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血液内科への転科と、ちょっとショックな現実が見えた「今後の方向性」【大学病院血液内科1日目】

世の中のお正月休みが明けた月曜日の朝、病院から着信があった。父が救命病棟を出て5日。相変わらず着信画面に病院の番号が出るとドキっとするけど、電話の主がスター先生だとわかると内容は何となく予想がついた。

『お正月期間のお父さんの経過はものすごく良好でした。今日、血液内科に転科して病室も変わることになります』

(やっぱり…)

ほっとした。「やっと(専門)治療が始まるんだ」そんな感覚になったからだ。いや、正確に言えば救命病棟でも治療してくれていた。そのおかげで父は症状が少し和らぎ生死の境を彷徨っていたところから脱出できたのだ。

でも、他科の病棟ではなんとなく落ち着かないというか。お正月休み期間というのもあって「宙ぶらりん」のように感じていたんだと思う。

たぶん、そんな風に思ってたのは私だけだと思うけど。

今後の「治療の方向性」確認

これまでの主治医のスター先生はもともとリウマチや膠原病を専門としている先生だ。現在の所属は救急科だけど免疫疾患の外来をご担当していることもあり、血液内科の先生方とも連携をとって父の治療にあたってくださっていた。

スター先生はたびたび「専門の(治療)」という言葉を使っておられた。膠原病は広い意味でTAFRO症候群の親戚のような疾患だと私は認識しているのだけど、やはり血液疾患を専門とする先生の治療を受けてもらいたいと思ってくださっているのかな、と。

病院の内部事情などもあるのかもしれない。詳しいことはよくわからないけど、とにかく「専門の先生に引き継ぎますからご安心ください」というスター先生のご意向を、私はちょっと寂しい気持ちで汲み取ろうとしていた。

(ずっとスター先生に診てもらいたかったな)

これが、私の本音。
でもそういうわけにもいかないもんだよね。

スター先生からは再度「転院(または退院)後の治療方針」についてご説明があった。

今のところ、

・ステロイドとアクテムラを減薬/間隔を空ける方向
・リハビリには時間がかかるため大学病院もしくは転院先で継続予定
・外来は大学病院もしくは別病院で

というのが大まかな治療方針で、転院や退院までの期間はまだあと数ヶ月はかかる見込み。大学病院がある地域が父の地元ではないため、どの地域で治療を受けることを希望しているのか?という点について私は「(今のところ)地元に戻れるように」という方向を先生に伝えていた。

一番の懸念は、継続しなければいけないアクテムラの投与だった。もともとアクテムラはTAFRO症候群に対しての治療薬としては保険適用ができず、類縁疾患のキャッスルマン病やリウマチなどの治療薬として使われているらしい。この薬を「扱うことができる」先生や病院はそう多くはない、とスター先生はおっしゃる。そして私たちの地元で見つけることができるかどうか?というのが最大の課題と説明してくださった。

(これは、もしかして…地元には帰れない?)

スター先生からの電話を切った後、ひとまず妹に相談することにした。

遠隔家族会議、開催

私の相談を受け、妹からは、

『このまま大学病院で治療できるのが一番いいと思う。けど、外来になったら地元に帰してあげたいから地元で転院先見つかるといいんだけど…』

と、返ってきた。妹も私と同じ考えだった。

その上でこんなことも。

『でもさ問題は、地元の病院外来に通うとして、そこまでどうやって行くか?だよね。お父さん、運転できる?介護タクシーとか利用できるのかな?』

(た、確かに…)

正直、そこまで考えていなかった。
父の体の状態がどの程度回復できるのかを考えなければいけない。通院の時には私が地元に帰ればいいか、なんて漠然と思っていたけど、それはあくまで父が「1人で生活できるレベル」にまで回復したら、という条件がついている。

今まで全く考えていなかった未来のイメージが「迫ってくる」感じがした。

『ひとまずは、お父さんの希望を確認しないと、だね』

妹とはその点でも意見が一致した。まずは父の希望が第一。父の意向を明確にしてから今後のことを考えないと、先走ってもいいことないしね。

初めての無菌室

血液内科の病棟は「無菌病棟」と呼ばれ、フロア入口に自動ドア、受付の先に準無菌室(大部屋)が並び、さらにもう一枚の自動ドアに隔たれた奥に無菌室、クリーンルームが配置されていた。

いつも通り受付で名前を書き、手指をアルコール消毒する。そしてその場で体温を測り37℃以上ないことを確認してから先に進むのがこの病棟の決まり事のようだ。大々的に「面会謝絶」と書かれたもう一枚の自動ドアをフットセンサーで開ける。閉ざされたドアが並ぶ無菌室のひとつが、父の新しい部屋だった。

病室の入口扉の内側にひかれたカーテンをめくると、窓際に置かれたベッドに父がいた。室内にはユニットシャワー、手をかざすと水が出る洗面、トイレが完備されていて、病室を出ることなく日常生活が送れるようになっている。なんだかまるで特別室のようだった。

(やっぱり、昨日までの5日間ってなんだったんだろ…)

父は本当はお正月休み期間も「ここまで厳重な管理が必要な状態」ではなかったのだろうか?もしも、ベッドの空きがなかったから、が全ての要因だったとしたら、一般病棟の大部屋にいた4日の間に「何も」なくてほんとうに良かったよ。

…と、父はおそらく思っていない。

何事もなかったように新しい病室で再び「荷物の置き場所」を決め直すことに勤しんでいた父。前日までよりも広くなったスペースをどう使うのか、私も父と一緒に整理整頓をしているうちに、昨日までのことはどうでもいいことのように思えてきた。

我ながらゲンキンだと思うけど「今は」もう安心していられる。それにもっと大事な「今後の」ことを父と話さなくちゃいけない。

荷物整理と身の回りのケアが落ち着いたのを見計らって、私は父に今後の話を切り出すことにした。

向こうで1人で暮らすのはもう、な…

父は本当はどうしたいのだろう?
突然、予想もしていなかった疾患にかかり、ついこの間まで生きるか死ぬかの状態。今後のことなんて考える時間も余裕もなかったとは思うけれど。

スター先生から説明のあった今後の治療方針、そして「どこに」転院を希望しているかを聞かれたことを父に伝え、私は地元に戻れるように進めていこうと思ったけどどうかな?と訊いてみた。

少し黙った後、父はポツポツ話し始めた。

『地元もな…昔と比べるとだいぶ変わっちゃったんだよ。俺、正直もういいかな』

ものすごく意外な返事だった。

転勤によって私たち家族の「地元」になって25年。すでに父の人生の中で一番長く生活してきた土地になった。決して栄えているわけではないけれど気候も良く、車さえあれば住みやすい場所ではある。1日も早く地元に(家に)帰りたいと思っているはず、今までそう思っていた。でも違ったんだ。

ただ、どうやらもう一歩踏み込んだところに別の本音があるようだ。父が続ける。

『俺もいつまで運転できるかわからないしさ…これから何かあるたびにお前たちに地元まで来てもらうっていうのも…な』

なんだか、途端に寂しさが襲ってきた。

ほんの2ヶ月前までバリバリ運転し様々な場所に出かけアクティブだった父が「老い(または病気)による未来の不安」を意識したのは初めてだった。そして何より娘である私自身がこれまで全くそこを意識していなかった。たぶん私は、父と同じかそれ以上にショックを受けたのだと思う。

同時に、母を亡くして以来20年以上ほぼ1人で生活してきた父がどれほどの寂しさを抱えていたのか?ということも含まれているように感じて。

「病気によって、老化によって、娘たちに迷惑をかけたくない」そんな気持ちもあったかもしれない。

いずれにせよ、父の「意外な」発言やそこに込められた思い、そして現実を全て受け止めるにはこの時間だけでは全然足りなかった。

『そうか…じゃあ例えばここ(私が住む土地)とか、あっち(妹が住む土地)に移って過ごしたいと思っている、ってことかな?』という私の確認を父は肯定する。その肯定がなんとなく遠慮がちに感じられたので『そうかそうか!私もその方が安心だよ』と付け加えた。

うん、今日はもうお腹いっぱいだ。
『これから妹とも一緒にじっくり考えて、先生に希望を伝えよう』と言って、話題を変えた。

父は60代半ば、娘は40代前半。その歳で何言ってんの?と言われればそれまでなんだけど、私は「あと10年くらいはこのままいられるだろう」とか漠然と思っていたんだよね。ううん、全く考えてなかったっていう方が正しいかも。

もちろん、ひとり暮らしの父がずっとこのままで…なんてはさすがに思ってない。何かあったときのためにセキュリティを入れた方が良いのか?とか、頻繁に連絡を取り合い、訪ねる頻度も上げていこうくらいは考えていた。

「いつか」とは思ってたけど「まさか、もう?」という感じ。それはほんのちょっと前まで仕事をし、退職後も週に3度はジムや日帰り入浴施設に行き、「”軽キャン”とか憧れるよね」と言っていたような父からは全く想像できなかった【親の老い】に直面したという意味でのショックなんだと思う。

今年はきっといろいろなことが変わっていく。そんな予感とともに、うまく言えないけど「流れに身を任せる覚悟」のようなものも必要な気がした。


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