【BOOK】『推し、燃ゆ』宇佐見りん:著 生きづらさを受け入れるために
なんという瑞々しい文体だろうか。
冒頭からその若さが溢れ出ている。
“推し”のアイドルがファンを殴ったという情報がSNSで拡散し炎上する、という風景から物語は始まる。
推しに全ての時間、アルバイト代、興味関心を捧げた先に彼女は何を見たのか。
希望と絶望との狭間で揺れ動く幼年期の終わりは来るのか。
第164回芥川龍之介賞受賞作。
宇佐美ではなく宇佐見、『推し燃ゆ』ではなく『推し、燃ゆ』である。
本作が2作目で、史上3番目の若さでの芥川賞受賞ということで話題になった。
デビュー作『かか』は2019年に第56回文藝賞を受賞、2020年に第33回三島由紀夫賞を史上最年少受賞している。
こういう人を「天才」と呼んでも差し支えないだろうと思う。
「推し」とは何か?
「推し」とは、現代版の宗教的な「神」のような存在だろうか。
元々は「推薦する」という言葉から「推し」という言葉が生まれ、80年代のアイドルオタクの間で使われ、2000年ごろの巨大掲示板2ちゃんねるにおいてモーニング娘。などのアイドルを応援しているファンが使ったことで一気に広まったようだ。
最近では「推し活」という言葉で使われ、2021年の新語・流行語大賞にノミネートされた。
本作の初出は文芸誌『文藝』の2020年秋季号なので、本作によって「推し活」という言葉がオタク以外に浸透したと言ってもいいだろう。
主人公・あかりの「推し」は男性アイドルの上野真幸。アイドルグループ「まざま座」のメンバーである。
こうしたアイドルなどの芸能人の熱狂的なファン活動が「推し活」の典型例だろう。
折下、この記事を書いている時点では、ジャニーズ事務所の創設者ジャニー喜多川氏による長年の性加害問題が大きく取り沙汰された後、事務所は2つの新事務所に分割され、一つは被害者に対する補償のみを扱う会社、もう一つはタレントのマネジメント等を取り扱う会社になったというタイミングだ。
男性アイドルを発掘・育成し、エンタテイメントの世界で華開かせるという、いわゆる「夢を売る」仕事として捉えられていた芸能事務所の裏の顔が白日の元に晒されたこの事件によって、「推しを推す」ということ自体も、裏切られたと感じる人を多く産んでしまったのではないだろうか。
本作が「推し活」の爆発的ムーブメントのきっかけだとしたら、2023年はそれが収束するとまでは言えないが、曲がり角になってしまったタイミングかもしれないとも思う。
とはいえ、「推し活」は広くとらえれば何もアイドルや芸能人だけに限ったことではない。
スポーツをやっている人にはプロスポーツで華やかに活躍しているスター選手に憧れるだろうし、何を置いても応援したいという存在「推し」がいて、「推し」に対して何らかの支援のアクションを起こす人は皆、推し活をしていると言えるのではないか。
そう考えれば、仕事でも子育てでも趣味であっても、多くの人が推し活を身近に感じられることだろう。
音楽に興味があれば、バンドやグループの楽曲を購入したり、ライブに出かけたりすることが推し活になり、漫画や小説が好きならば書籍を購入したり、作家の他作品を読んだりするだろう。
スポーツであれば応援するチームの試合は気になるし、多くの人は好きなお笑い芸人が1人や2人はすぐに思いつくことだろう。
趣味であれば、例えば鉄道好きは「鉄オタ」と呼ばれ、さらに「乗り鉄」「撮り鉄」など「推し」の観点によって細分化している。
「推し」とは現代版の宗教的な意味での「神様」のような存在ではないか、と考えると、それらの行動原理が理解しやすくなるのではないだろうか。
「推し」が発言することは、ほとんど盲目的に信じるし、反対意見があってもそれらを信じることはない。
むしろ対抗して反論することもあるかもしれない。
主人公・あかりは「推し」を「背骨」と表現している。
背骨は身体の中心であり、あらゆる骨と神経が集約され、二足歩行で行動するためにはしっかりと屹立していなければならない存在である。
その背骨のように、「推し」の存在自体があかりにとっては生きていくために必要な存在であると自認している。
何をするのも「推し」の存在があって初めて意味を持っている。
「推し」のライブでグッズを買うことが「推し」を応援することにつながる、そのための資金調達のためにバイトをする。
朝起きて、日中行動し、夜寝るまでのあらゆる行動を「推し」に結びつけていく。
それは意図的にそうしているのではなく、生活の全てが「推し」のためになると考えること自体が自然であるかの如く考えている。
私はここに違和感とともに、ある種の恐怖を感じた。
主人公・あかりの行動は、私のようなおじさんから見れば異常であるし、共感はしにくい。
著者、宇佐見りん氏はインタビューの中で、推し活の無理解に対する憤りが作品執筆のきっかけであると述べている。
「推しを推すこと」が行動原理の第一義にあり、優先順位の上位を占めるというのは、もはや「依存」ではないか、とする見方もある。
「依存」自体は良くも悪くもないのだが、依存しすぎるのは、その結末に「破滅」しかないということを思うと、恐怖してしまうのだ。
本作は「それでも、生きづらさを抱えている人にとっての推しの存在は切実なものだし、推し活することで生きていけるのならそれでいいじゃないか」という主張を内包しているように読める。
もちろん、そうした声にならない声を表現するのが文学なので、決して本作を批判しているわけではない。
主人公・あかりは一方的な関係性であるが故に安心できる、満ち足りている、という感情を持っているという。
これは「依存」とは一線を画す点ではないだろうか。
「依存」は見返りを求める行動だからだ。
あかりは見返りを求めているわけではない、ただただその存在にいてほしいと願うだけだ。
その表情や仕草、声で、そのままそこにいてほしいのだ。
そこにいてくれるだけで、それを「摂取」することで、あかりは生きることができている。
それを他人に説明するために「エネルギーをもらっている」と表現するのだろうが、感覚としては「もらっている」という外部から何かを得ているというよりは、自分の内側から湧き出ているのではないだろうか。
そして、一方的であるからこそ、関係性が安定すると考えている。
見返りを求める関係性だと、見返りが得られなかった時、その関係は破綻する。
相手のアウトプットによって壊れる関係性は脆弱だ。
一方的であれば、相手の行動に関係なく、自分の受け取りだけで関係は完結するので安定性は高い。
「推しが推しでなくなる」時
だが、ひとつ盲点なのは、「推しが推しでなくなる」時が必ず来る、ということである。
推し・上野真幸がファンを殴った、というニュースによって炎上し、人気投票でも1位を取れなくなってしまっても、それでもあかりは推しを推すことを辞めない。
むしろ、自分が支えなくては、という使命感すら感じている。
だが、しばらくして推しは「引退する」という。
推しにただそこにいてほしいだけなのに、そこに「いる」こと自体がなくなってしまうという現実。
「推し」が「背骨」であるならば、「背骨」がなくなってしまうほどの、どうしようもない絶望感である。
日常生活において精神を全て「推し」に向けているあかりは、身体が「重い」と表現している。
身体を精神が完全に分離している様子が見てとれる。
それは、ある種の発達障害、学習障害のような傾向も同時に見られる。
「垢が出るから風呂に入り、伸びるから爪を切る」という行動を「皺寄せ」と見做している。
生きている、というだけで頼んでもいないのに勝手に爪は伸びる。
しかも伸びたところで日常生活に特に意味などない。
すごく役に立つわけでもない。それでも勝手の伸びてくるから切るという作業が発生する。
そのめんどくささが、生きること自体のめんどくささに直結する感覚はとてもよくわかる。
それでも、現実世界は存在し、現実世界には自分の肉体が存在し、「推し」も存在し、生活している。
垢が出たり爪が伸びたりするのは、現実世界に精神を引き戻すためなのかもしれない。
バイトでも忙しくてパニックになったり、学校の勉強についていけなかったり、あかりの「生きづらさ」は発達障害特有のものと結びつきは強いものの、健常者にとってもありうるレベルのものだろう。
その時、垢が出たり爪が伸びたりという身体からのサインに気づくかどうかが、分かれ目なのかもしれない。
気づいて、現実世界に一旦戻れる者と、戻れない者のように。
誰にも理解されないというつらさ
あかりの祖母が亡くなり、海外へ単身赴任していた父親が帰国した際の会話が、家族の無理解を示すエピソードとして描かれている。
誰にもわかるはずがない。
誰にもわかってもらえない苦しさは、子どもだろうが大人だろうが、大小に関わらずあるだろう。
だが、それを解消するのは、結局自分自身の行動でしかないのだと思う。
では、それがどうしてもできない人はどうすればいいのか。
どうすればも何も、自分で考えてやるしかないのだろう。
誰かに言われてやることにあまり意味はない。
自分で答えを見つけ、見つけた答えを正解にするのは自分しかない。
それができなければ、生きていけないと思う。
誰もが、どんな人でも、苦しむことなく生きていける世界、は幻想だろう。
苦しさや辛さを抱き抱えながら生きていくしかないのだ。
綺麗事を言うだけでは現実は変わらない。
そこにアウトプットが伴わなければ。
あかりは苦しさを苦しさとして自覚したつもりでいたが、いざ推しが引退するとなると、その自覚以上の苦しさが襲いかかってきたことから、無意識にか、推しの現実世界の住居近くにまで行ってしまう。
その行動は、精神が現実世界に引き戻されるプロセスのように見えた。
推しの色である青色のスニーカーで歩き、推しの曲、推しの写真を見るが、それはもう「過去の推し」であった。
バスで最寄りまで行くと、赤い郵便ポストや濃い緑の木々が目に入る。
推しの青色のベンチが色褪せて見える、と言う表現も現実世界の「色」があかりに認識できてきていることを示している。
あかりは推しの住居(かどうかも定かではないが)から女性がベランダに出てきただけで逃げるように走り出す。
走る中、墓地を通り過ぎる。
「推し」があかりの中で「亡くなった」ことを示しているのだろう。
家に帰り、散らかった部屋の中、綿棒のプラスチックケースを投げつける。
綿棒が床に散らばる。
綿棒は「お骨」を示し、その「お骨」を拾い上げる。
あかりは「亡くなった」推しを弔う。
もう「あたしの背骨」だった推しはもういないことを受け入れるしかないのであった。
相変わらず身体は重かった。
つまりまだ精神と身体とが上手く一致はしていないけれど、それでも「綿棒を拾った」。
最後の最後に少しだけ希望を残した物語。
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