【BOOK】『転々』藤田宜永:著 人生を振り返り前を向く東京散歩
井の頭公園をスタートし、ゴールだけを決めて東京を東へ散歩するロードミステリー。
借金を抱えた青年・竹村文哉と強面の男・福原愛一郎。
「百万円をやるから一緒に散歩をしろ」という奇妙な提案を受け、文哉は福原とともに歩き出す。
東京散歩を縦軸に、文哉の純愛物語を横糸に、偶然に出会う人々と、さらに絡み合う福原の謎、文哉の人生と家族の謎。
短いけれど切ない人生を振り返り、再び生き直すための散歩は、衝撃の結末を迎える。
東京を散歩するということ
「散策に一番適した場所は東京なんだ」と福原は言う。
田舎の山の中だと、意外と変化に乏しいので飽きてしまうが、街中では一本路地へ入るだけでまったく違う雰囲気になる。
たしかに、最近では低予算で済むということもあってか、テレビでは「街ブラ」と称して街をぶらぶらと散歩するという番組が数多い。
地方から来た人間にとっての東京、特に都心は、どこまで行っても街並みが延々と続く場所、というイメージがある。
地方都市では、中心地こそビルだらけではあっても、車で30分も走ればすぐに建物の数が目に見えて減っていく。
代わりに田畑や山肌や高速道路が見えてくる。
ああ、ここでこの街は区切れるのだな、とはっきりと分かる。
だが、東京はどこまで行ってもずっと建物がひしめき合っている。
区境や県境がどこなのか、はっきりとしない。
だが、車移動ではなく、徒歩移動となると、これまたまったく違った顔を見せるのが東京という街だ。
昔ながらの下町の顔、超高層ビルが乱立し近代化を象徴する顔、タワーマンションが建ち並び階級意識を可視化したような顔、交通が交わり商業施設が集中する顔、などなど。
そういう東京という街を、文哉と福原は歩く。
二人は散歩の途中、お互いの過去を振り返りながら、さまざまな偶然でさまざまな人と出会う。
さながら、過去の人生を上書きしていくような作業である。
途中、文哉の子供の頃の同級生で畳屋の娘・尚美がコスプレに興じる集会へ出向くというシーンがある。
ここではコスプレを、「変身なんて下らん」と福原が吐き捨てる。
さらには、「”自分”なんていうものは”青い鳥”と同じ。どこを探しても見つかりはしないのに、まったく馬鹿な女だ」と散々な言いようである。
著者のメッセージとして、ひと頃流行った「自分探し」に対するアンチテーゼがあるのではないだろうか。
66歳の月光仮面のコスプレをした男が「人間には昔から超越願望があり、現実逃避ではない」ことや「現実と幻想の狭間を生きることを拒否するのは、人としての楽しみを放棄するに等しい」とまで言う。
だが、福原は「れっきとした大人が何をやっているんだ」と呆れている。
その後トラブルが発生したところで「月光仮面が現実に引き戻してくれたぞ」と言う。
いくら幻想に身を任せてみても、現実がなくなるわけではない。
大人になれば現実をきちんと見なければならない。
自分を探している暇があるなら現実を見ろ、というメッセージなのだろう。
著者は1950(昭和25)年生まれ。
私の父母と同じくらいの世代なので、いわゆる「団塊の世代」である。
2023年時点で、ご存命であれば74歳になる年である。
(藤田宜永氏は2020年にご逝去されている)
藤田氏自身は早稲田大学を中退してフランスへ渡り、エールフランスなどにも勤務していた。
当時日本で盛り上がっていた全共闘運動などの学生運動と、どの程度関わりがあったのかは不明だが、おそらくあまり関わってはいなかったのではないだろうか。
かといって、自分探しなど甘っちょろいことを言ってなんになるのか、といった感覚はお持ちだったのか、あまりそのようには見えない。
東京を散歩する道中で、偶然の寄り道先で出会う人々との交流を通して、自分の人生を振り返る。
福原はたびたび文哉の過去を聞き、気持ちを聞き、己の人生をも語る。
そうすることで、結果的に自分というものを獲得・再認識しているのである。
コスプレをしたくらいで、変身はできても本当に自分が変われるわけではないし、コスプレした自分を見ることが自分探しではない。
そのような表面的に違って見えるだけではなく、内面に変化がなければだめなんだ、というメッセージなのではないだろうか。
人を愛するということ、親から愛されるということ
本作の物語の背骨として、東京散歩の道中ずっと貫いているのは、文哉と美鈴の恋模様である。
そしてそれは文哉からの一途な恋の物語でもある。
若い頃の無鉄砲な恋愛というのは、実に滑稽で切なく、危なっかしいものであるか。
自分のこととなるとよく分からなくなるが、こうして他人の小説の登場人物として見ると、実に愛らしく、微笑ましくもある。
文哉はパチンコ屋のバイト中に見かけた美鈴に一目惚れする。
なんとかして接点を持とうと必死になる。
美鈴がストリッパーであることを突き止めると、客として観に行くという大胆な行動に出る。
さらには観に行くだけでなく、猛アタックの末、付き合い、気持ちを深めていく。
この行動力の源泉はいったいどこから来るのだろうか。
ただ若い、ということだけでは説明がつなかい。
おそらく、文哉の中で美鈴はすべてを包み込んでくれる、母親のような存在を見ていたのではないだろうか。
美鈴に厳しい態度をとられても、文哉はへこたれない。
なぜか受け入れてもらえるという前提で動いている。
なにをやっても大丈夫という安心感を持っていることが窺える。
これは子どもが母親に接するときの心理状態と同じではないだろうか。
文哉は生みの母親は家出し、父親には養子に出され、養父は窃盗で捕まり、養母はスズメバチに喉を刺されて死ぬという、救いようのない境遇である。
文哉本人は生みの親に何ら感情を持っていない、という。
養父母に至っては「バーチャルな存在」とまで言っている。
おそらく、この時点ではまだ、文哉は「子ども」なのだ。
無条件で守ってくれるはずの「親」という存在はなくても、自分はなんとかなる、と思っている。
反面、実はやさしく包み込んでくれる母親のような存在を心のどこかで求めていたりもする。
母親に愛されたいという想いは、文哉とバーで逆ナンしてきた年増の女・多賀子とのやりとりで、一晩一緒にいながら何もしなかったことや、田之倉少年と不倫をしていた母親のエピソード、さらには、弱々しい新聞記者の勝田とその支配的な母親のエピソードや、熱帯魚の高橋さんと裕福でありながら母親に理解されず断絶していたエピソードなどで繰り返し語られている。
きっと福原に対しても、文哉は父親の面影を見ていたに違いない。
ベタベタと接することもなく、おっかなびっくり、ほどよい距離感を保ちつつ、それでも離れがたく、いつまでも一緒に歩いていたいと思うような存在に。
東京散歩を通して、文哉は成長する。
しかし、最後まで大人にはなりきれない。
ラストでの、麻紀子への態度は、うれしくもあり同時に悲しくもあり、どうしたらいいのかわからなくなった末の自我の崩壊にも見える。
何が確かなことなのか、頭では分からなくなり、ただ歩くことで踏みしめる足の感触だけが、確かなことの証だったのだ。
映画化
2007年に映画が公開されている。
主演はオダギリジョー。
福原役は三浦友和。
公式サイトは昔懐かしいFlashが多用されている。
予告編を見る限りだが、内容は原作小説とは少し違う部分もあるようだ。
麻紀子役は小泉今日子。
私の脳内では完全に真矢ミキだったのだが。
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