、食品の販売やケータリング(仕出し)を行う会社だった。そこで人気だったのが、インドから伝えられたばかりのカレー料理。早速、カレー料理に使用していた混合スパイスを家庭でも手軽に使用できるようにしようと、カレーパウダー、つまりカレー粉の販売が始められることになった。

この時同社は、スパイスの調合について詳細を一切明かさず、「このカレーパウダーは、東洋の神秘的な方法によって製造されている」と書いて売り出したのである。これが例に漏れず「秘密」好きだった当時のイギリス人の間で大ヒットした。「C&Bカレーパウダー」は着実にイギリスの食生活の中に浸透していき、やがて他のヨーロッパ諸国、さらには日本へと輸出されるようになったのだ。

資料が残っていないので正確なことはわからないが、日本に「C&Bカレーパウダー」が輸出されるようになったのは、カレーの存在が伝わった時期とほぼ同じ頃ではないかと考えられている。当時の日本に自前のカレー粉などというものは存在しないから、カレーを作ろうと思えば必然的にこの舶来のカレー粉を使わざるを得なかった。
当然、値段はべらぼうに高い。そういうわけで明治時代のカレーは、一般庶民にはとても食べることのできない超高級料理として、洋食店のメニューに並んでいたのである。

カレーを国民食にした立役者はニセモノブランド品だった!

日本人は「ブランド」好きな民族だといわれる。エルメス、ルイ・ヴィトン、シャネルにグッチ……。これら海外の有名ブランド商品は、高額な値段にも関わらす、常に多くの女性たちの憧れの的。彼女たちを狙って、一見そっくりのニセモノ商品が出まわるほどだ。
カレーがようやく日本人の間に広まりつつあった大正・昭和初期の頃、カレーの世界にもこうした「ブランド」商品が存在した。先に紹介したC&B(クロス&ブラックウェル)社の「C&Bカレーパウダー」である。
「カレー粉はとにかくC&B。それ以外では使いものにならない。特に日本製などは問題外だ」
当時の料理人たちの間では、これが当たり前の認識だった。実際、すでに国産のカレー粉もいくつか発売されていたが、それらはいずれもあまり売れなかった。現代の女性が海外高級ブランドのバッグやアクセサリーを買い求めるように、彼らも皆こぞって高額な「C&Bカレーパウダー」をあえて仕入れ、使い続けたのだ。

そんな折、「C&Bカレーパウダー」のニセモノが登場した。C&Bの空き缶に、まったく別の国産カレー粉を詰めて売り出した者がいたのである。値段は本物に比べて当然安い。
警察の捜査によって事件が摘発されるまで、かなりの期間ニセモノ商品は出まわった。「カレー粉はC&Bに限る」などと、したり顔で言っていたプロの料理人たちですら、ニセモノと本物の違いにまったく気づかなかったからだ。結局のところ、「カレーはC&B」「国産品はダメ」などというのは料理人たちの固定観念にしかすぎず、実はこの頃には、両者の間に味はプロでも違いがわからなかったほどである。

この事件を機に、それまであまり売れなかった国産のカレー粉が次第に街の洋食店などで使用されるようになっていった。それはそうだろう。肝心の味が変わらないのならば、わざわざ高い「C&Bカレーパウダー」を使う必要はない。安い国産のカレー粉を使用して、他よりも安い値段でカレーを売り出せば、お店も繁盛する。こう考えるお店が次々に現れ始め、それまで高級食だったカレーは一気に庶民にも親しみやすい値段の食べものとなった。
浦上商店(ハウス食品の前身)、日賀志屋(エスビー食品の前身)といった、現代にまで続く国産メーカーも勢いを増し、他にも雨後のタケノコのように新たなメーカーが続々と誕生していった。その後カレーが国民食として日本に広まっていく大きな第一歩である。

ニセモノブランド作りは決して良いことではない。だが、「C&Bカレーパウダー」のニセモノについては、少なくとも日本人は、その登場を喜ぶべきなのではないだろうか。もしニセモノが登場していなければ、今もカレーは高級食だったかもしれないのだから……。

正岡子規は正真正銘の西洋かぶれだった!

いつの時代にも、いわゆる「新しもの好き」な人はいるものだ。テレビや電化製品、最近ならばパソコンにスマホなど、とにかく新モデルが発売される度に、買い換えずにはいられない。そんな人があなたの周りにも、きっとひとりやふたりはいるのではないだろうか。
文明開化、明治の時代にも、そんな「新しもの好き」な日本人は確かに存在した。当時の新しいものといえば、なんといっても次々に入ってくる西洋文明だ。よくいえば流行の最先端を行く人、悪くいえば「西洋かぶれ」ということになるのだろうが、一般庶民に比べて世界のことをよく知る当時の文化人、知識人には、とりわけこうした人種が多かったようである。

江戸幕府が倒れた1867年生まれの有名な歌人、正岡子規もそのひとりだった。子規は晩年、結核を思い、長い療養生活を送っていた。その時の病床の日々を日記につづったのが、『仰臥漫録』という作品である。この中に「夕(食)、ライスカレー三椀、ぬかご、佃煮、なら漬、体温三七度三分」という記述がある。
『仰臥漫録』が書き始められたのは1901年。明治時代も30年が経過し、カレーという食べものの存在もひと頃に比べればずいぶん日本人の間に認知され始めていたとはいえ、依然、ひと握りの上流階級だけが食べることのできる超高級メニューだった。

他にも、この日記には、ココア、紅茶、バナナ、パイナップル、レモン、ハムなど、西洋から来た当時としては珍しい食材を飲み食いした記録が、次々に登場する。元々食べることが大好きだったという子規だが、実はこの頃には自分の余命がもういくばくにもないことを自覚しており、そのため、死ぬ前に目一杯ぜいたくをしておこうと考えていたのではないか、と一般的にいわれている。
子規の求めに応じて西洋の食べものを探し回った家族やつき添いの人間は、さぞ大変だっただろうが、カレーをはじめとしたこれら「文明の香り」によって、病床の子規の心はおおいになぐさめられていたのだろう。

カレーを日本中に広めた大ベストセラーがあった!

食への関心の高まり、グルメブームなどによって、現代では料理を題材としたマンガやテレビドラマなどが多数存在する。それらの先駆けともいえるのが、1903年の1月から12月にかけて報知新聞に連載された、村井弦斎の小説『食道楽』だ。小説という形式をとりながらも話のあちこちに四季折々の料理レシピが盛り込まれている。登場するヒロイン・お登和のモデルは、妻の多寡子。妻の料理の腕前がプロ並みで、毎日我が家の食卓でおいしいものを食べていたために、弦斎は『食道楽』の執筆を思い立ったのだという。

『食道楽』は、和食、中華、西洋料理と、とにかくあらゆる料理を取り上げ、当然、ライスカレーのレシピも数多く登場した。例えばその中の1つ、アサリカレーならば、「アサリの身一合と玉葱ひとつ西洋人参三つジャガ芋三つとを細かく切って水5勺を加え塩味をつけて一旦強火で煮ますが上へ泡が浮きますから丁寧によく掬い取ってそれから火を弱くして三〇分間煮詰めます。別にメリケン粉大匙二杯とカレー粉中匙一杯とを茶碗の中で水を少しずつ掻き廻しながら注いで暫く煮てから牛乳五勺を混ぜて少し火の上に置いて炊き立ての御飯へかけます」といった具合だ。

やがて『食道楽』は単行本化されると、たちまちベストセラーとなり、「お登和」という名前の料理屋があちこちに乱立するなど、一種の社会現象を巻き起こした。結婚して嫁いでいく自分の娘に買い与えたり、何かのお祝いの品として贈ったりすることも多かったという。
そんなベストセラーの中にカレーのレシピが数多く存在したということが、その後、カレーが日本人の間に広まっていく上で大きな役割を果たしたのは、いうまでもないのである。

夫婦喧嘩を解決させる名物カレーとは?

俗に「犬も食わない」といわれる夫婦喧嘩だが、気まずくなった関係を元通りにするための古典的かつ有効な方法があるのを、ご存知だろうか? それは、ふたりでおいしいものを食べに行くことである。
大阪出身の作家、織田作之助の出世作『夫婦善哉』に出てくる主人公・柳吉は、散財を繰り返して妻・蝶子と喧嘩をする度に、この方法を用いていた。
「どや、なんぞ、う、う、うまいもん食いに行こか?」

ところが、そうそういつまでも同じ方法は通用しない。ある時、蝶子はついに怒りのあまり、ひとりで家を飛び出してしまう。柳吉最大のピンチ──。ここで柳吉を救ってくれたのが、カレーであった。
家を飛び出した蝶子は急に空腹を感じ、楽天地横の自由軒で玉子入りのライスカレーを食べた。「自由軒のラ、ラ、ライスカレーは御飯にあんじょうま、ま、まむしてあるよって、うまい」と、かつて柳吉が言った言葉を思い出しながら、カレーの後のコーヒーを飲んでいると、いきなり甘い気持ちが胸にわいた。
カレーを通して、自分の柳吉への愛を改めて思い知る蝶子。いても立ってもいられなくなり家に引き返すと、ふたりは次の日、今度は仲良く連れ立って自由軒を訪れる──。まさにカレーが夫婦喧嘩の仲裁をしてくれたわけだ。

ちなみに、『夫婦善哉』に出てくる「自由軒」というカレー屋は、1910年創業の長い伝統を持つ、大阪で現在も営業中の実在する店である。著者の織田作之助も、常連として毎日のように通っていた。玉子入りのライスカレーは「名物カレー」という名の、まさに名物メニューとしてファンに広く知られており、作り方は今も創業当時のまま。
縁結びや夫婦円満の祈願には案外イチオシのスポットといえるのかも?

3種の神器(ジャガイモ、ニンジン、タマネギ)は日本だけ!

家庭で食べる一般的な「カレーライス」には欠かすことのできない「3種の神器」と呼ばれる野菜が存在する。ジャガイモ、タマネギ、ニンジンだ。
ところがインドのカレーにも、イギリスをはじめとしたヨーロッパのカレーにも、近年日本にも広まってきた東南アジアのカレーにも、この「3種の神器」はまったくといっていいほど使用されていない。肉やシーフードといったメインの具材にこれらの野菜を加えるのは、日本独自の「カレーライス」の文化なのである。

幕末から明治時代にかけて西洋料理として入ってきたカレーを日本人が独自にアレンジして「カレーライス」を作りあげた、という話はこれまでにしてきたが、では「3種の神器」は一体いつ頃からカレーの具材として使用されるようになったのだろう?

ジャガイモもタマネギもニンジンも、いずれも明治時代に入ってから日本に伝わった西洋野菜である。その後、政府の奨励もあって、北海道の開拓地などを中心に国内でも栽培が勧められるが、一般に市場でこれらの野菜が購入できるようになったのは、明治時代も終わりの頃のことだった。
そのため、カレー伝来から現在のような「3種の神器」が揃った「カレーライス」が登場するまでには、「アレンジ上手」な日本人としては意外なほどに長い期間がかかることになってしまった。

献として最初に「3種の神器」が勢揃いするのは、1911年に出版された『洋食の調理』中のカレーレシピである。「『ビーフカレーライス』牛肉(なみ肉) バター カレー粉 スープ(鶏肉) 馬鈴薯 人参 塩 玉葱 メリケン粉 牛乳」と材料が記されている。その後、大正・昭和時代を通して「3種の神器」のベストミックスは、日本全国津々浦々に、カレーの王道として広まっていった。ちなみに「3種の神器」は海軍が発祥という説もある。

栄養バランスも良く、茶色一色のカレーに彩りが加えられ見た目にも美しい。「日本人は目で食事する」などといわれるが、そんな日本人ならではの見事なアレンジといえるのではないだろうか。

暴露される超高級「純インド式カリー・ライス」の真実

大正、昭和の時代になると、国産のカレー粉も販売され始め、カレーは庶民の間にもどんどん広がっていった。だが不思議なもので、値段が安くなり、誰でも気軽に食べられる料理となった途端、通常のものとは差別化を図った、いわゆる「高級品」が登場するのである。
現在でも有名な新宿中村屋の喫茶部に、「純インド式カリー・ライス」のメニューが登場したのが、1927年のこと。銭湯の入浴料が5銭、町の洋食屋のカレーが10銭から12銭という時代に、「純インド式カリー・ライス」は1皿80銭もしたというのだから、これはもう「超高級」カレーである。今の感覚でいえば、だいたい1皿8千円から1万円のカレーといったとこだろうか。

実は、中村屋創業者の相馬愛蔵・黒光夫妻は、10年前の1917年、ひとりのインド人亡命者を自分たちのところにかくまっていた。そのインド人の名はラス・ビハリ・ボース。インド王族の家に生まれ、本国の革命運動に参加した結果、イギリス政府から懸賞金を掛けられて追われているといった、いわくつきの人物である。亡命後も、ボースはイギリスの要請を受けた日本政府によって、厳しく追跡されることになった。その後、自由の身になるまで、相馬夫婦は我がことのように必死にかばい続けた。
やがてボースは夫婦の恩義に応えるべく、「インド貴族の食べる本物のカレーライス」の作り方をふたりに教授して、中村屋のメニューに加えることを提案した。

こうして生まれたのが、中村屋の「純インド式カリー・ライス」なのである。80銭という値段にも関わらず、店はカレーを求める人で毎日大繁盛だったそうだ。
このカレーの流れを汲む「インドカリー」は、今では中村屋のレストランで千円台の値段で食べることができる。決して8千円も1万円もしないので、興味のある方は、安心して是非食べに行って欲しい。

阪神百貨店食堂は1日1万人以上がカレーを注文する?

「食いだおれの町」と呼ばれ、食にうるさい人が今でも多いとされる大阪では、東京で中村屋の高級カレーが猛威を振るっていた頃、まったく逆のカレー大衆化路線が押し進められつつあった。
仕掛人は、阪急グループの創始者として知られる小林一三。1929年、日本はもちろん、世界でも初のターミナルデパートとなる阪急百貨店を大阪・梅田に開業するにあたり、一三はカレーをその中の食堂の目玉料理にしようと考えた。かつて自分がヨーロッパへの渡航中の船で食べたカレーの味に感銘を受け、「なんとかこの味を日本で再現し、多くの人に味わってもらいたい。きっと大人気になるはずだ」と思い立ったのである。

目論みは当たり、オープンした阪急百貨店の食堂は、連日人で溢れ返らんばかりの賑わいを見せた。カレーの値段はコーヒー付きで1食25銭。この時点で他の洋食と比べてもカレーの人気は群を抜いていたそうだ。

上昇気流に乗った食堂は、1935年には増築工事を行い、総面積3800平方メートルという、日本最大のマンモス食堂となった。当時の記録によると、1日の平均客数はおよそ4万5千人。カレーはおよそ1万3千食が売れたという。昭和初期に1日で1万3千人もの人がカレーをパクついていたというのだから、大変な快挙である。こうして大阪の庶民の間にカレーはどんどん親しまれていくことになった。

カレーを「ハイカラ」なものとし、高級な本物インドカレーで成功を収めた東の雄・中村屋に、大阪流の大衆文化として確立させ、多くの人々に受け入れられた西の雄・阪急百貨店。カレーの発展の1つを取ってみても、それぞれの都市の特性が非常によく表れているようで面白い。
いずれにしても、昭和初期の東西2大巨頭が日本のカレー文化に果たした功績は、非常に大きなものがある。

軍隊と給食が日本全国にカレーを普及させた功労者

良くも悪くも、都会にはとにかく様々なモノが集まる。新しい商品、新しい娯楽、新しいビジネス、新しい文化……。現代もカレーをはじめとした西洋文化が入ってきた明治時代も、それはなんら変わりない。むしろ、今ほど交通や情報網が発達していなかった分、そういった傾向は当時のほうが余計に顕著だっただろう。恐らく東京の人々が街の洋食屋でカレーを食べてハイカラを気どっていた頃、田舎の人はカレーという食べものの存在すらまだ知らなかったのではないだろうか。

そんな田舎の人たちにまでカレーが普及する大きな要因となったのが、実は軍隊の存在だったのだ。
現代の主婦が「手間がかからなくて楽チン」といって好んで作るくらいだから、常に急を要する軍隊にしてみれば、これほどありがたい料理はない。大勢の分を作るのにも都合が良いし、盛りつける皿もひとり1枚で済む。いつから採用されたのかは正式にはわからないが、明治の比較的早い時期から軍隊ではカレーが重宝され、頻繁に兵士たちの食事として出されたという。そして、軍隊でカレーの味を知り、作り方を覚えた地方の青年たちが、任務を終えて故郷に戻り、カレーを日本中に広めていくという図式ができあがった、というわけだ。

戦後、日本が混乱からの復興期に入ると、今度は軍隊に代わり学校給食がカレーを日本中に広める役割を果たすこととなった。
「カレー汁」「カレーシチュー」「カレー煮」という名前を聞けば、きっと多くの大人は、どこか懐かしい気持ちになるのではないか。名称は時代によって様々だが、いつもセットで出てきたのはコッペパン。カレーが最初に学校給食に登場したのは1948年のことだというが、特に戦後間もないこの時期、カレーとコッペパンという組み合わせが当時の子どもたちに大歓迎を受けたであろうことは、想像にかたくない。

そんな思い出を持った子どもたちが、やがて成長し、カレー大好きな大人となる。そして彼らは、自分の子どもたちと家でカレーを作って食べる。家でお父さんやお母さんにカレーを作ってもらった子どもたちは、またカレー好きに育っていく……。何十年もの間続いたこのくり返しによって、日本人はほぼ例外なくカレー好きな国民となっていったのだ。
戦前は軍隊。戦後は学校給食。一見地味に思えるかもしれないが、こうした草の根的なところでの活躍、人々への浸透が、現在の「国民食」カレーの礎となっているのである。

カレー南蛮は赤字続きのそば屋が生んだヒット作

様々なおいしい食が溢れる現代に生きていると、「この食べものを最初に考えついた人は、たいした人物だなあ」「どうしてこんなものを作ってみようと思い立ったのだろう」などと、つい考えてしまうことがある。そばとカレーが一緒になったカレー南蛮は、恐らく私たちにそんな思いを抱かせる料理の筆頭格ともいうべき存在ではないだろうか。

カレー南蛮の誕生は1908年のことといわれている。発明者は、東京から大阪に移って開店した1軒のそば屋のあるじ、角田酉之助氏。この頃、ちょうど都会では洋食人気に押され、そば屋のような在来の食べものを商うお店は、どこもさびれがちであった。
そこで氏は、「最近急速に洋食というものが盛んになってきたが、この洋食の味を採り入れてみてはどうだろうか」と考え、そばに使えそうな材料をとにかく手あたり次第に試してみた。そうしているうちに、カレーだけがなんともそばと馴染みが良く、「これはいける!」ということになって、発売を開始したのだそうだ。

「カレー南蛮」は大阪で大きな反響を呼び、赤字続きだった角田氏の関係のお店も一気に黒字へと転じるほどになった。この大成功を受け、やがて氏は東京に戻ることを決心する。もちろん「カレー南蛮」を東京にも広めるためだ。
大阪ほど新しい食べものに寛容ではない東京の人々の気質に、初めのうちは苦戦を強いられたが、それでも「おいしい」という噂が噂を呼び、「カレー南蛮」はついに東京の地でも広く認知されるようになった。「そば」の伝統や固定観念にとらわれず、「洋食」という新しい文化を積極的に採り入れようとした角田氏の勝利である。

現在では、「カレー南蛮」はそば・うどんに欠くことのできない種物の1つとして、たいていのお店に存在する定番メニューの1つに出世した。そばにカレーなんて邪道──通ぶったそんな意見もいまだに根強くあるにはあるが、「おいしいものは、やはりおいしい」のである。角田氏ならば、きっとそう言って鼻であざ笑うに違いない。

どうしてカレーパンは油で揚げるのか?

カレー南蛮同様、カレーパンも日本人が生み出した偉大な食べものの1つである。こちらの発明者は、東京・名花堂の2代目あるじ、中田豊治氏。1927年のことだ。
初めは、あんぱんのような菓子パンと同じようにパンの中にカレーを包んで、普通に焼き揚げる方法を試みた。ところが、パンの種としては水分が多すぎるため、なかなかうまく焼き揚がらない。そこで、当時カレーに次ぐ大人気の洋食だった「カツレツ」にヒントを得て、油で揚げる方法を思いついたのだという。
ちなみに発売当初はカレーパンではなく「洋食パン」という名前で売り出したそうだ。「洋食パン」では一体どんな洋食がパンの中に入っているのかわからないではないか、と思う方もいるかもしれないが、それだけ当時の人々にとって「洋食といえばカレー」という共通認識が広まっていたということなのだろう。

名花堂は現在、カトレア洋菓子店と名を変え、東京・森下の地で洋食パン改めカレーパンを販売している。今でも1日1千個以上は売れる、店一番の大人気商品なのだ。

カツカレーを発明したのは巨人の3塁手ってホント?

プロのスポーツ選手には体が資本なだけあって、よく食べる人が非常に多い。もちろん栄養バランスなども考えなければならないが、1日3食しっかりと量を食べるということも、日々の厳しいトレーニングをこなしていくためには、非常に重要な絶対条件なのである。
若い人を中心にどこのお店でも人気のカツカレーは、そんなスポーツ選手のひとり、巨人軍の選手だった千葉茂氏が生みの親の食べものである。

巨人の背番号3といえば、あの長嶋茂雄氏の現役時代の番号として有名で、現在では永久欠番となっているのだが、長嶋氏の前に背番号3をつけていたのが、他ならぬ千葉氏であった。戦前から巨人のレギュラー選手として活躍し、戦後のプロ野球再開後も、川上哲治氏などと共に主力選手としてチームを支えた。
そんなバリバリの一流アスリートだっただけに、きっと単なるカレーだけではお腹も満たされなかったのだろう。行きつけとなっていた洋食屋「グリルスイス」で、氏はいつもカレーとトンカツの2品を注文し、それをペロリと平らげていた。そしてある日、「どうせなら2つを一緒にしてしまえ」と思い立ち、「カレーの上にトンカツを乗せて持ってきてくれないか」とマスターに頼んだのである。
マスターは氏の頼みを聞くばかりか、それを正式なメニューとして採用し、お店で売り出すことにした。こうしてカツカレーが初めて世に誕生したというわけだ。1948年のことである。

トンカツやコロッケのような揚げものをはじめとして、チーズに納豆など、現在のカレーには実に様々なトッピングが自由自在に加えられるようになった。その先駆けともいえるカツカレーの生みの親、千葉茂氏。筋骨隆々の人を見ると、すぐに「あいつは脳みそまで筋肉」などと揶揄したりする人もいるが、千葉氏は決してそんなことのない至って柔軟な発想の持ち主だったようである。

日本初の固形ルウの形は板チョコがモデル!

忙しくて手っ取り早く料理を済ませてしまいたい時や、その日の献立がどうにも思いつかない時など、「今日はカレーにしよっと!」なんていう経験は、誰にでもあるはず。
それぞれの家庭でこだわりはあるにせよ、カレーなら材料を炒めて煮て、そこに固形ルウを溶き入れるだけ。手軽で簡単にできて、その上、子どもたちも喜んで食べてくれる。まさにいうことなしの献立だ。
戦後、相次ぐインスタント食品の開発・発展によって、日本の家庭の食事作りは急速に省力化されることとなった。インスタントカレーともいえる固形ルウの誕生は、インスタント食品ブームの先駆けともいうべきものだったのだ。

日本で初めての固形ルウが誕生したのは、1950年、お菓子メーカーのベル食品が開発した「ベルカレールウ」である。現在にまで続く細長いルウの形は、板チョコにヒントを得たものといわれており、開発したのがお菓子メーカーとなれば、それも納得といったところか。大きさは今の一般的なものよりも少し大きく、1枚が8人前。それを4等分して、2人前ずつ割って使えるようになっていた。

これより前の大正時代には、東京・日本橋の岡本商店が「ロンドン土産即席カレー」という、お湯で溶くだけのインスタントカレーの原型のような商品を発売していたが、こちらは固形ではなく缶入りの粉末状だった。現在でも粉末やペースト状のインスタントカレーがあるにはあるが、主流は圧倒的に固形ルウタイプ。分量を量って入れる必要がなく使いやすいということが、多くの支持を集めた最大の理由だろう。

翌1951年には、ハウス食品が「印度カレー」で固形ルウのマーケットに参入をはじめ、続いて「エスビーカレー」(1954年)、「グリコワンタッチカレー」(1960年)、「明治キンケイカレー」(1961年)と、各メーカーが相次いで対抗商品を販売した。日本全体の生産量の合計は、1955年が4,358トン。1965年が32,855トン。それからは10年毎にほぼ倍々で増えていった。固形ルウの誕生により、カレー業界はおおいに活性化したのである。それとともに、カレー自体もますます身近な食べものとして高度成長時代の日本の家庭に広がっていった。

現在では、カレー粉を使ってカレーを作る人はあまりいなくなり、ほとんどの家庭が固形ルウを使うようになっている。インスタントというと、どうしても「手抜き料理」というイメージがついて回るが、カレーに関していえば、インスタントを使うのがむしろ「普通」なのだ。主婦にとっては本当に良い時代になったものである。

幻の大ヒット商品「モナカカレー」って何?

パンの中にあんこを入れてしまったあんぱんのように、昔から日本人は和洋折衷で新しい食べものをどんどん生み出してきた。カレー関連でも、そんな食べものの代表格として、先に紹介したカレー南蛮が挙げられるが、もう1つ、モナカカレーというものが存在したのをご存知だろうか?
その名の通り、モナカの皮の中にカレールウが入ったものなのだが、実はあんぱんのようにお菓子感覚でそのまま食べるものではない。カレーを作る際、具材を炒め煮た後に最後に入れる──要は、普段我々が使用している固形ルウのモナカ入り版といったものなのだ。
正式名称は「即席モナカカレー」。1959年、エスビー食品から発売された。値段は1個5皿分で、当時35円。バラ売りの他、24個詰めの缶入りもあって、こちらはおまけになぜかお面が付いていたという。

当然「なぜ、わざわざモナカの中にカレーを入れなければならないんだ」という疑問がわいてくるかと思うが、何も単に奇をてらったわけではないらしい。モナカの皮というのはもち米でできており、具材を煮た鍋の中にこれを入れると、溶けてほのかな風味ととろみがカレーに加わることになる。まだカレー粉を使ってカレーを作るのが当たり前だった時代、とろみをつけるために小麦粉をカレーに加える作り方が一般的だったが、いわばモナカの皮が小麦粉の代わりをしてくれるというわけ。

発売当初、月に1万箱生産されたというモナカカレーは、1年後には月5万箱に増産されるほどの大人気を誇ったという。1967年に「製造が困難」という理由で発売中止となってしまったが、当時を懐かしむオールドファンや一部マニアの間からは、今も復活を望む声がエスビー食品に届くそうだ。
1950~1960年の頃というのは、ちょうど各メーカーが固形カレールウの開発・販売競争にしのぎを削っていた時代。そんな時代に生まれたモナカカレーは、エスビー開発陣が「なんとか他を引き離すヒット商品を生み出したい」という思いで考え出した、知恵の結晶ともいうべきアイデア商品だったのである。

日本初のレトルト食品はあのボンカレーだった!

缶詰、冷凍食品、インスタント……こうした革新的な技術の開発によって、私たちの食生活はおおいに便利なものへと変化した。そしてもう1つ、とりわけカレーの世界で忘れてはならないのが、レトルト食品である。箱を開けてパッケージを取り出し、お湯で数分間温めるだけ。それをご飯にかければ、もうカレーのできあがりだ。調理というような調理は一切必要ない。こんなに便利なものを作り出したのは、一体どこの誰なのだろうか?

レトルト技術は元々1950年代に、アメリカ陸軍が軍用携帯食にと開発したものだった。それから10数年後、新商品の開発を迫られていた大塚食品の開発陣が、偶然このレトルト技術の存在を聞きつける。
「この技術をうまく使えば、お湯で温めるだけで食べられるカレーが作れるかもしれない」

そう考え、大塚食品では早速開発プロジェクトが進められた。だが、開発は困難を極めたという。ノウハウを尋ねようにも、アメリカ陸軍がそんな軍事機密事項を詳しく教えてくれるはずがない。結局、ゼロから自分たちで開発しなければならなかったのだ。

試行錯誤の末、1968年に、ようやく日本初のレトルト食品「ボンカレー」が誕生した……と思ったのだが、実はこの最初のボンカレー、運搬時の衝撃でパウチに穴が開いてしまう不良品だった。穴が開き空気が入ってしまえば、そこから菌が発生する。急遽対応に迫られた大塚食品は、翌1969年、新たにポリエステル・アルミ箔・ポリプロピレンの3層構造パウチを開発し、採用。これによって穴開きの問題が解決し、賞味期限は2年間まで延び、現在のような「ボンカレー」が完成したというわけ。
その後、ハウス食品やエスビー食品をはじめとする各社が相次いでレトルトカレーを開発。ボンカレーに続き、レトルトカレー市場はたちまち超激戦区となっていった。

ちなみに、レトルト技術の生みの国であるアメリカでは、アポロ11号の宇宙食として採用されたものの、日本のように家庭用としてレトルト食品の開発が進むことはなかった。
現在でも、アメリカやヨーロッパなどの欧米諸国には、レトルト食品というものはあまり家庭に見あたらない。これは、欧米の食事の調理というのが、ローストなどのオーブンを用いる方法が中心で、日本やアジア諸国のように茹でたり蒸したりする習慣があまりないからだといわれている。「鍋でお湯を沸かして、そこにパウチを入れ、3分温める」といった行為が、彼らにはあまり馴染まないのだろう。アジアで日本を中心にレトルト開発競争が進む中、大型の冷凍冷蔵庫が早くから普及していたこともあって、欧米ではレトルトよりも冷凍食品のほうがずっとメジャーとなって広まっていったのである。

歴史的カレー! スペースシャトルで宇宙を飛ぶ

1998年、五島軒が販売するレトルトパックの「函館昆布カレー」が、宇宙に進出した。NASAより打ち上げられたスペースシャトル「ディスカバリー号」に乗り込んでいたのだ。宇宙飛行士の若田光一さんとともに。
北海道函館市末広町の五島軒は、1879年開業。なんと120年以上の歴史を持っている。当初はパン屋とロシア料理の店として創業し、店名は初代料理長の五島英吉さんの名前からとられているという。しかし、開店当初は西洋料理に馴染みのない時代だったため、オムライスやハヤシライスなどといった、ご飯とあわせたメニューが中心だった。中でもカレーは最も人気を呼んだとか。

そのカレーとは、鶏がらや焼いた牛骨、野菜を石炭ストーブで1日煮込んだブイヨンと、イギリスから輸入したカレー粉で作ったもの。イギリス、フランス風のビーフカレーと、インド風チキンカレーの3種類を展開したという。そして、2代目店主の若山徳次郎さんが帝国ホテルで学んだ技術で手を加え、北海道の風土にあった材料を使った「函館・五島カレー」を完成させたのだ。
現在、五島軒のカレーは、レトルトパックを通して全国に広まっているが、しっかりとその味を継承している。歴史ある名店のカレーはおよそ120年の時を経て、未来の宇宙への旅を体験したのだった。

日本のカレー文化中興の祖・横濱カレーミュージアム

独特の非日常的な空間の中で、歴史や文化を肌に感じながら、全国の名店の味が1ヶ所で味わえる──。
フードテーマパークは、デートに休日のお父さんの家族サービスに大人気のスポットだ。2019年現在、こうしたフードテーマパークが日本には約30存在し、営業を行っているという。
その中で「新横浜ラーメン博物館」と並んで全国的にも有名だったのが、「横濱カレーミュージアム」だろう。ラーメンとカレーという日本の2大国民食を取り扱っているだけに、両者の人気はやはり別格だった。

「横濱カレーミュージアム」は、カレー伝来の地・横浜に、2001年にオープンした。当初から全国の有名店を積極的に誘致し、定期的な店舗入れ替えによって、様々な種類のカレーを世に紹介。今やカレーの新たなあり方として完全に認知されたスープカレーも、カレーミュージアムがイベントなどによって積極的に「スープカレーブーム」を作り出そうと尽力した結果、現在の隆盛を誇っているのである。ご当地カレーブームもご当地レトルトカレーブームも、このミュージアムの功績である。

お店の他にも、館内にはカレーの歴史を紹介するコーナーや懐かしのカレー商品の展示、全国レトルトカレーやオリジナルカレーグッズの販売など、カレー好きの人ならば興味深く楽しめる内容が満載。関東圏を中心に大きな話題を呼び、オープン以来、延べ1千万人近い入場者を集めた。
残念ながら、事業期間の満了に伴い、2007年3月31日をもって閉館してしまったが、それまであまり一般に知られることのなかったカレー文化の魅力を広く紹介し、日本にカレー発展の道筋を拓いた同館の存在は、非常に意義のあるものだったといえるのではないだろうか。

カレー業界を牽引する専門研究機関があった!

バターチキンカレーやキーマカレーなど、カレー業界では毎年のようにカレーブームが起きている。そのブームを先導し、カレーブームの火つけ役ともなっているのが、東京にあるカレー総合研究所(略してカレー総研)。何を隠そう、筆者である私、井上岳久が所長を務めるカレー専門研究機関だ。
カレー総研の設立は2007年3月。それまで横濱カレーミュージアムの責任者兼プロデューサーを務め、カレー研究の第一人者となった私が、日本人の国民食とまでいわれているカレー文化をさらに盛り上げ、カレー文化の発展、さらにはカレーを通じた日本の食文化全体の向上を図ることを目的として設立した。

具体的にどんな活動をしているかというと、メーカーや流通業と組んでカレー商品の開発をしたり、カレーを用いたまちおこしのプロデュース、イベントの企画、飲食店のプロデュースやコンサルティング、有名カレー店の料理人や料理研究家の派遣事業、料理教室、講演、テレビや新聞、雑誌への情報提供など、多岐に渡る。また、料理で家族や地域のつながりを深める「家カレープロジェクト」や「絆カレープロジェクト」は大きな賛同を集めている。

こうした活動の基盤となっているのが、私が常日頃、専門店を食べ歩いたり、レシピを開発したりしているカレー研究活動。そうした日々の活動を通して、カレーにまつわる人脈や情報が自然と私の元に集まってくるのだ。それらを読み解く中で、毎年、自然発生的に生まれるカレーのトレンドを敏感に捉えることができる。そして毎年、春先に「今年のカレートレンド情報」を資料にまとめて、全国のメディアに発信する。それと共にメーカーや飲食店にも伝えて、起こりかけているブームをさらに盛り上げる後押しをしていく。その結果、夏頃になると、大手飲食チェーンやコンビニエンスストア、スーパーマーケットなどには、その年のトレンド商品が一斉に出揃うというわけだ。

これまでに、ある時期から街のカレー店で、どこもかしこもバターチキンカレーがメニュー化されるようになったのも、オシャレなカフェなどでやたらとキーマカレーが提供されるようになったのも、生野菜とカレーをワンプレートで出す店が急に増えたりしたのも、カレー総研のトレンド情報が火つけ役になっている。もちろん全てをカレー総研が牽引したというつもりはないが、ブームの兆しを敏感に察知し、情報を流して後押しすることで、発信源の1つになっていることは間違いない。そんなカレー業界を牽引する専門研究機関が存在するのだ。

カレーのプロになれる「カレー大學」があった!

カレーはもはや、単なる料理のメニューを超えて、学問になりつつある。そんなカレーについて学ぶための大学が2014年に開校した。前項のカレー総研が主宰しており、その名も「カレー大學」という。
カレーには、幕末に日本に伝来してから第二次世界大戦後に学校給食で国民食に発展していくまで、奥の深い歴史がある。カレー大學ではそうした歴史に始まり、カレーには欠かせないスパイスの基礎知識や、カレールウやレトルトなど商品に関する知識、カレーと社会の関係性。そしてカレーの調理の仕方や実際においしいカレーを食べ歩くことなど、様々な方向からカレーについて学んでいく。通学制とEラーニングがあり、短期間でカレーのことが徹底的に学べる「カレーの虎の穴」とでも呼べるものだ。カレー大學の上には「カレー大學院」「カレー博士インターン」もあり、さらに徹底的に学ぶこともできる。

どんな人が学びに来ているのかというと、既にカレーを仕事にしているメーカーの開発担当者や飲食店の経営者はもちろん、食文化の一環としてカレーに力を入れようとしている料理研究家やフードライター、フードコーディネーター、カレーの知識でビジネスをしようとしている編集者やテレビのディレクター、企画会社のプロデューサーなど様々。中には単にカレーを家でもっとおいしく作りたいという主婦の方や、カレーを会話の潤滑剤にしたいという方、とにかくカレーが大好きで基本からカレーのことを学びたい方もいる。

カレー大學院を修了すると、カレープロデューサー、カレーインストラクターとして活動ができる。カレー大學の講座で講師をしたり、カレーイベントの企画や商品開発など、カレーでビジネスができる実力がつく。カレー博士インターンを修了すると、カレー総研の研究員としてテレビや雑誌のメディアなどでも活動できる。
これまでにはカレー専門店を開業して人気店に成長させた卒業生や、自身が経営するラーメン屋やフレンチでカレーメニューを提供するようになった卒業生、日刊でカレーニュースを配信するのを仕事にした卒業生、元グラビアアイドルから料理研究家に転身した女性やカレーアナウンサーを名乗るようになった女性など、多くの卒業生がそれぞれの道で活躍をしている。

でも、どの人にもベースとして共通するのは「カレーをもっと知りたい」という純粋な気持ちだ。カレーのことを知れば知るほど、カレーはおいしくなる。このことは間違いない。

*   *   *

第一章はここまで!
続きを読みたい方は、各電子書籍ストアにて発売しておりますので、是非お買い求めください。
下記リンクはAmazonストアでの商品ページになります。書籍の詳細と目次もこちらからご覧になれます。
書籍『CURRY BIBLE(カレーバイブル) カレー好きであれば知っとくべき知識満載の教科書』

著者プロフィール

井上 岳久

株式会社カレー総合研究所/代表取締役、カレー大學/学長

1968年生まれ、カレー業界を牽引する業界の第一人者。
横濱カレーミュージアム・プロデューサーを経て現職に至る。横濱カレーミュージアムを立ち上げ、2002年11月にプロデューサーに就任し、入館者数減少に悩む同館を復活に導く。カレーミュージアムでは新店の実に8割の店舗を誘致し、石鍋裕や平野寿将などの有名料理人の店舗もコーディネートし、さらにレトルトカレーを全国から約1千種類以上を取り扱った日本初のレトルトカレーミュージアムを開設した。2006年に独立し、カレー総合研究所、2014年にカレー大學を設立し、現在に至る。

カレー研究の第一人者で、カレーの文化や歴史、栄養学、地域的特色、レトルトカレーなどカレー全般に精通している。インドや英国、東南アジアに何度も足を運び海外の世界カレーにも深い知識を有する。日本全国のカレー店8千店舗以上を制覇し、レトルトカレーは約7千種類以上を収集し、カレーを知り尽くしている。全国のカレー店に幅広い人脈を構築しネットワーク化している。スープカレーやフレンチカレー、キーマカレー、カレー鍋、バターチキンカレー、スリランカカレー、スパイスカレーなどのブームを巻き起こしたことでも有名。商品開発も定評があり、1千以上ものレシピを開発。加工食品は大手メーカーを中心に100品以上を企画販売し、いずれもヒット商品になっている。
代表作としては、「デリープレミアムレシピ」(ハウス食品、レトルトカレー)、「横濱フレンチカレー」「黒カレー」(江崎グリコ、レトルトカレー)、「ザ・カレーパン」(ローソンオリジナル)」、「極みキーマカレーパン」(サークルKサンクス)」(山崎製パン、調理パン)、「究極の萬カレー」(小学館、冷凍カレー)などである。

著書に、『カレーの経営学』(東洋経済新報社)、『おとう飯カレー』(徳間書店)、『スパイスカレー』(技術評論社)、『一億人の大好物 カレーの作り方』、『国民食カレーで学ぶもっともわかりやすいマーケティング入門』『カレーの雑学』、『男に捧げるこだわりのカレーレシピ』(日東書院本社)、『無料で一億人に知らせる門外不出のPR戦術』(明日香出版)、『日本全国ご当地レトルトカレーカタログ』(ダイヤプレス)、『カレーパンバイブル』(芸文社)、『カレーを知り尽くした第一人者が教える! みんなに話したくなるカレー物知り学』(ごきげんビジネス出版)などがある。連載などの執筆も多数。

慶應義塾大学、法政大学卒。中小企業診断士。中小企業庁・地域観光資源活性化アドバイザー、各商工会議所及び商工会の経営指導員、経済産業省・関東経済産業局ネットワークアドバイザー(2011年、2012年)、農林水産省認定地産地消の仕事人。加須市観光大使、加須市観光ビジョン策定委員、「子供の食育」推進フォーラム実行委員、日本広報学会会員。昭和女子大学・現代ビジネス研究所 研究員。事業創造大学院大学客員教授。

■株式会社カレー総合研究所
http://www.currysoken.jp/

■カレー大學
http://www.currydaigaku.jp/

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?