#2 日本の異常な痩せ信仰
日本は生きづらい。
私は人生の中で他人より痩せていたことがない。
いつも他人と比較して“少し太っている”という認識がある。
子どものころは、そんな自分が本当に嫌だった。
しかし遺伝だから、と28年間もことわり続けていると、
容姿で勝負しない自分、中身を磨こうと努力する自分が偉く感じられてきて、そんな自分も好きになれるようになってきた。
わ~こんな顔になれたらな~と思う女優やモデルはたくさんいるが、
今世は今の顔で人生を進めていこうと思っている。
そんな万年ぽっちゃり(Xではもはやデブと言われるレベル)な私が一番痩せていたのは、高校3年の受験期だった。
大学受験の時、私は約1年で偏差値を30ほど上げた。
受験前があまりにも酷かったこともあるが、焦燥感をばねにして勉強していれば、
やればやるほど伸びていく成績に、努力の楽しさを感じハマった。
ただただ勉強しかしなかった1年間で、ほとんど誰とも遊ぶことなく、勉強に打ち込んでいたら痩せた。
この時痩せたくて痩せたというよりは、時間を忘れて勉強しまくっていたら、思いのほか痩せていってしまった、という表現が一番正確である。
1年前よりも15キロ以上痩せてしまい、おなかがペタンコになり、顔がこけたほどだった。
そうして痩せた1年だったが、私はそんな自分に満足することはなかった。
なんともかわいさがなくなったのである。
その前の自分がかわいいと言いたいわけではなく、なんとなく覇気や元気のない感じ、
不健康で人づきあいが悪そうな人間が出来上がったのである。
まったく、かわいくなかった。
それから大学に入学し、健康的な生活(?)を手に入れたことによって、みるみるうちに体重は元通りになった。
人間の体は風船だ。一度膨らませた風船は完全に元のサイズに戻ることはない。
しかし私はそんな自分が少し愛らしく思えて、今もそんなサイズの自分を続けている。(笑)
今の日本では、異常なほどの痩せ信仰が蔓延している。
SNSはもちろんのこと、電車に乗れば、街を歩けば、右に左に“痩せ”が満ち溢れている。
「最近太ってさ~」「痩せなきゃダメなんだよね~」「太もも太すぎて死ぬ」など、会話の入り口に太った?痩せた?を持ち出す人も多い。
日本中の会話を調査してほしい。天気の話の次に人気な話題なのでは?と思うほどである。
それらとずっとかかわっていると、痩せていることがいいこと!を通り越して、痩せないとかわいくない!痩せないと死ぬ!みたいな感覚に陥る。
無論、そんなことでは死なない。(健康に被害を及ぼすほど太っているひとは除く)
私はこういった会話に対して、疑問を抱いている。
これは私がじんわり太っているからなのかもしれないが、他人の太っている/痩せているに口だしをするのは、デリカシーがなく考えを巡らせていない無価値な会話だと思う。
もちろん、筋トレをしている/ダイエットをしているという人に対して、
前より体引き締まっているな~!!と感心することはある。
しかしそれは痩せているからすごい!のではなく、鍛え上げられた身体の裏に見える汗まみれの日々の努力がすごい!と思うだけだ。
今の日本の痩せ信仰は、日本の教育に起点すると考えている。
東京で小学校1年生の子どもを持つ親が言っていた。
この例は学校側にも言い分があると思うが、
(公立小学校なので進度ひとつにしないと授業そのものがカオスになることは目に見えているので、その進め方をしていることに文句を言いたいわけではない。本当に理解はできる。)
この話を聞いた時、自分のころと何も変わっていない教育に何とも言えないむずがゆさを感じた。
みんな同じ、みんなと一緒、向かう先ひとつ。
無意識下で周りとの比較をされ、時には伸ばされ時には頭を打たれる、
そんな平準化された教育が、『他人と違うことがマイナスである』ことを意識する原点にあるように思えた。
周りと一緒でなくてもいい。
少し違うことも楽しめばいい。
ゆっくりでも、はやくてもいい。
自分の好きなことをじっくり考えられればいい。
となりの誰かとあなたは全く違う人間なのだから、一緒になるわけがない。
合わせる必要もないし、自慢する必要もない。
他人と違うということは、これから先の人生で一番輝く個性を伸ばす入り口である。
他人と違うということに、おびえる必要もなければその意味もない。
何十年か先の日本で、この異常な痩せ信仰がなくなっていることを夢見ている。