ほんとうはめちゃくちゃショックだった「親の老い」【大学病院血液内科4日目】
大学病院にお世話になるなんて人生で初めてだ。いまだにシステムというか、私の知っている病院のイメージと違うところが多すぎてよくわからない部分がある。1日の外来患者は数千人単位、圧倒的に規模が大きい。きっと担っている役割や責任も今までかかってきた病院とは全然違うのだろう。
血液内科に移ってきて一番びっくりしたのは、ベッドの柵に掲げられているネームプレートに6人ほどの担当医の名前が書いてあったことだ。誰が主治医なのかまったくわからない。順番的に一番最初に書いてある先生が偉い先生なのだろうというのは想像がつく。ただその先生が父の主治医かどうかはわからないのだ。
医療関係者である義弟(妹の夫)から、大学病院の病棟はチームで担当していることが多いと聞いた。研究をする教授、臨床を受け持つ先生、研修医、そして医学生も含め、研究・臨床・教育をまるっとひっくるめてひとつのチーム。
だから病室への回診も3〜6名ほどの先生方がずらっと並ぶ。さらにいつも同じ先生がいらっしゃるとは限らない。一度「院長先生の総回診です」とアナウンスが聞こえてきそうなほど大人数の先生方が病室の前に群れをなしている場面に遭遇した。もちろん総回診の時間には家族は外で待機だ。いや、ほんとドラマの世界みたい…とか思っちゃったけどあれは圧巻だったな。
主治医の先生がわからないというのは、ド素人の私にとっては少し不安だった。冷静に考えれば「どの先生も」父の容体を熟知しておられるはずなんだけど、なんていうかこう、誰に頼ったら良いのだろう…という心細さがある。救命病棟を出て10日経つが、早くもスター先生が恋しくなっていた。
◇
血液内科に来て4日目。利尿剤が効いて尿量は爆発的に増えたけれど腹水はまだ引いている様子が見られない。父のお腹は相変わらず臨月大にパンパンだ。
重湯を口にする、という父にとってはいろんな意味での苦行を乗り越えるのに、大人のふりかけを持っていってあげた。お腹が苦しくて入らない、下痢が怖くて躊躇してしまう、味(重湯ってご飯ではないよね)など、要するに「ほんとうは食べたくない」代物だったようだ。
ふりかけでごまかしつつ、薬だと思って食べている父。心の中で「頑張れ」とエールを送りつつ、1日も早くお腹の苦しさが治まることを祈るしかなかった。
アラフォー娘のホンネ
この日の夜も、妹と夕食を共にした。安い居酒屋ではあったけど、なんだか妹と話がしたくてしょうがなかった。その理由は、帰り際に歩きながらハタと気づいた。どうやら長女さん、誰かに気持ちを聞いて欲しかったみたいなんだわ。
父が25年以上住んでいた地元を離れる、という結論に達した前日。妹とは生まれて初めて「親の老後」に関していろいろと話をした。
《 自慢の父 》
42年勤めた会社で定年を迎えた60歳の時、父は迷わず延長雇用を希望した。父の年代はちょうど年金の満額受給が65歳からに引き延ばされた。空白の5年をわずかな年金だけで賄うのは不安だとも言っていたし、何より「まだ働ける、働きたい」という強い思いが父から感じられた。
そして嘱託社員として3年勤め、『自分はもうやり切った。これ以上勤めてもたぶん”つまらない”』と言い、父は会社を退職した。
父はずっとプロだった。
40代半ばで昇進昇給を伴うマネジメント職へのルートが開かれたとき、「自分は技術者でいたい」とその道を断り、退職するまでずっと貫いた。
50代で関連企業への技術コンサルティングをすることになったときは、日本中を飛び回り、中国、韓国、ベトナムなどの外国も飛び回った。あと数年で定年を迎える父に「技術を伝えるため1年間の出向、住まいは会社の独身寮」と辞令が下りたときはさすがに不条理だと思ったりもしたけど、父は『これは俺の天職だ』と断言し、自身の置かれる環境なんて気にも留めていない様子だった。
父とお酒を飲みながら、そういう話を聞くのが本当に好きだった。退職するまでの10年ほどで400社以上にコンサルティングを実施し『相手の会社や立場ではなく人を見るんだ』『コンサルと言っても技術を向上させるのに必要なのは結局、”人の協力”だ』と話していた父がすごくカッコよくて。
私はずっと、技術者としての父を尊敬していた。
《 ”予想外の弱音”が堪えた 》
退職後の父は比較的のんびり過ごしていた。好きなジムや入浴施設に通い、図書館で本を借り、レンタルショップの時代劇DVDは端から端まで借り切った。週末は関連会社の知り合いとともに「おいしいものを食べる日帰り旅」や「道の駅巡り」をするのが趣味だった。
歳を重ねるごとに、なんだか新しいことにチャレンジする精神が強まったように思う。
60歳を超えてから、知り合いの勧めでモンスターハンターというゲームを始めたときには仰天した。PSPを買い、ソフトを買い、時折画面につられて体が動いてしまいながらも「狩り」をしている姿は、一般的な60代とは一線を画していると誰もが思った。
私が再婚するとき、オットからの初めての挨拶は健康センターの大広間だったし、両家の顔合わせは父がお世話になっているスナックを貸し切って行った。もちろん全て父の申し出であり企画。全員が参加する景品つきのカラオケ大会、自ら言い出した罰ゲームを自分で被り、日本酒にタバスコを入れたおちょこをグイッと飲み干した。
軽自動車を改造し「軽キャン」をしてみたい、と言っていたこともあった。日本中の道の駅を軽自動車の簡易キャンピングカーで回りたい、そんな夢も話してくれた。
その矢先の、突然の発症だった。
今までたいした病気もしたことがない。40年以上続けている運動習慣や長年の一人暮らしでの自炊など、健康にも父なりのこだわりがあった。そんな父から『いつまで運転できるのか…それに、もう地元で一人暮らしは(不安だ)、な?』と言われたとき、私は自分で思っているよりも大きな衝撃を受けたようだ。
元気でいつまでも若い父。冷静に考えればそんなのは幻なんだけど、あまりに突然それはやってきた。45年も一つの会社で技術者として勤め上げ、新しいことにもどんどんチャレンジしていたような父が、病気をきっかけにして自分に限界を感じる「弱ってしまった姿」を見たのが想像以上にショックだったのだ。
父の新たな人生、どこまで支えられる?
『こんなこと、今まで話したことなかったよね。姉とこういう話ができてよかった』3時間以上滞在し飲み放題でたらふくいただいた居酒屋を出た後、妹はそう言った。
確かにそうだな、と思った。
そもそもこれまで約2ヶ月、父は「生きるか死ぬかの闘い」の中にいて、ようやくそれを脱したところ。「弱ってしまった姿」などと言っている場合ではなかったのだ。
突然の病気、しかもそれが100万人に1人の希少難病で、生死を彷徨う重症。そこを乗り越えたのは奇跡なんだ。もしかしたらあの若くて元気な尊敬する父が「一瞬にして」いなくなってしまう可能性だってあった。
体や気持ちやできることは、今までの父と変わっていくのかもしれない。それでも父は父のままだ。闘病中の今も「できることを小さな目標に変え、それを達成する」というやり方でこの疾患と向き合っている。それは父がずっと取り組んできた技術向上のためのコンサルティングとも似ている。やっぱり尊敬している技術者の父のままなのだ。
どんな人でも老いを経験し、いつかは人生の終わりを迎える。体力や気力が弱るきっかけは父の場合突然の病気ではあったけど、誰もが考えなければいけない「親の老い」。
父の新たな人生は、これまで以上に家族や周りのサポートが必要になってくるけれど、それだって父に限ったことではない。人間であれば誰だってそうなのだ。
ちょっと(思っていたより)タイミングが早いだけ、なのかもしれない。
妹と共に考える、父への最大限のサポート。わからないことだらけで正直「どこまで支えられるだろう?」という不安もある。以前と比べてできることが減り本人も私たち娘もガッカリしてしまうこともあると思う。
尊敬している技術者の父ならばどう対処するだろう?
きっと困難な課題ほど真剣に考え、向き合い、柔軟な発想と人の信頼や協力を味方につけ、試行錯誤しながら取り組んでいくはずだ。
妹に話を聞いてもらい一緒に考えてもらえる環境、協力してくれるそれぞれのオットたちや親族、何よりも父本人と相談しながら進んでいける、リソースは十分揃っていると思う。
知らないことは教えを請えばいい。力を貸してほしいとお願いすればいい。真摯な姿勢で精一杯向き合えば、父も新しい人生に希望を見出せるかもしれない。
なんだか私もまた一つ、クエストをクリアした気分だ(笑)
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