難病が持病になる。介護についての家族会議【大学病院血液内科3日目】

血液内科に移動してきて2日、ちょっとずつ慣れ始めてきた面会前のルーティン。アルコール綿で体温計を拭き、音が鳴るまでの間に面会簿に名前を書く。ピピっと鳴って取り出してみると表示は39.6。

さ、39.6℃???

いやいやいや、そんな熱があったらここに来れないでしょ?全然ピンピンしてるのに、ワタシの方が病人になっちまう。

受付のお姉さんに『あの〜すみません。流石にこんなにはないかと…』と体温計を見せながら遠慮がちに申し出てみる。

『そうですよね〜。39℃あったらフラフラですよね(苦笑)』

もう一度測ってみてくださいと言われて測り直すと、2回目の検温は37.0℃…あちゃ〜。平熱、高めなんだよねワタシ。

受付のお姉さんが看護師さんに確認する。多少冷や汗をかきながら平熱が高いことを伝えると、冬は着込んでいるから熱が籠ることもあるんですよね、と看護師さん。念のため面会時間を短めに〜とこれまた遠慮がちに言われながら、無菌室へ続く通路を進んだ。

とにかく無事に通れてよかった…なんだか関所みたいだな。

風邪やインフルエンザが流行る季節でもあり、病院全体が面会は短く少人数(3人以下)で、お子様はご遠慮くださいなどいろんな面会制限が加わっていた。そしてこの血液内科病棟では「ご家族以外の面会は病室ではなく食堂でお願いします」という追記がある。そして父は病室を出ることができないから、必然的に家族以外は面会できないということになっていた。

食堂ではいろいろな方が面会を楽しんでおられた。でも今までとはなんだか景色が違ってニット帽を被っている患者さんが多い。それは血液のガンを患う方がおられることを意味していた。

救命病棟やICUとはまた違った意味で、重篤な「持病」と闘う方々がいる。ここはそういう場所なんだな…と、ちょっと切ない気持ちがわき上がる。

輸血&透析離脱後の父の変化

体に溜まった水分を除く目的もあった透析を外して1週間、父のお腹は腹水によってまた膨れ上がっていたけれど、その他の症状は少しずつ落ち着いてきていた。

炎症反応が下がり、クレアチニンの値が下がっていることで腎機能の回復を示している。あとは利尿剤の効果で尿として水分が排出されるのを待つしかないのかもしれない。

お腹が苦しく、下痢も治まっていなかった父は水分や食事をずっと嫌がっていたけれど「薬」と先生に言われて前向きに取り組んでいた。”ゆかり”なんて元気な頃には手を出さなかったのに、想像以上に美味しかったと話す父を見て「このまま食べることや飲むことが楽しいと感じてくれるといいな」と思った。

血小板の数値が低いことは私の中ではひとつの恐怖だった。血が固まらず出血傾向が強まり、脳や重要な臓器で出血を起こせば救命できない可能性もある、とずっと言われ続けてきたから。透析のための中心静脈のカテーテルを外せば、2日は余裕で血が止まらない。両腕の点滴の後にできる内出血は手のひらサイズほどにもなり何日も消えることがない。

だから父の大好きな歯ブラシも柔らかめのものに(強制的に)変えて歯茎から出血しないように気をつけていたし、出血斑?と言うのだろうか、アザや内出血、中には血豆のようなものができると注意して見るようになっていた。

父の場合、右目の下、いつも同じ場所に小指の先程度の大きさの血豆がたびたびできる。父は鏡を見ない(持ってくる?と聞くといらないと言われた。見たくないのかもしれない)ので、知らずに顔を擦り血豆から出血していることがあって私をヒヤヒヤさせた。

とにかく「できるだけ流血しないように」と注意していたつもりだった。

だから先生から『輸血なしで1万に上がったのは初めての良い傾向だ』と言われた時、あぁそういう見方もできるんだと妙に安心したのを覚えている。素人は、血小板が足りないのに輸血しないで大丈夫なの?とか思っちゃってたからね。

大学病院に来て1ヶ月が経とうとしている。重症ゆえのいろんな苦しさがこれまで何度も父を襲ったけれど、少しずつ良くなっていると思えるようになったのは、先生の治療のおかげだし、父のがんばりのおかげ。奇跡に近いと私は思ってる。

妹が合流。リアル家族会議

この日、年が明けて初めて家族3人が揃うことになっていた。暖冬の今年、珍しく冷たい風と雪が舞っていて、妹が無事に来れるかと父はヤキモキしていたようだった。

家族LINEでやりとりしながら、父に到着の連絡。面会時間まではこれまでの経緯を話しながら妹と一緒に昼食を取った。

父が地元に帰る希望を持っていない(もしくは諦めた)という話はすでに妹にしてある。だから話題はもっぱら「父の退院後の拠点」について。私の自宅近く(大学病院のある地域)で過ごすのか、妹の自宅近く(エリアが離れる)で過ごすのか、どちらが父と治療にとってベストなのかを2人で話し合った。

私たち姉妹はともに結婚しているが子はいない。この部分については父に申し訳ないと思う気持ちがないわけじゃないけど、いろんな想いを抱えながらもお互いこれまで夫婦2人の生活を選択し続けてきた。

また双方のダンナの親もまだ若く、お義父さんお義母さんともにご健在で、幸いケアが必要な状況ではなかった。私たち姉妹の両家にとって今回が初めての「親の介護」になる。

そういう環境もあり、お互いのオットからの協力を得られる中で私も妹も「父が望むベストな選択を」と考えられたのは、私にとって本当にありがたかった。こんなところで家族や親族間で揉めるのは絶対に嫌だ。ムリ。耐えられない。

ただ、「初めての介護、経験がない」という壁が私たち姉妹の前に立ちはだかっていた。そもそも「何がベストなのか」という問いに正解が見つからない。これからどんなことが待ち受けているのかわからない。想像がつかないのだ。

そしてそれはたぶん父も同じなんだと思う。「どうしたい?」と聞かれてもきっと大半のことが「わかんない」となるはずだ。経験したことがないんだから。

つまり、わからないながらも家族3人で「ウチにとっての正解」を見つけていかなきゃいけない、ってことなんだよね。

私も妹も「どちらに父を呼ぶことになっても、何らかの形で受け入れられる」ということで合意し、父の希望を聞いてみようということでランチミーティングを終えた。

ノックして無菌室の扉を開けると看護師さんが3人で父を取り囲み、何やら処置をしていたようだった。慌てて扉を閉め妹と20分ほど廊下で待つことに。それでも久しぶりの再会は比較的無事に進めることができた。前回、妹は病室に1時間も入れないという苦行を強いられていたから「無事に」という表現がぴったりだ。

あけましておめでとう、の挨拶と久しぶりの再会を楽しむ。まわりでぼちぼち荷物の整理をしながら2人の再会のために時間を作り、ひとつしかない椅子を妹に譲って窓際にもたれかかっていると、父が今後の話を切り出した。

ちょっと予想外。私から切り出すつもりでいたのに。

この話、私の中ではおおよその結論は出ていた。治療はおそらく一生ものになっていく。TAFRO症候群が父の持病になる、ということだ。だったらこのまま同じ大学病院で、ある程度経過のわかる先生に診てもらえるのが父の治療にとっては一番いいはず。だから大学病院の近くに住んでいる私が父を呼び寄せ、メインで父を支えていくのが良いだろうと思っていた。

妹も私も「どちらかの近くに住んでいるほうが安心」と思っていることを父に伝え、その上で将来は、今治療しているこの地域に移住する方向を提案してみた。

父も妹も、ほぼ同じ考えだった。

「気にしい」な父は、離れて住む妹が「自分は役に立てない」と落ち込んでしまうのではないか、と実は気を揉んでいたと後で聞いた。ホントにどこまで気を回す人なのだろう…と思うけど、妹がそう考えないという保証はない。もしかしたら私に言わないだけでそんな気持ちもあったのかもしれない。

いつだって父には敵わない。思いの深さも、視野や想定の広さも、度胸も覚悟もみんな、私は父に支えてもらってこれまで歩いてきた。今も、たぶんこれからもそうだ。

この日の夜、父の申し出もあって私と妹、そして私のオットも交えてささやかな新年会を開くことになった。おいしいお肉とお酒を囲む姉妹の満面の笑顔をオットが写真に撮ってくれ、父にLINEで送る。

私たち2人、そして2人を支えてくれるそれぞれの夫に、父は感謝の気持ちを伝えてくれた。私たちが楽しい時間を過ごすことを喜んでくれる父。それは決して父が病気になったからではない。今までもずっとそうだったのだ。

これまで40年以上、その大半は男手ひとつで娘たちを守り支えてくれた父を、私たちはどこまで支えることができるだろう?

この夜、全然酔わなかったのは、肉を焼くことに専念しすぎてゆっくり飲みすぎたハイボールが水のように薄まってしまったから…ではないかもしれない。

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