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【BOOK】『法廷遊戯』五十嵐律人:著 正しさのかけ違い

自前のブログに掲載した読書感想文をnoteにも展開する実験です。

【BOOK】『法廷遊戯』五十嵐律人:著 正しさのかけ違い – Crazy One – glad design blog –
Photo by Luke Michael on Unsplash

3人の主人公の「正しさのかけ違い」を描いた作品として読んだ。
法の世界を舞台としたゲーム(遊戯)感覚のリーガルミステリ作品、といえば収まりがよいが、言葉の響きほど軽くはない。
多層的な人間の感情が重なり合いながら、心の壁が形作られ、最後には崩壊する。
そんな哀しく刹那い物語だ。

第62回メフィスト賞受賞!
法廷を舞台にした、衝撃と感動の傑作ミステリー

法曹の道を目指してロースクールに通う、久我清義と織本美鈴。
二人の過去を告発する差出人不明の手紙をきっかけに不可解な事件が続く。
清義が相談を持ち掛けたのは、異端の天才ロースクール生・結城馨。
真相を追う三人だったが、それぞれの道は思わぬ方向に分岐して――?

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3人は法都大ロースクールで出会い、法律家を目指していた。
それぞれの道に進むなか、3人の壮絶な過去が交錯する。
誰にも言えない秘密を抱えながら、誰もが誰かを想っていた。
その想いをそれぞれが「正しい」と確信していたのだ。


同害報復は寛容の精神

Photo by 2H Media on Unsplash

3人の主人公のうちのひとり、結城馨はロースクールに入学する前にすでに司法試験に合格しているという秀才で、同害報復の考え方を基本とした「無辜ゲーム」を考案し、実質的に運営していた。

「目には目を、歯には歯を」で始まるのは『ハンムラビ法典』の有名な文言だ。
タリオの法とも言われ、ハンムラビ法典の196・197条に記載されている。
内容は言葉通りシンプルに「同害報復」という考え方に基づいている。
犯罪に対して過剰な復讐を抑制するため、被害と同等の懲罰にとどめることで、報復合戦の拡大を防ぐことが目的だったと考えられている。
これは、現代の罪刑法定主義の起源とされている。
罪刑法定主義とは、簡単にいえば、法によって予め犯罪とは何か、刑罰はどんなものかを明確にしておいてから刑罰を処するという原則である。
結果的にこれらは公平性や弱者救済を指向する刑罰思想であるとも言える。
と同時に、同害報復の考え方は「寛容」の精神の表れだともいう。
必要以上に罰を重くするのではなく、間違いの多い人間のやることなのだから、寛容な心持ちでお互いに許し合う社会にしなければならないのではないか。
そんな著者の憂いも含まれているのかもしれない。

Photo by Jr Korpa on Unsplash

物語はいくつもの謎を残しながら進んでいく。
いったい誰がやったのか。
なぜこんなことが起きたのか。
どうやって成し遂げたのか。
いくつもの伏線が散りばめられた細部から、徐々に明らかになっていく真実。

やがて、3人それぞれの想いがさらなる悲劇を生み、後戻りできなくなる。
恋心や愛情ではない、別の何か、特別な感情がある。
同情や憐れみではない。強いて言えば「信念」だろうか。
正しさが絶対的ではないからこそ、法がある。
しかし、法とて絶対ではない。

ーーーネタバレ注意ーーー

3人の正義

Photo by Elena G on Unsplash

3人のそれぞれの行動を動機から紐解いてみると、それぞれの行動に整合性が見受けられる。
結城馨は、父親が無実だと信じていただろうし、だからこそ真犯人と司法機関に対する憎悪が拡大していった。
だが、真犯人をほぼ特定した後も、慎重に確信が持てるまで探ることをやめなかった。
無辜の人を陥れないこと、冤罪を作らないことが結城薫の正義だったのだろう。

織本美鈴は清義と一蓮托生、いつも二人で生きてきたし、これからもずっと二人で支え合って生きていくことを望んでいたのだろう。
清義は自分を救ってくれた、という想いが強かったからこそ、共依存のような関係性があった。
自分がどうなろうとも、清義を守らなければならない、と信じていた。
それが美鈴の正義だった。

彼女にとって清義の存在は、自分の身体の一部のようなものだったのかもしれない。
「ずっと二人で生きてきたのに」という美鈴の言葉は、心の奥底から発せられた本心だろう。
清義にとっても同様に、美鈴の存在は大切だったに違いない。
それでも、身体の一部を切り取られるくらいの辛さを伴っても、清義は出頭すべきと考えたのはどうしてだろうか。

久我清義は非常に頭がいい青年で、法律家としても優秀。
理論立てて物事を考えることができる人間だ。
だが、理屈だけで行動するわけでもない。
合理的に考えて何もしないほうがいい、という局面でさえ、無辜の人に悪影響が及ばないように、時には大胆な行動を取ることがある。
合理的に考えれば、関わらない方がいいに決まっているのに、電車の中で痴漢冤罪詐欺を働こうとしていて佐倉咲の行動を止めたりしている。
ラストでは最終的に美鈴を救う唯一の道を辿ることになった。

清義には「きよよし」という発音しにくさから「セイギ」というニックネームがついていた。
過去に重大な犯罪を犯している清義にしてみれば強烈な皮肉であると同時に、自身の罪と向き合うことから逃げてきたツケという意味では「手錠」のような名前だったのかもしれない。

それでも清義は馨と美鈴の、二人の想いをきちんと受け止めることが、自分にとっての正義だと考えていたのかもしれない。
美鈴の弁護人を引き受けたことから、依頼者である美鈴のためになることなら真実さえも伏せる、という覚悟。
馨の意思を慮って、自らの罪と向き合い、法に則って罰を受けることで、正義を貫こうとしたのだろう。

3人がそれぞれ他の2人を想い、それぞれの正義に基づいて行動する。
それだけであれば一見美しいのだが、それが必ずしも相手が望む形とは限らない。
それぞれの正しさが、かけ違ったまま、馨は死を選び、美鈴は内に向き、清義は贖罪に苛まれる。
々しいと呼べるラストだったかと聞かれれば、私は素直には頷けないでいる。

法は絶対的なものではないとはいえ、人々が暮らす上でのルールとして、幸福の希求の助けになっているのだろうか、という著者のメッセージのようにも受け取れる。
馨の父親は痴漢冤罪で自死を選んでしまった。
美鈴は児童養護施設での性的虐待を受けていた。
我々が生きる世界は、法だけでは救えない事実が溢れかえっている。
その事実をどう受け止めるか。
決して簡単ではないが、まずは無辜の人が不当に貶められることがないように、理性を持って周りを見ていくことから始めるしかないだろう。

無辜の制裁

Photo by Julie Blake Edison on Unsplash

「無辜ゲーム」では、「無辜の制裁」という制度が導入されていた。
無辜ゲームで被告とされた者に判決を下した審判者は、被告の罪を明らかにできなかった場合や判決を間違ってしまった場合に、審判者自身が罰を受けるというシステムだ。
これを現実世界の司法制度に当てはめると、裁判所での判決がもし間違っていた場合、つまり冤罪が確実となった場合に、裁判所もしくは裁判官や検察官が罰せられるということになる。
もちろん現実的ではないが、それくらいの覚悟を持って捜査し判決を下すことが、無辜の人を咎めることのない社会へとつながると、馨は信じていたに違いない。
完全ではない人間が人間を裁くには、そうした「覚悟」が、裁く者にも裁かれる者にも必要ということなのだろう。

2023年秋、映画化

『法廷遊戯』は小説からコミカライズされ、さらには映画化もされるようだ。


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