見出し画像

マネージャーがメンバーを正しく評価できるなんて、おこがましい。

しゅんしゅしゅんです。

マネージャーのみなさん。メンバーを正しく評価できていますでしょうか?

どの会社でも毎年少なくとも1回は、マネジメント層が集まり、社員ひとりひとりのパフォーマンスとポテンシャル、キャリア目標や育成ポイントを討議しながら、昇進や昇給、ボーナスなどの重要な決定を下す、そんな会議がありますよね。

名称は、育成会議、評価会議、考課会議、タレントマネジメント会議など、呼び名は色々あるでしょうが、その場でメンバーを正しく評価できていますか?

できっこない。

人は他人を正しく評価できる。なんてことは大嘘らしいです。

なんてことが、この本に書かれています。

仕事に関して盲目的に信じられている9つの嘘について書かれている本なのですが、6つ目の嘘として、「人は他人を正しく評価できる」は嘘であると言っています。

「わりと正しく評価できている」と自信がある方もそれなりいるかもしれませんが、自分のこととなるとどうでしょう?

自分が参加することなく自分の評価が下される会議。この場で自分が正しく評価されていると自信をもって言える方は少ないのでは?

その懸念はどうやら正しいらしいです。

人が他人を正しく評価できない理由はたくさんある。

■評価者立場因子…
評価者が上司なのか、部下なのか、同僚なのかで影響が出る
■一般因子…
全体的に仕事ができると見なされている場合、全項目で高い評価がつきがち。ハロー効果みたいなもの。
■側面因子…
特定分野にすぐていると見なされている場合、そこに紐づく項目で高い評価がつきがち。

こんな要因はもちろんあるけど、一番の要因は「評価者特異効果」と呼ばれるものらしい。つまりは評価する人自身のものの見方の特徴がよくでるといったもの。わかりやすくいうと甘く評価しがちな人がいれば厳しく評価しがちな人もいる。また1~5段階評価だとすると自然にスコアを分散させがちな人もいれば、スコアを狭い範囲にとどめがちな人もいる。そういったことだ。

なるほど、ありそう。

僕も考課会議に出席することがあるが、悲しいかなその会議で正しく評価ができていると言い切る自信はない。

評価者一人の判断に寄らないよう、出席者全員で横並びを意識して討議はするが、評価者のプレゼンに寄るところが大きい。

その評価者の声が大きければその人の評価が他の出席者から是正されることは少ない。またハロー効果的なことも働く。その評価者であるマネジャーができるマネージャーだと見なされている場合、その人の評価も正しいだろうという空気が確実に流れる。

相対評価である以上、評価を分散させないといけないシーンがあるが、厳しい評価でスタートする人と甘い評価でスタートする人はどうしても公平ではない。つまり最初に該当メンバーのマネジャーの評価がどの地点で始まるかによるところは大きい。心理学でいうところのアンカー効果だろうか。

評価を分散させる時に誰かと誰かが競った時も、甘い評価を下すマネージャーの方が強い。なぜなら厳しい評価のマネージャーは競った時に「まあ彼にはこんな悪いところもある、まだまだな部分もあるし」と発言しちゃったりする。「今回はいいか」と自分から勝負を降りがちだったりもする。

そもそも考課会議をプレゼン勝負だと思っているのが間違えだったりもするが、そのような様相を呈している。

なにより思うことは、別の部署のメンバーのことなんて結局はよく知らないから、一番近くで見ているマネージャーに任せるしかないという気持ちもある。


そんな中、マネジャーが正しく評価できるための打ち手は2つある。

①各項目の評価尺度の定義を明確にして詳細に評価者にインストールする。

②360度評価的なものを導入する(要は一人ではなく大勢で評価する)

恐らく、この2つを導入している会社は多いことだろうと思う。

もし導入してなかったら儲けもんだ。なぜならこの2つは機能しないから。

①が機能しない理由は、詳細にすればするほど複雑性をました尺度を前にして評価者が行うことは、安心できる自分の評価パターンに戻ることだからだ。

そして、そもそもビジネス世界における評価項目はどこまでいっても抽象度が高い。

5段階評価の4は、状況に関する重要な情報を取得し、主要目標に集中し、問題解決のために取り得る妥当な対応策を認識し、適切な行動自身を主体的に選ぶことができる。このようなことを上司の助けなく実行することができる

などとどれだけ文章を長くしても抽象度が高く、評価者自身の経験と考え方、つまり自分独自の意味を評価基準に注ぎ入れてしまう。いや注ぎ入れざる負えない。

②が機能しない理由は、たしかに集合知という考え方がある通り、1人の天才よりも事情に通じた大多数のほうが賢い。たしかにそういう1面もあるだろう。しかし、ここで重要なのは「事情に通じた」の部分だ。

僕自身の経験のところでも書いたが、そもそも他の部署のメンバーのことなどよくしらない。つまり事情に通じてない。

以上、どうしたって、何をしたって人は他人を正しく評価できないらしい。

たしかにそんな気がしてくる。多分そうなのだろう。

では他人を正しく評価できるが嘘ならば、ホントはなんなのか?

それは、人は「自分の経験」なら正しく評価できる、だ。

誰かが何かの能力や資質をもっているかどうかを尋ねる代わりに「もし〇〇なら自分はどうするか?」と尋ねる。他人のことを尋ねるのをやめ、回答者自身について尋ねるのだ。

そうすれば、信頼性のあるデータが取得できる。なぜなら自分自身の反応だからだ。

例えば、パフォーマンスを評価する時に、パフォーマンスの定義が評価者自身のものだから、それに照らして他人を正確に評価することはできない。

その時はこのような質問をする。

「並外れた成果を挙げたい場合、必ずこのチームメンバーの力を借りますか?」

メンバーの成長余力や将来性を問うには「もしも可能であれば、このチームメンバーを今日昇進させますか?」と評価者自身の意図を尋ねる。

協調性という資質を評価するのではなく「できる限りいつもこのチームメンバーと一緒に仕事をしたいと思いますか?」と評価者自信がどう感じるかを尋ねる。

評価者自身の経験や感情、評価者自身が意図する行動だけを尋ねる質問をするのだ。人の評価において客観性の追求はバグを生み、主観性の追求こそが信頼性に足るのだ。

本書の一部を抜き出してここに記載する。

実のところ、あなたは会議室で本当の自分が評価されることなど望んではいないはずだ。

会議室にいる誰かに、あなたという人間を測るための、信頼性のある尺度をもっている、などと主張してほしくない。あなたは業績評価がたった1つの数字で表されることに反発するように、あなたの重要な能力をすべて捕捉していると声高に喧伝する新しいツールにもきっと反感をもつだろう。

そうしたツールがあなたの本当の姿をとらえることは、今もこれからもけっしてない。

あなたが会議で話し合ってほしいのは、あなたにとっての真実ではなく、ただの真実だ。

あなたという人間を不遜にも見抜こうとするデータによって、自分を表してほしくなどない。そうではなく、あなたに対するチームリーダーの反応を、単純かつ信頼性のある方法で謙虚にとらえるデータで、自分を表してほしい。

そのデータはあなたではないし、あなたのふりをするべきでもない。それはチームリーダーが何を感じているか、今後あなたについてどのような行動を取るつもりかを表している。

それだけで十分なのだ。本当に。

はああ、自分を表すのではなく、自分に対する周りの反応で、自分を表してもらうか。

なんか、まだ消化しきれないが、とても大事なことを書いている気がする。

相変わらず、なんて考えさせられる本なのだろうか。

この記事が参加している募集

読書感想文

最後まで読んでくださりありがとうございます!面白かったらスキ!超おもしろければサポートいただけると嬉しいです!これからもがんばります。